フェイルの深層に、恥部の中の一つが流れ込む。


 それは――――生物兵器にまつわる記録。

 かつて魔術に対抗する為に生み出されたそれは現在、人間が生物学的にどう変わっていくのかを占う、人類の道標となっている。

 生物学の権威として世界にその名を轟かせたダート=クレストロイは、同時に世界有数の殺戮者として知られていた。
 虫から同胞まで、あらゆる生物の命を奪い、そしてその数だけ生命と向き合った。

 彼には、生命の鼓動と悲鳴が聞こえていた。
 生命が危機を察知した際、どんな反応を示すのか。
 その研究に、人生の全てを費やした。

 生物が侵襲された際、身体には過剰な防衛反応が生じる。
 毒や病に冒されれば、それを除外しようと炎症反応や発熱反応が生じるし、精神的に追い詰められれば、忘却によって辛苦から解放されようとする。
 生物兵器の出発点はそこにあった。

 人間を常に侵襲の状態にする。
 体内に、死の危険を感じさせる異物を混入させる。
 それによって様々な反応を起こさせ、通常ではあり得ない突然変異を人為的に引き起こす。

 この実験に使われた命の数は、到底数え切れない。
 実験体の内部に、別の生物の一部を組み込み、その異物の性質を少しずつ変える事で、反応の違いを見る。
 反応の差異を分析し、より稀有な変異を導き出していく。

 そうすれば、やがて魔術を受け付けない身体が生まれるかもしれない。
 そこまではいかなくとも、魔術に対し特別な耐性が生じるかもしれない。
 トゥールト族と呼ばれる、魔術士に長年迫害されてきた少数民族出身のダートは、一族の妄執を――――背負う事など一切なく、全ては己の好奇心と研究欲を満たす為、突き詰め続けた。

 やがて、魔術を受け付けない性質を持った生物兵器が生まれる。
 人間を媒体とせず、エチェベリアにある地下の洞窟に住むプテロポディーニという有翼種を軸に、幾つもの人為的侵襲を繰り返し、発見に至った。

 一族の誰もが、その発明に狂喜乱舞した。
 だがダートにとっては、単なる通過点――――副産物に過ぎなかった。

 彼は魔術士など眼中になかった。
 目指していたのは、人間を進化させる生物兵器。
 自分の力で、人間という種を一つ次のステージへ導く事だけを考え、数多の命を実験台としていた。

 しかし、そんな彼に自身の方針を大きく転換させる出来事があった。
 不治の病を煩い、余命が一年もないと知った時だ。

 それからダートは、どうすれば死なずに済むか――――すなわち不死の研究に着手する事になる。

 星の数ほどの命を食い潰してきた彼が、たった一つの己の命を惜しむなど、他ならぬ彼自身が誰より驚いていた。
 そして同時に、この心理こそが防衛反応の一種だと判断した。
 自分が一生を懸け費やしてきた研究すらも、その反応の前には霞んでしまうと知り、ダートは自身の正しさを確信した。

 彼が不死の力を得る事なく命尽きたのは、単純に時間が足りないからだった。
 もう少し生きる事が出来れば、或いは余裕があれば、『死なずに済む為には』ではなく、『死ねない身体になるには』という発想に至っただろう。

 死とは、死に抗う防衛反応が全て機能停止した末の終戦ではない。
 身体と心のあらゆる深刻な劣化を拒絶する為の、生命の自然な防衛反応である。
 彼は死の間際、命が萎むのではなく発火するかの如く熱を帯びた感覚を得て、その結論に至った。

 ならば、その逆――――死によって劣化を食い止めるという防衛反応を拒絶する反作用を生命に対し生み出せば良い。

 幾つもの突然変異を経て、ある生物兵器は『反防衛反応』の出現を見る。
 無論それは、ダートの意思とは無関係だ。
 彼を慕って研究を継ぐような人間など、身内を含め誰もいなかったのだから。

 しかし決して偶然の産物でもない。
 ダートが死の淵まで重ね続けた研究は、あと幾つかの偶然が重なるだけで、死ねない人間を生み出す事が可能になる所まで来ていた。
 そして、それは誰かの望んだ成果物ではなく、望まない者が不運にも得てしまう体質として、現世に出現した。


「一言で言えば、これは病。病気と同じなのよね」

 既に何年もの間、そうあり続けた自身の身体を、スティレットは病と表現した。
 つまり、望んでこうなった訳ではないと。

「井戸の水を飲んでそうなったケースもあれば、動物に噛み殺されてそうなったケースもあって、あたしの場合は自ら進んでそうなった。本当は、死ななきゃいけないのよ。どんな生き物も。一通り生きたら死ぬ。そうしないと世界が生き物に食い尽くされてしまうから」

「それがわかってて拒絶した事自体が……病気って言いたいの?」

「仕方ないじゃない。彼がそう言ったんだもの。お医者ちゃんは病気の専門家なんだから、信じなきゃしょうがないのよね」

 フェイルとスティレットは、精神が一体化している。
 当然、感情も繋がっている。
 それなのに――――今のスティレットがどんな感情なのか、フェイルには把握出来ない。

 理由はわかっていた。
 自分の中にはない、異質な感情だったから。
 例え自分の中に芽生えた感情であっても、それがわからない事はあるのだから。
 
「ま、こういう訳だから、生物兵器はなくならないの。あたしみたいに生物の常識を無視して飛びつくのもいるしね。既に人間の歴史にこびり付いちゃってるから、根絶なんて不可能よ」

「……だから、気にせずアルマさんを元に戻す方法を突き詰めろって?」

「そ。何にしたって、まずこの国の王様がご執心な訳だもの。あの方が生き続ける限りはなくならない。あたし達を元に戻す方法ってつまり、生物兵器を消す方法――――突き詰めれば根絶に繋がる方法な訳。それを誰かが見つけようとしても、葬られるに決まってるじゃない」

 生物兵器を除去する方法は、恐らくある。
 だがそれを作り出そうとすれば、必ず消去しようとする勢力が出て来る。
 最高権力者の名の下に。

 それでも何とかなると言えるほど、フェイルは世間知らずではなかった。

「諦めが肝心よ、薬草士ちゃん。あたし達の世界もそう。全てを手に入れようとしてはダメ。全てを手に入れようとしているふうに見せかけて、割と大きな物をこっそり捨てるのがコツなのよね」

「……思ってたよりずっと、普通の人なんだね」

「あら、そう? 嬉しくない言葉ね」

 そんなスティレットの感情とは裏腹に、フェイルは共感していた。
 確かに、何もかも求めて上手く行くほど甘い世の中ではない。
 ましてフェイルは、求めていたものを全て手に出来ず、今もまたそうなりつつある。

 アニスを死への恐怖から解放し、リジルやデュランダルを人間として死なせる。
 アルマとの約束を守る為にも、彼女を人間の姿に戻す。

 どれも正しい目的の筈だ。
 決して私利私欲や利己主義に目が眩んだ訳でもない。
 そう帰結すべき終着点の筈だ。

 だが、全ては叶えられない。
 これもまた現実だ。

「そろそろみたいね」

「え……?」

 意識が遠のいていく。
 世界の恥部から遠ざかっていく。

「貴女は……これで良かったの? ここに辿り着いた意味はあったの?」

 自分でも不思議なくらい、フェイルは自然にそう尋ねていた。
 何故か、最後までずっと席を譲っていたかのように振舞っていたスティレットに。

「そうねえ。スッキリ大満足、とはいかなかったけど、でも仕方ないじゃない」

 声が消えゆく。
 二人の意識が乖離していく。

「あたしは流通の皇女なんだから。"道"を作るのが、あたしの矜恃――――」

 最後まで聞き取る事は叶わず、まるで渦の中に呑まれるようにして、フェイルの意識は再び浮上した。










 

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