「お前など、引き取らなければ良かった」


 


 

 


 ――――深い、深い記憶。


 箱の中に閉じ込め、厳重に蓋をして、海の底に沈めた筈の忌むべき記憶。


 けれど確かにそれは存在して、どのように目を伏せても見失う事など出来ない。


「後悔しているよ。俺は……人生を間違えた」


 譫言なのか、或いは明確な意思をもって呟いているのか、判別するのは不可能。
 病の浸食によって父の意識は完全に混濁していて、正気を保つのが難しいほど衰弱している。
 だが、当時のまだ幼いフェイルが、そんな彼の状態と言動を結びつけるのは難しかった。

 かつて弓使いだったその男は、弓職人として第二の人生を歩み始めた。
 ジェラール村の外れ、森林の中で野生児の如き生活をしていたフェイルを引き取ったのは、決して気まぐれではない。
 気まぐれで子供を養える余裕など、彼にはなかったのだから。

 誰かの面倒を見る行為は、自分自身の存在価値を肯定してくれる。
 この者は自分がいなければ生きていけない、そう思うだけで頑張れる。
 夢破れ第二の人生を歩み、中々上手くいかず途方に暮れていた職人にとっても、フェイルの存在は決して小さくはなかった。

 後継者がいる。
 育てるべき子供がいる。
 それは大人にとって、極めて重要な事だ。

 だが、弓矢一筋で生きて来た職人にとって、子育ては未知の世界。
 その日々は、確かな充足感を生んではいるが、それ以上に精神を磨り減らしていた。

 まして、弓矢という武器が少しずつ、しかし確実に需要を失っている時代にあって、売れる数は減りこそすれ増える事などない。
 人間、経済的に追い詰められ余裕を失うと、どれだけ大事に思っていたものであっても、その輝きを忘れてしまう。

 職人は、初心を見失っていた。
 何故、第二の人生にこの道を選んだのか。
 何故、フェイルを自分の子供にしたのか。


 してしまったのか。


「……引き取らなければよかった。一人なら、倍の飯が食えた。一人なら、ここまで苦労する事はなかった。こんな身体にならずにすんだ。一人なら……一人なら……」 

 意識があるのかないのか、寝たきりになっていた職人は毎日、虚空を眺めながら同じ事を呟いていた。

 子供のフェイルに、重病人の看病など出来ない。
 町医者が好意で三日に一度顔を見せていたが、手の施しようがない状態とあって、体温と心音、呼吸の状態だけを確認し、既に効き目もなくなっていた薬を置いて帰っていった。

 金はない。
 弓矢はもう五十日以上売れていない。
 新しく作る気力も体力も残っていない。

「何故俺は……こんな物に拘っていたんだ……こんな時代遅れの武器に……」

 他にやりようはあった。
 もっと真っ当な人生を送れる道はあった。
 あらゆる選択を間違えた。

 職人は病床で、それを延々と呟き続けていた。
 そうする事が唯一、自分を慰める手段であるかのように。

 フェイルは彼の言葉を、毎日傍で聞いていた。
 自分の存在を全否定する言葉を。
 それは決して、罪滅ぼしでも責任でもなく、単に他に居場所がないだけの話だった。

 病に冒されて以降、職人は一度としてフェイルと目を合わせる事はなく、またフェイルに話しかける事も、語りかける事もしなかった。
 全ては自分自身の悔恨を垂れ流すのみ。
 そのフェイルへの呪詛に、悪意が込められているかどうかすらわからないくらい、ただ淡々と発せられていた。

 日中、フェイルはどうにかして金と食料を稼ごうと奔走していた。
 街中から片道四時間の所にある森林で狩りをして、肉屋に売っていた。
 既に職人の身体は、獣肉を受け付けなくなっていたので、得た金で果実を購入し、食べさせていた。

 だがそれも出来なくなった。
 職人は、フェイルから食事を与えられる事を拒んだ。
 一度も『お前が食べろ』とは言わなかった。

 生への執着がなくなると、悔恨の言葉も呟かなくなった。
 声を発する事すらなく、ただ時折目を開け、そしてまた瞑る。
 世界を呪うように、世界を闇で覆うように、瞼はゆっくり下がっていった。


 職人はそのまま死んだ。
 後悔だけを塗りたくった、そんな晩年だった。
 人生の大半を捧げた弓矢を時代遅れと罵り、大きな覚悟をもって引き取ったフェイルを足枷と切り捨て、吐いた唾を飲み込むような、そんな終わり方だった。

 フェイルに悲しみはなかった。
 憎しみもなかった。
 自分をここまで導いてくれた恩人であり、育ての父である事に何ら変わりはない――――などという崇高な思いではなく、何もかもが麻痺していた。


 だが、思い出す。

 封印した筈の映像が、声が、枯れ果てた怨念が、ありありとフェイルの目に飛び込んできて再現される。

 そして、初心が蘇る。


 育ての父の為、弓矢を廃れさせないよう決意した。
 今際の際に彼が酷評した弓矢を、どうしてもこの世界に残したかった。
 そうする事で、彼が否定した全てを、後悔した全てを否定したかった。

 強さなど求めていない。
 合理性など知った事ではない。
 どんな方法であっても、最終的に弓矢がなくならなければ、それが彼への答えになる。

 ずっと押し黙ったまま、言葉の暴力を浴び続けたあの日々への回答になる。

 それが、フェイルの初心だった。

 だがそんな歪んだ心は、いつしか分厚い膜で覆われ、見えなくなっていた。
 否、見えないようにしていた。
 そうする事で、フェイルは死後も彼を父とする事が出来た。
 
 ねじ曲げた筈だった。
 隠蔽し、隠匿し、捏造した筈の記憶が、異臭のようなものを漂わせ、フェイルの脳裏に蘇っている。
 やけに鮮明な視界の中で。


「これが……僕の目の正体……?」


 自分自身すら誤魔化していた過去が見える。
 鷹の目と梟の目が、その為の過程に過ぎなかったのだとしたら、余りにも残酷で皮肉めいた現実だ。
 自分をここまで生き長らえさせた力が、今は自分を獰猛な牙と毒で蝕んでいるのだがら。


『残念。違うわね。薬草士ちゃんにそんな大層な力はないのよ』


 それは――――内部から響く声だった。
 なのに、自分の声とは全く違う。
 そもそも性別が違う。


『これは本来、世界の恥部を覗く目。薬草士ちゃんの目が、それに同調してるのね』

「……同調?」

『感化された、影響を受けた……ま、色んな言い方はあるけど、要は今からする事との相性は抜群って事だけわかっていればいいの。結局のところ、人間を構築するのは過去で、人間の記憶も記録も過去なんだから、アルマ=ローランに封印されていた記録を覗く為には、過去を見通す目じゃなきゃ駄目って事ね』

 理解出来るような出来ないような、その説明にフェイルは納得こそ出来なかったが、声の主が誰なのかは把握した。

「スティレット……?」

『そうよ。世界の恥部を一緒に覗くあたし達は一心同体。意識も同化してるって訳。当然、今の記憶も共有されているわ』

 意識の中のフェイルは、思わず顔をしかめる。
 少なくとも、他人に見せて良い記憶ではない。

『自分が見たくないから忘れた、歪曲した記憶さえも見えるからこそ、何処までも見通せる。膨大な記録の中から、自分の知りたい事を回想のように映し出せる。そんなところよ』

「……だとしたら、さっきから見えている僕の記憶は、そこに行き着くまでの周辺の景色って訳か」

『理解が早いわね。貴方はとっても優秀。あのヴァールが返り討ちにあった上、あたしから鞍替えするだけはあるわね』

 あのヴァール――――その表現は、評価が高いというだけに留まらない。
 スティレットの中で、ヴァールが特別な存在である事を意味していた。 

『ここから先には、よりキッツい貴方の記憶や、あたしの記憶もあるでしょうね。それでも行く?』

「ここまで来て、引き返す訳ないでしょ。知りたい情報はちゃんと持って帰るよ」

『なら、地獄に行きましょう。特別に付き合ってあげるわ』

 既に、職人といた家の景色は完全に消え失せている。
 フェイルは再度、己の業と向き合う時間を過ごす事にした。











 

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