決して広くはないその空間、本棚なき書庫に九名もの人間が集まり、それぞれ違うリズムと深さで呼吸している。
 その中で最も深く、最も穏やかに息を吸い、そして吐いていたのは――――フェイル=ノートだった。

「師匠。僕は貴方を助けられない。きっと師匠が手を下さなくても、リオは誰かに殺されていただろうし、生物兵器に呑まれていたと思う。それでも……貴方はリオの仇だ」

 ビューグラスほど専門的な知識はないとはいえ、フェイルもまた薬草士。
 その腰に下げた袋には、応急処置用の薬が一通り入ってはいる。

 止血作用を持つ薬草を由来とした薬を用いれば、血の流れは鈍くなり、出血量は抑えられる。
 今すぐそれを処方し、治療を行えば、命が助かる可能性はないとは言えない。

 尤も―――それが現実的な確率かと言えば、否定するしかない。
 もう血が流れ過ぎている。
 仮に、生物兵器を体内に宿した事で、常人より遥かに生命力が高まっているとしても、『生物兵器によって生かされた』という事実がデュランダルの中で定着してしまう。

 そうなれば、彼の絶対的な意志の強さは、その無敵の力は、失われてしまうかもしれない。
 生物兵器からの浸食を受け入れてしまい、自我が崩壊するかもしれない。

 デュランダル=カレイラにそのような生き恥を晒す事など、決して許されない。

 生きていさえすれば良い。
 それは大半の人間に適用される"救い"だ。

 だが中には例外的にそれが許されない者もいる。
 他者からも、自らも許容出来ない存在――――それがデュランダルの背負った宿命だった。

「お前に……助けを乞うほど……弱っているように……見えるのか……今の俺は」

「まさか。一度言ってみたかっただけだよ。師匠がどんな顔をするか見てみたかったし」

「……悪くない皮肉だ」

 その師弟の会話に、口を挟む者はいなかった。
 横やりを入れるのを好むスティレットすら。
 そして、あれだけ取り乱していたアルベロア王子でさえ――――本来誰より発言権がある彼でさえ、割り込もうとはしなかった。

「フェイル……俺を殺せ」

 その言葉は、いつもと何も変わらない、朴訥とした男の静かな声に乗せられた。

「最初からそのつもりだったの?」

「最初……一体……いつが最初だったのだろうな」

 デュランダルの声が僅かに擦れる。
 時間は決して己を止めない。
 そして誰にでも同じ強さで歩みを促す。

「多分、剣聖殿の嫉妬に気付いた時なんじゃないかな」

 無論、フェイルはその場に居合わせてなどいない。
 だが既に、両者の関係をほぼ正確に把握しているという自負があった。

「師匠はさ、王様の為とか、王子様の為とか、計画の為とか、そういう柄じゃないもんね。周りはみんな忠誠心が強いって言ってるけど、そんな訳ないよ」

「……」

 アルベロア王子は沈黙したまま、僅かに顔を下に向けた。

「師匠が心を砕いていたのは、弱者。弱くても無理難題に挑み続ける人間。だから、僕に目をかけてくれた」

 自覚はあった。
 自分がどうしてデュランダルに近しい場所にいられたのか。

 弓兵が接近戦を学ぶ。
 その歪さは、関心には繋がったとしても、決して世話を焼く動機にはなり得ない。
 フェイルが最初にデュランダルに見せた、まだ完成には程遠い技術の痕跡が、彼の心を動かした。

「もし自分がガラディーンさんに敗れたら、どうなるか。師匠はそれを考えた。そして……自分に勝ったガラディーンさんが、燃え尽きると確信した」

「……」

 自身の父の話を、ハルは沈黙しながら聞き入り、僅かに口元を緩めた。

「そうなれば、エチェベリアは二大騎士を一度に失う。銀朱も崩壊は確実。その時、最初に危機に晒されるのは……弱い国民だ」

 だから、ガラディーンに負ける訳にはいかなかった。
 彼が人智を超越した力を身に付けたのなら、それを自分も取り込む以外の選択肢はなかった。

 ガラディーンも、そんなデュランダルの心情を理解していた。
 だから、公正な勝負を望む彼が生物兵器の調査を命じてきた際には、その真意に勘付いてた。

 意図しない派閥問題。
 ガーナッツ戦争の解釈。
 剣聖という称号の持つ意味。

 様々な要素が、両者の関係を難しいものにしていた。
 しかし、その中で共通していたのは――――

「ガラディーンさんは、生物兵器をその身に宿せば、師匠が本気で自分を殺そうとすると思ったのかもね。それだけが唯一、師匠と本気で戦える方法だって。そして、師匠はそれに応えた。応えないといけない理由があった」

「……」

 銀朱の師団長と副師団長であり、国家の現在と未来の象徴。
 本気で力比べをするには、偉くなり過ぎていた。

 けれど、それは叶った。
 例えガラディーンにとって望んだ結果ではなかったとしても。

 デュランダルは、ガラディーンの願いを叶えた。

「ガラディーンさんに勝って、他の指定有害人種を殲滅して……そして最後に自分をも消す。そこまで師匠は覚悟してたんだよね?」

 エチェベリアは、生物兵器に汚染されていた。
 広域にわたる人体実験によって、潜在的に生物兵器をその身に宿した人間の数は、国家ですら把握しきれていない。
 発芽し、他の住民に、そしてエチェベリアという国に他害をもたらす者を選定して、始末するしか"自浄"の道はなかった。

 誰から命じられた訳でもない。
 デュランダルは自らその人生を選択した。

「そして、最後に残った自分という生物兵器汚染者を殺す役割を、自ら設立したクラウ=ソラス率いる暗殺部隊に命じるつもりだったんだ」

 だが、クラウ=ソラスには指定有害人種の疑いがあった。
 それ故に実現せず、デュランダルは新たに自分を殺す役割を背負わせる人材を求める事になった。
 誇り高き銀朱の副師団長が、自分の人生に引導を渡す相手をいい加減に選ぶなど、出来る筈もない。

「……どうして、僕を代役に選ぼうとしたの?」

「代役……などではない……」

 声は更に擦れ、デュランダルらしさが失われていく。
 フェイルは下唇を一瞬噛み、ハルに自分を下ろすよう頼んだ。

 心配そうに手を貸そうとするハルを穏やかに制し、フェイルはデュランダルの声がした方に歩き始める。


『そのまま真っ直ぐで良いよ』


 ――――不意に、そんな声が聞こえた。

 声だけではない。
 フェイルにだけは、その姿がハッキリと見えていた。


『もう少し先だよ。あと五歩くらいかな。三歩、四歩……そう、そこにいるよ』


 案内してくれた"彼女"に小声で礼を告げ、フェイルは膝を床につけ、左手でデュランダルの身体に触れた。
 まだ体温は残っている。
 だが、フェイルが近付いて来た事も、触れた事も、もう把握出来ていないようだった。


「生意気な奴だが……お前は……お前だけは…………――――」

 
 最後の言葉は、フェイルにだけしか聞こえないほど小さく、そして似合わなかった。

 死神が、連れて行く。
 それは生物兵器に人生を翻弄されたクラウの――――マドニアの意地。
 一瞬の逡巡の後、フェイルはそれでも矢筒から一本の矢を取り出した。

「待て! 何をする気だ!? お前が……お前如きがデュランダルの命を終わらせるというのか!?」

 アルベロア王子の逆鱗に触れる。
 疑う余地もない、紛れもない正論だった。

「全くです。僕如きが……」

 到底背負えるものではない。
 この国の未来を、希望を、新たな象徴となる人物の命など、絶対に――――誰も。

「でも、仕方ないんです。師匠の頼みは断れませんから。それくらい、恩があるんですよ」

 どうする事が正しい事なのか。
 人を殺める事に正しさなどあるのか。

 そのような倫理観は、フェイルの頭の片隅にもない。
 あるのはただ一つ、でも無限に限りなく近い一つ。

 共に過ごした思い出だけだった。


「楽しかったよ……僕も」


 弓を使う距離ではない。
 こういう時にはどうすべきと学んだのか?
 この人と一緒に、何をしてきたのか?

 思い出すまでもない。
 全て、覚えている。

 故に。

 フェイルの握った矢は、弓ではなく――――

 その手で直接、既に動かなくなったデュランダルの胸部に突き立てられた。









 

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