カラドボルグが『フェイル=ノート』の名を口にした途端、空気が変わった。

 彼の存在がそこまで特別なものかといえば、決してそうではない。
 生物兵器によって目に常人とは違う変質が現れ、接近戦をこなす弓兵という独自の戦闘技術を身につけているものの――――それだけ。
 国家という巨大な力を背負うアルベロア王子にとっては歯牙にもかけない人物の筈だ。

 スティレットも同様。
 両計画に大きく関わってくる勇者一行と行動を共にしている薬草店の店主であり、文字通りメトロ・ノームの鍵を握るアルマ=ローランと懇意にしている人物なので、決して無視は出来ないが、最終局面で過剰に気にかけるほどの存在ではない筈だった。

 そして、ビューグラスにとって彼が実の息子である事は、彼女達もカラドボルグも知らない。

 つまり、カラドボルグの抑止は本来なら的を射ていない。
 フェイル=ノートの名前にそこまでの影響力はない。

 にも拘らず――――空気を変えたのは、その場にいた全員の"総意"だった。

「……余は一度、そのフェイル=ノートの戦いを観た。忘れもせぬ。御前試合の第一試合で槍使いと戦った」

 トライデントの名前を、アルベロア王子は口にしない。
 彼にとって、既に王宮から去って久しい間接的な協力者など視野にすら入らないという証だ。

「見事な戦い振りだった。あの試合が実験でなければ、何か特別な賞を贈る価値さえあっただろう。何より……デュランダルが目に掛けた子供だ。無対策でいるのは少々危険であろう」

「少々どころじゃなくてよ。あの子の本質は……狩人。暗殺者とは一味違うのよねン」

 それは、スティレットが初めてフェイルを評した言葉。
 しかしあくまでも言葉だ。

 流通の皇女は初対面時からずっと、フェイルに目をかけていた。
 同時に、警戒もしていた。

 同じ生物兵器キャリアでも、彼女とフェイルは全く違う。
 浸食の度合いでいえば、フェイルは相当に浅く、スティレットは世界で最も生物兵器に愛された人物。
 生物学的な関心は薄い。

 あるのは――――自分を止め得る可能性。

 死神クラウ=ソラスでもなければ、弟のバルムンクでもない。
 デュランダル、そしてその愛弟子のフェイルだけが、スティレットにとって憂鬱な存在だった。

 スティレット自身に恨みを持つ者は幾らでもいる。
 しかし大半は烏合の衆だし、本気で潰そうとしたところで彼女は死なない。
 既に多くの国で王族をはじめとした権力者と癒着状態にある為、権力合戦で負ける事もない。

「狩人って、いやらしいものなの。自然の中で命と向き合う連中だから、社会性で動かないのよね。師匠は師匠で、社会性を超えたところで動ける化物。オジサマに頑張って止めて貰ってるけど……師弟揃って厄介な子達ね」

 そう言いながらもスティレットは気が急く様子など微塵もない。
 必死さは一切表面に出していない。

 彼女はいつでもそうだった。
 そしてそれは、変わる事はない。

「心配は無用だ」

 一変した空気を、ビューグラスは一声で振り払った。

「狩人には狩人を。とうの昔に刺客を放っている。あの子には戦えぬ相手だ。今頃無力化されているだろう。それに、あの目もそろそろ限界だ」

 そして、彼が放った言葉は――――あまりにも残酷で、そして理解が深かった。

「そう簡単に片付けていいのか?」

 血縁関係を知らないとはいえ、フェイルが幼少期からビューグラスと接点を持ち、裏の仕事を引き受けている事までは情報として得ているカラドボルグにとって、フェイルの名を使い足止めする為の最大の標的はビューグラスだった。
 ビューグラスは、フェイルの狙撃手としての腕を知っているからだ。

「随分とあの少年の腕を利用していたって聞いてるんだけどな。結構汚い事もやらせていたんじゃないのかい? 恨みを持たれているとしたら、きっとあんただよ」

「そっちこそ、妙にあの子を買っているじゃないか。この局面で最も警戒すべきは『デュランダルの暗殺部隊』ではないか?」

「そういう部隊を作ってるって噂は確かにあるな。だったら、そこに愛弟子を加えてる事も考えるべきなんじゃないかい?」

「……」

「……」

 医学の権威と、薬草学の権威。
 現代社会において、その地位は逆転してしまっている。

 まだ医療技術が発展していない頃、医学は薬草学の僕だった。
 薬草という人体を癒やす自然物があってこそ、医学は語れる。
 薬草学なくして医学はなかったのだから、それこそ親と子のような関係だ。

 だが、世界中の薬草が採取され、研究もやり尽くされた感のある薬草学とは違い、医学は今も進歩を続けている。
 停滞した学術分野は衰退するのみ。
 現状、薬草学は医学の僕になりつつある。

 同じ会合に出席し、時に協力もしてきた。
 しかし本質は、決して相容れない二人。

「でも、行くのよ。私もオジサマも、王子サマも」

 そこに流通の皇女が割って入る。
 会合では珍しくない構図だった。

「護衛なしでここまで来た王子サマが、今更怖じ気づく訳ないもの。そもそも、あの子が王子サマを狙う理由はないでしょう? 実質私かオジサマ。そして、私が困るのは私が狙われる事じゃなくて、オジサマに倒れられる事。答えは一つでしょう?」

「そうでもないさ。フェイル=ノートはああ見えて相当鍛えられてると俺は見てるよ。あんたら三人が並んでいたら、まず王子サマをビューグラス殿の後ろ盾と即座に判断する。顔くらい当然知ってるだろうからな。後ろ盾を封じてしまえば、薬草学の権威なんて一気に弱体化さ」

「その時は私が別の後ろ盾を紹介してあげる。選り取り見取りよ」

「無理だな。それは出来なくなる」

「……?」

 ずっと苦悩していた。
 どうすべきか。

 違ってしまった恋人に、どう決着を付けさせるべきか。
 生物兵器に汚染され、死なない身体になり、性格も何もかも変わり、まるで別の生き物のようになってしまった愛しい存在を――――

「俺が今ここで殺してやるからだ。さっきお前が言ったようにな」

 カラドボルグはずっと、殺めなければならないと自分に言い聞かせ続けていた。

「どうせお前は、俺には殺せないと思っていたんだろう。いや……そういう意識すらないのかもしれないがな」

「……」

 スティレットの目が、ゆっくりと据わる。
 冷酷に、冷淡に、冷徹に、冷艶に。

「ビューグラス殿。王子様。行きたいならご自由に。俺は別にあんた等を止めに来たんじゃない。ビューグラス殿を止めればこの女も止まる、そう思っただけだ。別のパートナーがいるんなら、ビューグラス殿もこの女に固執する理由はないだろうよ」

「酷い事言うのね。あんなに愛し合った女を無価値みたいに」

「止めろ。その口で下らない事言うんじゃない」

 挑発とわかっていても、抑えられない。
 弱点とはそういうものだ。

「今更隠しても飾っても仕方ないから言うけど、俺はこの女を殺す為だけに生きてきた。この女を見失わない為に、あの会合に出席していた。だから、あんたらのやってる事に本当は興味ないんだよ。ビューグラス殿」

「最初から支援に消極的だっただろう。わかりきった事を」

 そう答えたビューグラスの顔を、カラドボルグが見る事はなかった。

 彼は胸部を貫かれていた。

 背を向けていた施療院から突如出現したファオ=リレーの左手によって。

「生憎、彼女の代わりはいないのだよ。当然、護衛も用意している。尖兵をな」

「……が……ぁ」

 フェイル達に敗れ、ハイト=トマーシュによってヴァレロン・サントラル医院に収容されていたグロリア=プライマル院長の秘書。
 そして生物兵器の実験体でもある彼女が、ゆっくりと左手を抜く。
 同時に、カラドボルグの上半身はみるみる血で染まっていった。

「若く優秀な医師を失うのは痛い。ヴァレロン・サントラル医院にとってもだ。それでも我々は歩みを止める訳にはいかない。医学とは違い……後がないのだよ」

 足音が連なりながら施療院を離れて行く。
 暫くは三つのまま。


「スティ……レッ……」

「――――」


 やがて、四つとなった。






 

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