アルマにとって、地上は未知の世界だった。
 敷き詰められるように建てられた家々も、日常生活が鳴らす喧騒も、鳥の囀りも、街中に漂うパンを焼いた香ばしい匂いも、全てが刺激だった。

 けれど、彼女の心を真っ先に掴んだのは、地下では想像すらも出来なかった青い空。
 見上げたそこは、吸い込まれるような、それでいて落下してきそうな、不思議な感覚だった。 

 知識はあった。
 色も、状態も、変容も、全て理解はしていた。
 けれど、目の当りにした空は余りにも広大で、アルマは思わず恐怖心を抱いた。

 手つかずの世界がそこにはある。
 誰も進出出来ない、浸食出来ない、人間にとって未知の領域。
 もし、誰かがそこへ向かって自身を捧げるのだとしたら、それは世界の終わりを意味するのではないかと、漫然と考えるほどに。

 初めて地上に出たアルマは、ほんの僅かな時間で人生観を大きく揺さぶられた。

「貴方にはありがとうの気持ちがあるんだよ。此方を地上に連れて行ってくれたから」

「礼には及びませぬ。アルマ様の情報を拡張させる為には必要だった故に。利己的な理由に過ぎませぬよ」

「それでも、だよ。とっても良い思い出が出来たからね」

 初めて見た空。
 初めて見た街。
 初めて感じた風。
 初めて体験した――――お泊まり。

 あらゆる刺激の中、アルマが最も鮮烈に覚えているのは、フェイルの店で過ごした夜だった。

 これまで、他者と語らう機会は幾らでもあった。
 メトロ・ノームの訪問者は大抵自分に優しくしてくれたし、誰も来ない時期でも少し歩けば酒場のマスターと顔を合わせられる。
 話し相手に困る事は全くなかった。

 それなのに、あの夜のお喋りは、何より鮮烈にアルマの記憶を占拠した。
 同年代の――――かどうかは記憶を失っている為にわからないが、それでも近い年代なのは間違いなく、そんなフェイルやファルシオンと話す言葉の数々は、時に自分自身さえ気付きもしない考えや発想に至り、新たな自分と出会う事が出来た。

 それよりなにより、純粋に楽しかった。
 しがらみもなく、下心もなく、純粋に思った事を口にして、相手の返事に期待と不安を寄せる、何の編綴もない歓談が。
 アルマにとって最高の宝物だった。

「思い残す事はもうないよ。きっとね」

 アルマは自分の宿命を知らない。
 記憶を失っているから。
 それでも彼女はメトロ・ノームの管理人である自分を頑なに守ってきた。

 メトロ・ノームにいなければならない。
 地下に身を置き続けなければならない。
 その戒めを破ろうという意思は、全く抱いていなかった。

 フェイルから星空を見せて貰うと約束した時も。
 地下に自分を狙う人間が現れた時も。
 諦観の念でも自暴自棄でもなく、彼女の中には生まれた時からずっとメトロ・ノームが根付いていて、理屈を超えてそこに立ち入る術を持たずにいた。

 ただ、幼少期から心の中にいる女性――――スティレットが関与していると知った時は、異様な不気味さを抱いた。
 彼女が自分にとって何なのか、何の為に接触してくるのか、アルマにはわからない。
 それでも、得体の知れない不気味さが感覚としてあった。

 ここにいてはいけない。
 何故か、そう思い至った。

 クラウ=ソラスが外の世界へ出ようと持ちかけたのは、そんなタイミングだった。

『バルムンクという男は危険な存在ですな。彼自身は手強く気持ちの良い好敵手なのですが、彼の後ろにいる姉は……世界的野心家、とでも言っておきましょうか。世界を牛耳る女帝故に』

 外出は、管理人としての責務を放棄する行為。
 葛藤はあった。
 逡巡も同様に。

 アルマは感情表現が得意とは言い難い人間だと自覚している。
 メトロ・ノームの管理に魔力の大半を費やす影響で、自分が保てずにいる状態を、ずっと続けていた。
 だから、情緒を育む機会に恵まれなかった。

 魔力とは、人格の萌芽。
 一時的に消費するだけなら問題はないが、慢性的に不足すれば人格は抑制されてしまう。
 アルマはそれを、身をもって体験していた。

 それでも尚、彼女は思い悩んだ。
 自分が一体何の為に悩んでいるのかさえわからないのに、それでも悩み抜いた。

 最終的には、好奇心が勝ったのかもしれないとアルマは自己分析していた。
 でもそれは違っていた。

 結局のところ、アルマは――――お喋りをしたかった。
 楽しく語らいたかった。

 それだけだった。

「着きましたな」

 階段を下り続けて、どれくらいが経過したのか。
 数分のようでもあり、数時間にも感じられた。
 アルマの前を歩いていたクラウが立ち止まったそこは、最下層だった。

 階段を下りる途中にはわからなかったが、病院という施設の空気はほぼなくなっていた。
 特有の辛気臭さはなくなり、代わりにあるのは――――地下牢のような陰鬱感。
 カビ臭さが薄く鼻腔を擽ってくる。
 
 実際に檻がある訳ではないが、この場所には確かに『荒野の牢獄』に相応しい雰囲気がある。
 かつて、様々な非道徳的、非人道的な研究が行われたメトロ・ノームの空気が凝縮されたような、そんな場所だった。

 ただし、特別な物は何も置いていない。
 階段を下りたそのフロアには廊下はなく、一つの広大な部屋が広がっているのみ。
 扉もない。

「ここは?」

「書庫ですな」

「え? 何もないよ?」

「そうですな。本棚は必要ない故に」

 本棚の不要な書庫。
 意味不明なクラウの説明に、アルマは不思議そうに首を傾げる。
 彼女の素直な疑問に対し、クラウは直接的な回答を控えた。

「では、アルマ様。貴女の使命……いや、宿命を私の方からお伝え致します」

 何故なら、これから話す説明が、その回答にも該当するからだ。

「このエチェベリアという国は、元々『学術国家』と呼ばれていたのをご存じですかな?」
  
「うん。聞いた事あるよ」

「世界各国から、多くの学者や研究者がこの国へやって来ました。ここなら気兼ねなく、倫理観に関係ない検証や実験が行えるからですな。メトロ・ノームはこの国の象徴的な空間でした。そしてそれは――――ここ以外にも幾つか存在していたのです。王都にも」

 アルマには、クラウの言う真相の重要性は知る由もなかったが――――これから語られる事が、自分にとって、この国にとっての中核なのだと直感するのは、そう難しくなかった。








 

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