その場所は、深淵とは程遠い薄暗闇に包まれていた。
 浅い闇によって、空間は秘匿性を帯びることなく、それでいてある種の背徳感を有している。
 だからこそ、却って人間の眼の濁りが物理的に観測出来るかも知れない――――そう思わせるような場所。

 それがヴァレロン・サントラル医院の現状だった。

 灯りはある。
 機能もしている。
 しかしそこにある輝きを光だと認識するのは、極めて困難だった。

 ここは、人の命を救う場所ではない。
 まして命の尊厳を訴えるような施設では決してない。
 
 それは、必然だった。
 こうなる事が自然であり、同時に妥当でもあった。

「……遅くなった」 

 腐敗した空間を、一人の男性の声が揺らす。
 重厚にして、どこか荘厳さを帯びている声。
 どのような人生を送れば、この声を発信する声帯が作られるのか――――

「時間通りですよ。この会合に決まった時間などありませんし……そもそも会合ですらありませんからね、今日は。当然椅子もありません」

 それはある種の決まり文句だった。
 少年のような響きを有したその声は、いつも誰かを気遣うような甘美さを同居させている。
 だがそれが実像でない事は、その場にいる全員が知っていた。

「そもそも、会合なんて思った事は一度もないけどな。欲しいモノがあったから、それを拾いに来た。いつもそんな感じだ」

 少し掠れた若い男の声は、普段の飄々とした雰囲気が余り感じられず、何処か焦燥感のような無垢さを薫らせていた。
 それなりの年月を生きてはいるものの、この中では最年少。
 感情の揺れは誰よりも大きい。

「ふむ……約一名、欠席という認識で宜しいかな?」

 しかし今回に限り、それ以上に感情を乗せた声が、乾きと潤いの狭間で泡のように生じた。
 地を這うような低い声。
 それでいて、蛇ほどの臆病さはなく、毒だけが垂れ流されている。

「ですね。ルンストロム卿はそれどころではないみたいです」

 ルンストロム=ハリステウス――――かつて魔術国家デ・ラ・ペーニャで首座大司教に座していた人物。
 幹部位階4位に該当するこの地位は、エチェベリアにおける主要都市の領主に匹敵する。
 何より政治力に優れ、教皇選挙に出馬して一時は本命視もされていた程の人物だ。

 しかし結果的に選挙には敗北。
 その選挙戦でかなり派手にやり合った現教皇ロベリア=カーディナリスからの報復人事を嫌い、自ら魔術国家を離れる選択を採った。

 彼の目的は――――自らの復権。
 口からは如何にも徳の高そうな言葉が出てくるが、その行動だけを追えば我欲にのみ突き動かされているのは明らか。
 自分に大した利がないと判断した今回の両計画には、最初から最後まで支援の姿勢を見せなかった。

 それでも、彼には情報という形で十分な手土産が渡されている。
 何故なら、それに見合うだけの置き土産を残しているからだ。

「生物兵器と魔術士は対極の関係にある……というアイデンティティでやってきた僕には少々不本意なんですけど、世の中の流れに不平を言っても無意味ですしね。彼の存在は許容しましょう」

 ハイト=トマーシュという魔術士が、アランテス教会ヴァレロン支部の司祭という肩書きの裏で行ってきた暗躍もその一つ。

 彼は同支部の司教であり、父でもあるミハリク=トマーシュの跡を継ぐ予定となっている。
 だが、その父は酒に溺れ、堕落し、現在はほぼ職務放棄の状態、
 三十年間で二十二の魔術を世に出し、魔術の発展に類い希な貢献をした伝説の人物ミハリク=マッカ司教の名を取って生を受けた父は、その重圧に負け落ちぶれた。

 幼少期は父に憧れていたハイトが失望を確たるものにしたのは、有害指定人種であるアニスの監視役を務める僅か二ヶ月前。
 同時にそれは、生物兵器のキャリアになった時期でもある。
 それくらい、彼にとって父の存在は大きかった。
 
「十分な魔力量を持った魔術士と、僅かな量しか持たない一般人の比較は有意義でした。結果的に彼は指定有害人種になってしまいましたが……」

「やむを得まい。犠牲は実験の付属物。犠牲が出るからと躊躇った分野に発展はないのだ」

「説得力の塊だな。薬草学の権威がそれを言うのは」

 そして、その発言をした医学の権威もまた、十二分に理解している現実だった。

 人の命を左右する分野では、どうしても手術台が必要だ。
 それも相当数の。
 彼らは健康体の人間をその上に乗せる事で、新たな道を切り開いてきた。

 だがそれは、医学や薬草学の専売特許ではない。 
 生物学、経済学、兵学――――どの分野にも同質の歴史は存在している。

「さて。会合でないのなら、改めて始まりを宣言しなくても良いですね。まずは――――」

「アルマ=ローランを何処へ隠したのか。それを問おう、カラドボルグ」

 生物学の権威リジル=クレストロイの言葉を遮ったのは、兵学の権威――――かつて剣聖としてこの国を支えたガラディーン=ヴォルス。
 彼の存在は、この国の正義そのものでもあった。
 
「当然、教えられないね。旦那相手に切り札なしじゃ、命が幾らあっても足りない。一応、敬意を表して『俺をこの場で殺しても、彼女だけを先に見つけても意味がない』とだけは言っておくよ」

「……毒でも盛ったか」

「さてね。なんにしても、旦那があの子を手に入れたいのなら、俺の力になって貰う必要がある」

「聞こう。何をして欲しい」

 ガラディーンに感情の揺れはない。
 当然だ。
 彼は――――銀仮面の異名で知られる人物の師でもあるのだから。

「さっきから黙ったままでいるそこの女だ」

 ここは、ヴァレロン・サントラル医院の"とある一室"。
 院長であるグロリア=プライマルさえも、ここに出入りする事は許可されていない。
 彼らは皆、この病院において院長以上の権限を有している。

「その女の命を俺にくれ。そうすれば、アルマ=ローランは健康体で引き渡す。"あの部屋"の鍵は彼女だけなんだろう?」

「……」

 彼らは――――仲間同士ではない。
 そこにあるのは、ただ得られるものがあるから集まるという習性のみ。
 その習性を最大限活用してきたのが、今し方その命を無造作に扱われた経済学の権威――――流通の皇女スティレット=キュピリエだった。

「生憎、それは叶わぬ」

「な……」

 返事はカラドボルグの想定より早かった。
 一瞬の葛藤すらなかったと疑うほどに。

「旦那は……この国の『臭い所の蓋』を見つけに来たんじゃないのかい?」

「そうだ。だからこそ、彼女は某の――――」

「ビジネスパートナー、なのよン♪」

 薬草学の権威ビューグラス=シュロスベリーの隣で、片足を真後ろの壁に張り付かせるように浮かせ、スティレットは嗤う。
 心から愉快そうに。
 その心の在処を、カラドボルグは未だ、見つけられずにいた。








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