足音が聞こえた時点で、それがデュランダルではないと確信するのは容易だった。
 追う立場の彼が、わざわざ室内にまで響くような足音を立てて移動するのはあり得ない。
 足音を消すなど、猛者たるデュランダルには造作もない作業だ。

 逆にわざと足音を立て、隠れているフェイルをおびき出す算段だと考える事も出来たが――――足音には個体差がある為、その意義は薄い。
 例えばファルシオンとフランベルジュなら、音の大きさが倍以上違うし、歩幅も大きく異なる。
 デュランダルが自分以外の人間の足音を模すとは考え難いし、そもそもそのような真似をする人間ではないとフェイルは知っている。

 足音は別人。
 なら誰なのか。

 足音には個人差がある。
 だが、長らく使用されていなかった病院の廊下を歩く足音は、路地や標準的な建物の中とは全く違う、くぐもったような響きだった。
 音の大きさや質で判別するのは難しい。

 反面、音自体は明瞭に聞こえるため、足音のするタイミングから歩幅がどの程度なのかを想像するのは難しくない。
 歩いているか、走っているのか、早足か――――その違いも。

 今、アウロスの潜む部屋のちょうど前を通りかかった足音は、標準的な女性の歩幅で歩いている。
 危機感や切羽詰まった様子は感じられない。
 それだけで、かなり絞り込む事が出来た。

 ファルシオンやフランベルジュの可能性は低い。
 ヴァールの可能性は皆無。
 アルマがクラウ=ソラスと別れて単独行動しているとは考え難い。

 そうなると、残るは敵勢力か、病院のスタッフか、或いは患者しか考えられない。
 患者の中にはアニスも含まれている。
 他の患者と違い、能動的に院内を彷徨う理由がある以上、彼女が筆頭と言えるだろう。

 躊躇する理由は何もない。
 目の前の扉を開けて確認すれば良い。
 そこでデュランダルと偶々出くわす可能性は否定出来ないが、もし廊下を歩いているのがアニスで、彼女のすぐ後ろにデュランダルがいるとすれば――――

「好機……と思わなくちゃいけないのにな」

 心中なので、疑問は全て自分自身に向けられる。
 回答者は潜在的にその答えを知っている訳だ。

 結論は出ていた。
 フェイルは今、想像した状況を好機とは思えなかった。

 危険だ――――そう反射的に思った。

 デュランダルがアニスに迫っているのなら、今すぐ出て行って妨害するしかない。
 そうなれば十割、自分は死ぬ。
 その後、アニスも始末されるだろう。

 それでも出て行かなければいけない。
 そう思ってしまった。

 唯一の勝機を、試す前に手放してしまった。

 このような心理状態で実践したとしても、上手くいく筈がない。
 どれだけ作為的にアニスの命を軽んじたとしても、根っこにあるのが違う感情ならば、必ず躊躇が生まれる。

 非情に徹する、では問題外だった。
 非情でなければならなかった。

「……結局、僕は何者にもなれなかったな」

 声に出したいくらい、切実に響く内なる声。

 ここで、例えアニスを犠牲にしてでもデュランダルを仕留める事が出来れば、師匠越えを果たせるならば、悪魔の称号と引き替えに、目的の一部だけは果たせた。
 デュランダルを退場させたところで、ファルシオン達の安全が保証される訳ではないが、大きな一助にはなる。
 けれど、またしても目的は遠のいた。

 フェイルは静かに歩を進める。
 扉へと。
 襲いかかってくる虚無感を振り払う事さえ、今は億劫に思えた。

 自棄になった訳ではない。
 けれど、例え失敗以外の結果はあり得ないと理解していても、他に方法がない以上、今更作戦の変更は出来ない。

 ならば――――出来る事をするしかない。

 もし廊下にいるのがアニスなら、彼女を餌にしてデュランダルを矢で貫く。
 上手くいく確率が絶望的であろうと、その方針に変更はない。
 ただし一つだけ、当初の予定を変更する事で可能性をゼロ以外の数字にする方法がある。

 出来る事とは、それ。
 その方法に必要な言葉全てを頭に入れて、フェイルは扉を開けた。

 正面から右、フェイルの梟の目で明確に捉えたその後ろ姿は――――

「な……」

 思わず絶句するような人物だった。

 彼女は、アニスではなかった。
 その可能性は当然考慮していた。
 そう都合良くアニスが通りかかる筈もないと。

 けれど、ある意味アニス以上に都合の良い人物でもあった。
 理由はわからない。
 知る必要もなかった。

「スティレット=キュピリエ……」

「んー?」

 最初に会った時からずっと、彼女の反応は変わっていない。
 人を食ったような態度で、どんな状況、どんな場面だろうと余裕を失わない。
 緊迫感とは無縁の場所から、全てを見下ろしているような、全てを茶化しているような態度のままだ。

「あら、薬草屋ちゃん? こんな所で奇遇ねン♪」

 明らかに、どう考えても単独でこんな場所を移動する筈のない人物。
 何しろ、勇者計画および花葬計画の黒幕候補筆頭だ。
 少なくとも、ビューグラスとは行動を共にしているとフェイルは高を括っていた。

 この女性に事情を聞き、証拠を掴み次第倒す事が、ヴァレロン・サントラル医院に乗り込んだ目的だった。
 その目的が今、全く予想しないタイミングで目の前に現れた。
 どれだけ冷静に物事を捉えられる人間であっても、混乱せずにはいられないだろう。

 そしてそれは、思考にも現れる。
 影武者――――フェイルはその可能性を一瞬考慮してしまった。

 このような場所を影武者が彷徨く理由など、どう考えてもある筈がないのに。

「どうしたのン。顔色が悪いけど? もしかして――――あたしと遭遇したのがそんなに意外だったかしらン?」
 
 結果、先手を取られる。
 脚に毒蛇がまとわりついてくるような感覚の中で、フェイルは思わず顔をしかめた。

「意外……だったよ。これまで予想していた事が全部、ひっくり返されかねないくらいにはね」

「ふーん、どんな予想だったのかしらン♪ 参考までに聞かせてくれる?」

「ヴァールから貴女を止めて欲しいって言われてる」

 どんな言葉よりも、それが一番スティレットの実体を捉えられる。
 まるで幽霊を捕まえるような感覚で、フェイルはそう判断した。

 結果は――――

「……あの子はああ見えて優し過ぎるからね」

 意外にも、フェイルの想像以上に感傷的な声を引き出せた。
 ようやく、流通の皇女の本質に触れた――――そんな気がした。

「デュランダル=カレイラと手を組んだ様子はないみたいだけれど、彼とはもうエンカウントしたのかしら?」

「ああ。直ぐ近くにいるよ。貴女が指定有害人種なら、貴女も師匠の標的だ」

「だったら逃げないとね。彼だけはあたしでも手に負えるかわからないから。幸い、このフロアには元剣聖のオジサマもいるし。理想はここでの二大巨頭の衝突」

「……?」

 不可解な発言だった。
 元剣聖――――ガラディーンを指す言葉なのは間違いない。
 だが、そのガラディーンとデュランダルがこの院内で衝突するのがスティレットにとって理想である事の意味が、フェイルには全くわからなかった。

「知りたいでしょ? あたしが一人でここにいる理由。教えてあげるから、ついていらっしゃい。万が一あの男とエンカウントした時、貴方は人質になるかもしれないもの」

「……」

 無理だと断言するのは簡単だったが、スティレットの誤解はフェイルにとって好都合だった。

「生憎、今ちょっと手が離せなくてね。大事な戦いの真っ最中なんだ。スティレットさんこそ人質になってよ」

「……あたしが人質?」

「そう。でも別に了解を得たい訳じゃない。一応礼儀っていうか、宣言くらいはしておかないと後味悪いからね」

 刹那――――フェイルが今し方いたその場所が、微かな音と共に風を巻く。
 剣という物理によって。

「そろそろだと思ったよ」

 フェイルはその剣を、かなり余裕をもって躱した。
 ただし気持ちの余裕ではなく、距離的なゆとり。
 スティレットの表情の変化が、デュランダルの接近を察知させてくれたにも拘わらず、寸前まで引き寄せるような余裕はとてもなかった。

「……少し見ない間に、随分と不思議な組み合わせが出来たものだな」

 フェイルの背後から斬りかかったデュランダルは、当然のように足音など一切立てず、感情一つ動かさず、振り下ろした剣を手元に引き寄せた。







 

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