病院という施設は、いつの時代も、いかなる規模であっても、良い印象を持たれ難い空間にならざるを得ない。
 怪我、病気、そして死。
 人間が生きていく上で背負う負の様相を全て引き受ける施設なのだから、こればかりは仕方がない。

 何の根拠もなく『幽霊が出る』と言われるなどの風評被害は当たり前。
 まして、長期にわたり使用されていない区画があるのなら尚更だ。
 そこは当然人通りもなく、照明施設も生きてはいない。

 空間に浸される――――という事は通常、あり得ない。
 けれど人は、気の持ちようで肉体的な変化を起こしてしまう生き物。
 フェイルは今、間違いなくこの病院という空間に浸食されていた。

 この院内のどこかに、アニスがいる。
 入院中なので、本来ならベッドの上で寝ている筈だが、死の雨の影響で入院患者は避難済み。
 何処にいるかは定かではない。

 彼女は病院にとって"お得意様"だ。
 薬草学の権威、ビューグラス=シュロスベリーの娘なのだから、丁重に扱われているだろう。
 優先的に避難を促されたかもしれない。

 けれど、アニスが大人しくその指示に従ったとは限らない。
 彼女は指定有害人種であり、ハイト=トマーシュらと接触するなど独自の情報網を持っている。
 死の雨の犯人について知っていても、なんら不思議ではない。

 父親が蛮行に手を染めていると知れば、居ても立っても居られない――――そんな心理が働けば、スタッフの制止を振り切ってでもビューグラスを探そうとするだろう。

 そして、ビューグラスはこの病院と繋がっている何処かにいる。
 メトロ・ノームかもしれないし、そうは呼ばない別の地下領域かもしれない。
 いずれにせよ、その居場所をアニスが突き止めている可能性は、決して低くはない。

 もしアニスが院内を徘徊しているとしたら?
 その気配が近付けば、フェイルにも、そしてデュランダルにも容易に察知出来るだろう。
 アニスが足音を消して、感情を殺しながら移動しているとは考え辛い。

 その、父を探して院内を彷徨うアニスを――――実の妹を利用する。
 それが今、フェイルの考える最善策だった。

 デュランダルは知っている。
 フェイルがアニスを救う為に王宮を出た事を。

 デュランダルは知っている。
 フェイルがどれだけアニスを大事に思っているか。

 デュランダルは知っている。
 アニスが指定有害人種である事を。

 ならば、アニスはデュランダルにとって唯一無二の撒き餌となる存在。
 そして唯一、デュランダルに『フェイルがこの人物を利用する事はあり得ない』という先入観を抱かせている人間だ。

 これから、デュランダルがアニスを発見したとする。
 指定有害人種の処理を行っているデュランダルが、アニスを見逃す理由はない。
 即座に始末しようとするだろう。

 バルムンクに対しても同様だ。
 フェイル達がいる時は隙を見せない事を最優先にしていたが、フェイル達がその場を離脱してからはトドメを刺した可能性が高い。

 フェイルの中に、バルムンクを見殺しにしたという疚しさはない。
 思うところはあるが、それは意図的に胸中の見えない場所にしまい込んでいた。
 今は彼に心を砕く余裕などある筈もない。

 なら――――アニスに対しては?

 もし、アニスにもバルムンクに対して行ったのと同じ事が出来れば、フェイルには千載一遇の好機を得る資格がある。

 デュランダルがアニスを始末しようと、オプスキュリテを振り上げた瞬間――――その一瞬を狙い、遠方から矢を射る。
 それも、アニスを助ける為の攻撃ではなく、デュランダルを仕留める為だけの攻撃。
 例えば、デュランダルが躱したらアニスに直撃するという角度からの一矢だ。

 デュランダルは戦いにおいては他の追随を許さない天才。
 彼の頭には常に、『こういった攻撃が自分に向かってくるかもしれない』という想定で満たされている。
 それは膨大な数に上るだろう。

 だからこそ、逆にあり得ない事、可能性がほぼ皆無の出来事については早々に脳内から消去する筈。
 現在交戦状態にあるフェイルが、いつどのタイミングで、どこから攻撃してくる可能性があるかを常に考えているとしたら、アニスを大事に思うフェイルがアニスに危機をもたらす攻撃をしてくる事はないと、その可能性を真っ先に排除しているだろう。
 
 ならばそれは、最高にして唯一の不意打ちになる。
 計り知れない実力差のあるデュランダルに対し、勝利をもたらす一手に。
 この場を生き残り、ファルシオンやフランベルジュ、そしてアルマを助け、ビューグラスを止める――――その全てを自分で達成出来る可能性を繋ぐ、奇跡の一撃に。

 無論、アニスがビューグラスを探しているとは限らないし、仮に探していてもこの旧館に進入しているかどうかは定かではない。
 しかし、デュランダルと真っ向勝負する事を思えば、その勝算は比較にもならない。
 ゼロは何と比較しても、相対的な位置は常に地の底だ。

 理屈で考えられるのはここまでだ。
 アニスを利用する――――これが現在の最善策であり、次善策は存在しない。

 ここからは感情論。
 理屈の支配から頭を解き放ち、己の心と向き合う作業になる。

 アニスの命を犠牲にして、自分が助かる。
 あり得ない。
 他の何を犠牲にしても、何を妥協したとしても、この選択肢の存在は許されない。

「――――そう言い切れるのか?」

 フェイルは声を出さず、自分に向かって問いかけた。
 嫌な声だった。
 鼓膜は揺らさないが、心を酷く揺さぶった。

 アニスとは、血が繋がっている。
 しかしそう感じていた時期は、決して長くはない。
 一緒にいた時間さえも。

 思い出はある。
 初めて出会った日の事は鮮明に覚えている。
 影をなくすまで一緒に遊んで、彼女の作った子供のお遊び以外の何物でもない料理に悶絶し、一緒に叱られた記憶もある。

 その記憶は尊く、そして心地良い。
 それは間違いない。

 だったら――――それは不可侵なのか?
 ファルシオン達の一助となる可能性を捨てて、長男である責任を放棄して、自分の未来をかなぐり捨ててまで――――

 否。

 そんな格好良いものではない。

 ここで死にたいのか?
 こんな若さで、こんな中途半端でくたばりたいのか?

 いいや、違うね。
 死にたくないだろう?

 アニスを犠牲にしてでも生き延びたいんだろう?
 実の妹を踏み台にしてでも、その踏み台を汚泥と反吐の付いた靴で何度も踏み躙る行為だとしても、殺されるよりはマシなんじゃないのか?
 違うか?
  
「……どうなんだ?」

 自らへの問いかけは、少しずつ沼の中へと自我を沈めていった。 






 

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