――――客観性を伴う観点で判断するならば、フェイルにとってこの戦いは絶望的な状況下にあった。

 右肩に重大な怪我を負ったことで、矢を正確に放つのは完全に不可能。
 左手を使っての弓での打撃か、矢を蹴って虚を突くくらいしか打つ手がない。
 しかしどちらも、極限まで集中力を高めているトライデントには通用しないだろう。

 なんとかして舌戦に持ち込んだのは、フェイルの執念だった。

 勝利への執念ではない。
 生存への執念。
 ここでトライデント相手に息絶えるような事があれば、何一つ成せないままで生涯を終えてしまうだけでなく、アルマやアニスを危険に晒し、ファルシオンやフランベルジュにまで負担をかけてしまう。

 しかし、現実は冷酷。
 時間を稼ごうにも、右肩の痛みは増すばかり。
 こちらの集中力はどんどん削られ、激痛に耐え続けた肉体・精神の摩耗も顕著になっていく。

 そして――――回避される事だけを回避した、身体の中央めがけ放たれたトライデントの打突。
 この即死なき突きは、実はトライデントにもリスクがある。
 身体を貫いた直後、フェイルが相打ち目的で矢を握り顔面や心臓へ突き刺す可能性もあるからだ。

 だが、相打ちはない。
 正確には『意味がない』。
 生き残る為の戦いで、相打ちとは敗北を意味する。

 つまり、不可避の攻撃こそが最善の策。
 そして何より、トライデントは御前試合の続きを望んでいる。

 ならば――――"あの時"の打突が来ない筈がない。
 フェイルはその攻撃を完璧に読み切っていた。

 御前試合で最後に放ち、その正否を見る前に終了宣告されてしまったあの未完の打突が来ると。

 読んでいるだけではない。
 対応策もある。
 決して"賭け"ではない、数年越しの対策が。

「……何?」

 その声は、フェイルでもトライデントでもなく、クラウ=ソラスの放ったもの。
 常に鷹揚である彼が驚愕の声をあげるほど、フェイルの行動は奇怪に映った。

 反転。

 左右、或いは上下への回避を試みず、その場で後ろを向く。
 それだけの行動だった為、トライデントの突きが届くよりも僅かに早く完了した。

 フェイルの背中には、矢筒がある。
 ただ矢筒自体は革製で、盾代わりになるような物ではない。

 だが、その矢筒には矢が詰まっている。
 まだ一本しか使っていない為、ある程度密集したまま。

 この"ある程度"が、フェイルの生死を分けた。

 完全に密集していれば、矢筒も矢も衣服も全て貫き、トライデントの槍はフェイルの背中に穴を空けていただろう。
 だが、矢筒の中には微かな隙間があった。
 それによって、矢筒の中には力の逃げ道が出来ていた。

 それ自体は、槍が貫通する上でなんの不都合もない。
 不都合があったのは――――トライデントが感じた手応え。

 弾力性に富んだ革製の矢筒に加え、不完全な矢の束が障害となった事で、トライデントの打突は『柔らかく厚みのある物』を攻撃する結果となった。
 ほんの一秒前まで、全く想定していなかった手応え。
 それが、トライデントの手元をほんの少しだけ鈍らせた。

 加えて、フェイルの身体は反転の最中にある。
 力が完全に入りきれなかったその打突は、矢筒そのものの弾力、中の矢の硬度と僅かな隙間による力の逃げ道、そしてフェイルの身体の捻る力に負け――――矢筒を貫く前にその軌道をフェイルの身体の中心から左へと逸らした。

「……っ!」

 それでも、槍の先端はフェイルの背中を容赦なく裂く。
 決して浅くない切り傷となった。

 が、致命傷には程遠い負傷。
 何より、フェイルにはそれを痛がる余裕もない。
 反転する最中に、トライデントの身体は直ぐそこにある。

 ――――自身の弓の届く位置に。

「っ……ぅああああああああああああ!」

 絶叫したのは無意識だった。
 左手で掴んだ弓を、反転した勢いそのままにトライデントめがけ、振り抜く。

 腕力はいらない。
 回転する力のみ。
 それで――――十分だった

「み……」

 自分から踏み込んで来たトライデントに、回避する手段は一つしかない。
 首を捻り避ける。
 頭部、それもこめかみや顎先などの急所でない限り、弓の打撃で気を失う事などない。

 だが、フェイルが狙ったのは――――首だった。
 首自体は一応鍛えられる。
 けれど余程重点的に鍛えない限り、首回りの筋肉が隆起する事はない。

 トライデントもまた、首を鋼にするほどの鍛錬は行っていなかった。

「みご――――」

 フェイルの弓が、トライデントの首を――――喉頭を正確に捉え、そのまま振り抜かれる。
 トライデント自身が踏み込んでいた力も加わり、その威力は増大。
 耐えられる筈もなく、身体ごと吹き飛ぶ。
 
 無論、それだけでは済まない。

「……あがっ! が……かは……ァ!」

 喉頭を強打した事で、極めて危険な呼吸困難に陥り、倒れながら悶絶していた。

 呼吸そのものが不可能と思うほどの状態。 
 どれだけ冷静な人間でも、そんな状態になれば混乱は決して免れない。

 今、フェイルが左手で矢を握り、悶えるトライデントの前に立っても、それを視認する余裕などないだろう。
 そのまま振り落とせば、この戦いは終わる。
 トライデントの死をもって。

「……」

 だがフェイルは、それをしなかった。
 する必要がなかった。
 弓で首を殴るその刹那、トライデントは確かにこう言おうとしていた。

『見事なり――――』

 敗北宣言だ。
 ならば、トドメを刺す理由はない。

 しなかったのは、それだけではない。
 フェイルはこの戦いにおいて、目の力にも一切頼らなかった。

 自分の目に今何が起こっているのか、ある程度の目星がついている。

 敵の動きを極限まで鮮明に映し出す――――究極の動体視力。
 それは、鷹の目でもなければ梟の目でもなく、どちらの目でもある。

 鷹も、そして梟も、狩りを行う鳥。
 その両目の力が同時に発動している今、フェイルの目は言うなれば――――"狩る目"と化している。
 容易に狩猟が可能なほど、敵の動きが遅く見えるくらいに。

 しかし、使おうと思って使っている訳ではない。
 これまでの傾向から、狩る目は敵に対する集中力が極限に達した際に発動しているとフェイルは推察している。
 完全な制御は出来ないが、意識すればその状態になる事は可能だ。

 だが、トライデントに対しフェイルはその状態になるのを敢えて避けた。
 理由は極めて幼稚。
 
「……目で勝ったなんて、思われたくないからね」

 口に出す必要もなかった為、心中でそう独りごち、弓を握る左腕に力を込める。

 これまで何度となく違和感を覚え、時折視力が低下する事があったが――――今や両の目が崩壊寸前なのは明らか。
 けれども、温存した訳ではない。

 フェイルは――――弓矢と自分の為の戦いに、ひっそりと決着を付けた。







 

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