ファルシオンに、負傷の自覚はあった。
 しかしその自覚と、自分の状態との矛盾に気付くのは相当遅れてしまった。
 夢見が悪かったのが理由の一つ。
 何より――――今の今まで痛みを感じていないのが主因だった。
「……! ん……ぅくっ……!」
 だから、冷静さを欠いていたファルシオンが自分の脇腹に手を当てたのは、
 傷の具合を見ようとした訳ではなく、単にどうしようもなく行き場のない
 感情を持て余し、全身を掻き毟ろうとした仕草の過程にすぎなかった。
 偶然故に躊躇なく触れ、強く刺激した事で、突発的に生じた激痛。
 それが、ファルシオンの幻聴を消した。
 ただし、それは僥倖とも言い難い偶然だった。
 今、ファルシオンの体内に生じた痛みは、彼女の人生において最大級のものであり、
 冷静さを取り戻させる性質のものではない。
 寧ろ思考能力は全て奪われ、苦しみにのたうち回るしかなかった。
 この苦痛も贖罪――――などと自分に言い聞かせる余裕さえない。
 深傷を負ったと、嫌でも思い知らされる。
 脂汗で髪が濡れ、呼吸も乱れる。
 それでも、時間が経つにつれ、少しずつ痛みは和らいでいった。
「……」
 すると、徐々に現状というものが露わになってくる。
 ここはヴァレロン・サントラル医院の病室。
 室内に見覚えはないが、天井の高さ、部屋の広さ、微かに匂う薬草の香り、
 そして今自分の置かれている状況から、特定は難しくなかった。
 ただ、この場にフランベルジュも医師もいないのは少々腑に落ちなかった。
 そこまで頭の中で整理したところで、ファルシオンは自身の纏うローブを捲り
 傷口の確認を試みた。
 それなりに、覚悟と時間が要る作業だった。
 瞬間の記憶は残っていないが、街中で何者かが放った矢が自分の脇腹を
 貫いたのは確実。
 そして、その瞬間に気を失った事実は、矢に何らかの毒が塗られていた事を
 強く示唆するもの。
 同時に、即死を免れたのはそれほど強くない毒が使用されていたと推察されるが、
 それでも毒の影響で負傷箇所が醜く爛れている可能性は否定出来ない。
 にも拘わらず、ファルシオンの頭にその懸念は微塵もなかった。
 負傷箇所を確認したのは、治療されているかどうかを見る為。
 自分が気を失ってどれほど時間が経過したのかを知る必要があった。
 視認してみたところ、ファルシオンの脇腹に矢は――――刺さっていなかった。
 負傷箇所は丁寧に帯状の布が巻かれている。
 縫合されているか否か直接見るまでもなく、布に付着している血が少ない事から、
 現場でフランベルジュが巻いた布である可能性はなく、治療後であると判断出来る。
 よって、相当な時間が経っている。
 そう結論付けたファルシオンは、焦燥からくる緊張と痛みに対する反応で息を切らしながら、
 慎重にベッドを降り、扉を目指して歩き始めた。
 魔具は右手にしっかり装着されている。
 戦える。
 元々身体能力はないに等しいのだから、負傷による能力低下は大した問題ではない。
 余程優れた痛み止めを処方されたのか、傷口を触らない限り痛みはほぼなく、
 激痛で集中力を切らすような事もない。
 なら戦える。
 戦力として頭数に入る事が出来る。
 手遅れでなければ。
 ファルシオンの頭の中は、まだ自分が勇者一行の一人だという未練と、
 自己犠牲による贖罪とで埋まっていて、本来果たすべき目的が見失われていた。
「愚かだな。その怪我で何が出来る」
 だから、という訳ではないが――――そこでようやく、ファルシオンは気付いた。
 室内にいたのが自分だけではないという事実に。
「……ヴァー……ル……?」
「"さん"付けではないのか。他の奴はそうしている癖に」
 部屋の片隅で、腕組みしながら壁に寄りかかるその女性は、まるで嫌がらせのように
 気配を完璧に消失させていた。
 その傍にアルマの姿はなく、彼女一人。
 本来なら、何故彼女が単身でこの場にいるのか、深く考察する必要があるが――――
「貴女は……どうして……あんな事を……!」
 ファルシオンの口をついたのは、ここにいる理由でも、アルマの居場所でもなく、
 彼女の行動を咎める言葉だった。
 明らかに冷静さを欠いている。
 その事実を隠せないほどに。
「貴様では無理だ」
 それを見透かされたかのように、鋭く抉ってくるヴァールの言葉。
 連なる事で、より貫通力を増してくる。
「貴様ではフェイル=ノートは守れない。アルマ=ローランも。貴様の役目はもう、ない」
「何を……言って……」
「魔術士はまた変わる。魔術……いや、魔力の自律化が進めば、やがて魔術そのものの
 意味が変わる。オートルーリングの弊害でルーリングの鍛錬を怠った貴様等は、
 いずれ使いものにならなくなるだろう。生き残るのは私達だ」
 会話が成立していない。
 最早、お互いに意思の疎通が図れているとは思えないほど、両者の目線の高さは違っていた。
「もう休め。貴様の冒険は終わった。貴様がやろうとしていた事は全部、私がやる」
 何故、ヴァールがそのような事を言うのか――――ファルシオンは
 それを考えようとはしなかった。
 不思議な感覚だった。
 ずっと、目の前にある難題を逃げず、躱さず、受け止めてきた。
 魔術士を目指す道からも。
 勇者一行を騙し続ける行為からも。
「嫌です」
 しかし、ファルシオンは今、初めて思考を放棄した。
 相手の言葉の意味を、意図を、立場を完全無視し、己の感情だけを吐露した。
「貴女がどれほどの魔術士だろうと……誰の為に何をしていようと、どれだけ核心に迫っていようと、
 私には関係のない話です。貴女に私の代わりなんてさせません」
 単なる意思表示。
 それ以外には無価値の返答だった。
 ヴァールから何かの情報を引き出す事もなければ、重大な意味を潜ませてもいない。
「私の邪魔はさせません」
 そう告げ、扉への歩みを再開する。
 ヴァールもまた、その場から一歩も動かない。
 相容れる事のない魔術士達の空虚な攻防は――――尚、続く。
「無駄だ。意味がない」
「……だからどうだと言うんですか」
「それどころか逆効果だ。貴様が動けば、それだけで状況は悪化する」
「何を言って――――」
「貴様の所為で、フェイル=ノートが窮地に立たされた」
 ファルシオンの歩みが、止まった。






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