フェイルの蹴った矢は、地を這うように回転し続けながら、机の脚を掠め、
 微かに角度を変えつつもビューグラスの足下に襲いかかる。
 この行為を予測出来た者は、ガラディーンを含めこの場にはいなかった。
 弓使いが矢を蹴る。
 そのような攻撃手段を一体誰が想像出来るのか。
 尤も、仮にいたとしても防ぐ術はなかっただろうが――――
「ぬっ……!」
 しかし、矢尻が標的の皮膚を抉り、血管に達するか否かは運次第。
 矢の軸部分が先に当たれば、それ以上回転はせず、その場に落ちるのみ。
 結果は――――
「……アテが外れたな、フェイル」
 その言葉に集約されていた。
 矢はビューグラスの右足首に直撃した。
 しかし当たったのは、矢尻ではなく矢羽の方。
 当然、鮮血が舞う事もなければ毒が身体に回る事もない。
 フェイルの奇襲は、ビューグラスに軽い打撲を与えるのみに終わった。
「しかし驚いた。儂を殺そうとした……訳ではないのだろうが、
 脅すつもりだったとはな。『解毒剤が欲しくば花葬計画から手を引き
 アニスを助けろ』。そんなところか」
 表情こそ険しいままだが、ビューグラスの声は明らかにこれまでとは違い、
 生気を帯びたものになっていた。
 一瞬ではあるが危機を感じた事実と、それを脱した事による高揚。
 或いは――――
「悪くはない。だが所詮は運任せの卑俗な行為。ここがお前の限界という訳だ」
 実の親である自分を脅してまで己の信念を貫こうとしたフェイルの姿に
 感銘を受けたかのような、一種異様な心の動き。
 いずれにせよ、そんなビューグラスに対するフェイルの感想は一つだった。
「随分と饒舌だね。そういう貴方の姿は、僕の記憶にはないよ」
「今度は儂を偽物とでも言うつもりか? 期待していた反応がない。
 子を愛さない親などいない。ならばこの儂はお前の知る
 ビューグラス=シュロスベリーではない、と」
「違います。ビューグラスさん。彼の狙いは貴方ではありません」
 これまでより若干早口で、ビューグラスの戯れを遮ったのは――――
 リジルだった。
「……何?」 
「彼が弓矢を手放したのは、ガラディーンさん対策でしょう。
 騎士の彼に丸腰の人間は斬れない。彼が今も騎士道精神を持ち合わせているのを
 確信しての事だったのでしょう」
「……」
 沈黙を守るガラディーンは、フェイルが矢を蹴った瞬間も
 微動だにしないままその場に留まっていた。
 ビューグラスに危機が迫ろうと、助ける気はない。
 そういう彼の姿勢が、フェイルには必要不可欠だった。
「彼の狙いは、この場の人間関係を正しく把握する事。弱りましたね。
 今の一連の出来事で、結構な情報を盗まれましたよ。特にカラドボルグさん。
 貴方の反応が一番微妙でした」
「え……? 俺なんかマズった?」
「ここでフェイルさんに死なれるのは良くないって、思いっきり顔に
 出てましたよ。声にも。医者がそんな事で良いんですか?
 患者に嘗められますよ、全く」
「マジかよ。どんな時も飄々としてるのがステキって飲み屋のねーちゃんに
 散々褒められたの、アレもしかしてお世辞か?」
 依然として緊迫した空気を纏う気がないカラドボルグに、
 リジルは割と本気の溜息を吐いていた。
 或いは、この場で一番の常識人は彼かも知れない――――
 そうフェイルに思わせるくらいに大きな。
「……どういう事か説明して貰おう。儂が一杯食わされたような流れになっているのが
 少々気に食わない」
 痺れを切らしたかのように、ビューグラスは徐に首をもたげ、
 リジルを左目で睨む。
 その姿もまた、フェイルの記憶にはない彼だった。
「そもそも、貴方を毒に侵したところで無意味ですよ。貴方はフェイルさんより
 遥かに毒に精通している上、ここは病院ですから。解毒剤くらい直ぐ調達出来るでしょう」
「即効性の高い毒ならそうもいくまい……いや、それだけ毒性が強いとなると
 今度は脅している間に命を落としかねない、か」
「ええ。その中間、丁度良い具合の毒なら脅迫も有効でしょうが、そんなこの場面でのみ有効な
 都合の良い毒を予め用意していたとは到底考えられません。彼の先程の攻撃は――――」
 フェイルへ向けて、リジルは緩やかに視線を送る。
 自分達の"弱味"を握った、もう無視する訳にはいかなくなった存在へ。
「ビューグラスさん。貴方がこの場において、どれだけ重要視されているか。
 貴方が危機に晒された際に我々がどんな反応を示すか。それを見たかったんですよ。
 フェイル君は」
「花葬計画におけるその人の重要性と現在の立ち位置についてもね」
 こともなげにそう告げ、フェイルは落とした弓を拾う。
 もう丸腰でいる理由はない。
 "検証"の際に最も厄介であり、同時に避けなければならなかったのは、
 ガラディーンの介入だった。
 彼がもしビューグラスと強い結びつきを持っていて、その生命の危機に際し
 全力をもって守護しようとするならば、フェイルには対抗策がない。
 だが予防策はある。
 幸いにも、その予防策はしっかりと機能した。
 旧知の仲である自分を殺そうとはしないだろう――――そんな甘い考えは、
 今のフェイルにはなかった。
「よくわかったよ。花葬計画を今実際に動かしているのは、ここにいない人なんだね」
 もしビューグラスが失われても、計画は止まらない。
 だからビューグラスへのフェイルの攻撃に対し、またその直後において、
 他の3人の反応は薄かった。
 だとすれば、現在の実行犯は――――
「スティレット=キュピリエ。彼女が今、花葬計画を独自に動かしている。
 貴方達が意図していた計画とは違う形で。そして、彼女には協力者が多数いる」
 これまでの経緯で、フェイルはここヴァレロンに張り巡らされた
 数多の人間関係、各組織ごとの対立構造を目の当たりにしてきた。
 そして、その中心にはスティレットがいた。
 カバジェロも、土賊も、諜報ギルド【ウエスト】についても、全て彼女が一枚噛んでいた。
 或いは――――それらより遥かに巨大な何かを、流通の皇女は操っているのかもしれない。
 この場に彼女がいない理由を、フェイルはそう結論付けた。
「貴方たちはその状況に困っていて、打開策を練っている最中。
 だから、僕を利用出来るかも知れないと思った。違う?」
 国家機密にさえも手が届く彼等が、スティレットの右腕であるヴァールとフェイル達が
 行動を共にしているという情報を知らない訳がない。
 なら、間接的にだがスティレットと接点のあるフェイルは、利用価値がある。
 それが、フェイルをこの場に招き入れ、時に煽ててまで引き込もうとした理由――――
「……王宮にいた時から、妙に鋭い所のある子供だとは思っていたが。ここまでだったとは」
 まるで憑き物が落ちたかのように、ガラディーンのその呟きには奇妙な解放感があった。








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