――――少年期のフェイルにとって、ビューグラスの存在は不明瞭さの極限に位置するものだった。

 アニスに連れられ、屋敷へ足を踏み入れた際、庭園の草木に水をやっていた姿は
 現在でも鮮明に覚えている。
 しかしながら――――その時に交わした会話は、まるで記憶にない。
 一体どんな言で、どんな表情で、どんな感情で彼が自分を屋敷に招き入れてくれたのか、
 フェイル自身が何度頭の中に問いかけてみても、答えは返ってこなかった。
 屋敷での生活も、断片的な記憶ばかり。
 アニスと奇妙な行動に付き合わされながらも楽しく過ごした日々は
 かなり明瞭に覚えているものの、ビューグラスとの思い出は極めて限定的、
 断片的なものに留まっている。
 ただ、その極めて少ない幾つかの欠片は、何よりも強烈に、何よりも燦然と輝きを放ち、
 フェイルの脳裏に焼き付いたままでいる。

『形はいずれ崩れる。だが、崩れた後もまた、それは在り続ける。それを忘れるな』

 屋敷のエントランスにあったガラス彫刻の置物を割ってしまった際の言葉も、
 その中の一つ。
 そして――――王宮へ行くように促された日の事もまた、克明に憶えていた。

「……王宮?」

 特に何か前触れがあった訳ではない。
 自室に呼び出されたり、大事な話があると前置きされたりはせず、
 その会話はごく普通の、いつもと同じ香草の多い夕食をとった直後に始まった。
「取引先の商人に『弓を剣のように操る特殊な弓術を日々鍛錬している』とお前の事を
 話した事があってな。商談を円滑に進める為の他愛のない雑談だったのだが……
 その商人がどうも多方面で話の種にしたらしく、宮廷弓兵団の耳にまで届いたらしい」
「それって随分と大事になってない……?」
「少なくとも、尾ヒレは相当付いているだろう。『弓で100人を切り伏せた』くらいの事は
 言いふらしているかもしれんな」
「そんないい加減な。弓でどうやったら人を斬れるのさ」
 シュロスベリー家に住まう事になって以降、フェイルはアニスと共に言語や一般教養を
 屋敷の召使いから学び、同時に独力で弓矢の訓練を行っていた。
 訓練は一日2時間。
 短いようにも思えるが、高い水準で集中力を維持するにはこれくらいが人間の限界であり、
 射撃において集中力の切れた状態での訓練は毒にこそなれ薬にはならないと
 幼いながらも経験則から学んでいた故の時間設定だった。
「冗談だ。とはいえ、その尾ヒレが付いた話を宮廷弓兵団の誰かが、或いは騎士や貴族……
 若しくは王族といった、人事面に口出し出来る誰かが真に受けたのだろう。
 一度本人を見てみたいから王宮に招待するとの書状が届いた」
「すごーい! フェイル、王様のいる所に行くの?」
 無邪気な眼を爛々と輝かせ、アニスが陽気に問いかける。
 その時はまだ、彼女は書状の真意をわかっていなかった。
「もしそうなれば、暫くお別れだな」
 一度本人を見てみたい――――額面通りにこの言葉を受け取る事は、通常はしない。
 王宮からの招待状といえば聞こえは良いが、実際には強制的な召集であり、
 平民であるフェイルに拒否権はない。
 そして、どのような理由があっても、一度呼び出した人材を直ぐに手放す事もない。
 王宮の召集の重みを堅持する為だ。
「えー! なんで!? すぐ帰ってくればいいじゃない!」
「大人の世界はそういう訳にはいかないのだよ。アニス。さて……つまりはそういう話だ。
 わかるな、フェイル」
 ビューグラスは、いつも多くを語らない男だった。
 それによって、フェイルは自然と洞察力を身につけた。
 温かな思い出と引き替えに。
「大人の世界に足を踏み入れろ、って事?」
「お前が本気で『弓矢保存の会』の会長になるつもりならな」
 厳格な顔つきとは裏腹に、ビューグラスは時折砕けた物言いでフェイルを和ませようとした。
 笑顔こそ見せなかったが、それでもフェイルにとって大きな安らぎになっていた。
 身寄りのない自分を引き取り、育ててくれた存在。
 頭が上がらないばかりか、一生かけても返せない恩を感じている相手。
 その相手が自分に歩み寄ってくれていると思うだけでも、自然と肩が軽くなる。
「そんな会はないけど、僕の目的は変わらないよ。今もこれからも」
「ならば、行くと返事をしても良いな?」
「ダメー!」
 フェイルよりも先に返事をしたのは、むくれた顔のアニス。
 その後、彼女を説得するのにはそれなりの時間を要したが、フェイルは王宮に招かれることを即決した。
 そこに自分の理想があると信じて――――

 


「……さて、そろそろ話は尽きたのではないかね?」
 激高するフェイルを無視するかのように、ビューグラスはリジルへ向けて会談の終了を促す。
 当時とは真逆の光景。
 数少ない、克明に記憶している中の一つを汚され、それでもフェイルは悲痛な面持ちで"留めていた"。
「答える気は……ないんだね」
 一つの衝動が存在する。
 それを開放すれば、この切迫した状況に風穴が空く。
 穴は決して小さくはなく、花葬計画に大きな影響を及ぼすだろう。
 中心人物の『死』となれば。
「動くな」
 だが、そのフェイルの潜在的な殺意を汲み取ってか、或いは状況的に、精神力動的観点から
 "なるべくしてそうなる"という憶測の元にした警告だったのか――――
 フェイルの隣で静かに息を潜めていたガラディーンが、気配はそのまま厳かに命じた事で
 芽は摘まれた。
 警告に怯えたからではない。
 この場所へ連れて来られた意味――――それをフェイルが理解したからだった。
「これから……ここにいる人達で何をするつもり?」
 最早、肯定にも否定にも意味などない。
 そう見切りを付けたフェイルは、視線をリジルへと移す。
 感情は、置き去りにする事しか出来なかった。
「一言で言えば、全面戦争です」
 実にあっけらかんと、リジルは物騒の極地を口にする。
 それが決して冗談の類ではないと、フェイルも把握していた。
「この国の汚点……そうですね、仮に『黒箱』とでも言いますか。黒歴史を詰め込んだ箱ですね。
 あ、これ例えですよ。実際に黒い箱ではありません。兎に角、それを焼き払ってしまいたいという
 人達がいます。でもその行為は、僕達が作り上げてきた花葬計画とは正面衝突するようなもの。
 よって、全面戦争です」
「その黒箱っていうのは、指定有害人種の存在……だけじゃなさそうだね」
 その為の動いている勢力――――そして人物がいるのを、フェイルは知っている。
 デュランダルだ。
 そして、デュランダルがそれだけの為に動いている訳ではないのも容易に想像出来る。
 国家ぐるみで、何か大きな事をしようとしている。
 勇者計画だけではない。
 寧ろ、勇者計画を隠れ蓑にしようとしている節さえ、フェイルは感じていた。
「ここから先は言えません。例えば、貴方が……僕達の仲間になるのなら、話は別ですけどね。
 フェイル=ノート」
 リジルの目が妖しく輝くのを視界に収めながら、フェイルは自身の理解の正しさを嘆いた。







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