薬の概念が発見・定着したのがいつの時代の出来事だったのか――――
 それは有史以来、数多の学者によって議論が繰り返されてきたが、
 現在まで特定には至っていない。
 資料自体は極めて豊富で、まだ紙がなく粘土板に文字を記載する時代から
 植物と治療の関係性については明記されており、当時の言語と合わせて
 その解析が進められている。
 けれど、それをもって最古の資料とするだけの確信はなく、
 薬の起源が果たして何百年前、或いは何千年前なのかは明らかになっていない。
 確かなのは、薬草学という分野が途方もない年月を積み重ねてきた事。
 そして、医学と経済学など他分野と結びつき、新開発と効率化を繰り返し、
 より多くの命を救ってきた事。
 派手さはなく、時代の主役になった試しなどないが、大樹を支える根のように
 人々の見えないところで世界を支えて来た学問なのは間違いない。
 フェイル自身、薬草士としてそこまでの壮大さを自覚した事はないが、
 自分が処方した薬が効いたと客に笑顔で話して貰った時など、
 その片鱗を実感したものだった。
「新しい痛み止めを開発したそうだな」
 不意に、ビューグラスの口から意外な言葉が出る。
 エル・バタラ開幕に合わせ、十分な需要が期待出来る薬、そして
 参加するフランベルジュやリオグランテの助けとなる薬をと思い立ち、
 フェイルは即効性のある鎮痛薬を生み出した。
「【ナタル】という新薬の評判は聞き及んでいる」
「……」
「効きの強い、そして効くまでの時間を短縮した鎮痛薬は通常、
 麻酔の範疇に含まれる。麻酔効果のある薬草は人体への悪影響が懸念されるが……
 お前の【ナタル】には、麻酔効果は一切認められなかった。
 持続時間に考慮の余地はあるが、実用性の高さは認めねばなるまい」
 その見解は――――ビューグラスがフェイルの作った薬を分析した証。
 薬草士としての自分に関心を抱いてくれているのでは。
 そんな思いが一瞬過ぎり、フェイルは思わず顔をしかめた。
「何故【ナタル】と名付けた?」
 ビューグラスの目が、そんなフェイルの葛藤を射貫くように鋭さを増す。
 しかしそれは、フェイルへの攻撃性などではない。
「――――育ての親の名を」
 フェイル自身が、そう見えているだけに過ぎない。
 自分が射貫かれたような感覚を、自分で勝手に抱いてる。
 そう自覚し、思わず右の拳を強く握り締めた。
「あの薬を広め、育ての親の名を世間に誇示したかったのか?」
「……違うよ」
 表層は『自分への当てつけか』と言わんばかりの問いだが、
 ビューグラスの表情、そして全体像にそういった感情は欠片も見当たらない。
 彼には血縁など最初から眼中にない――――フェイルはようやく
 その実感を真の意味で得た。
「深い意味なんてない。痛みを取り除いてくれる、そんな存在を思い浮かべた時、
 真っ先に出て来たのが……あの人の名前だっただけです」
「成程。持続時間の短さも重なるという訳か」
 実際には、そこまで重ね合わせた訳ではなかった。
 本当にただの思いつき。
 ナタルという名の弓職人は既にこの世にはいないが、それでもフェイルの体内に
 血よりも濃く流れ、根より深く下ろしている。
 ごく自然に、その名を使おうと思い立っただけだった。
「だがその命名は果たして、薬草学の発展に貢献するのかね?」
 そんなフェイルに、ビューグラスは穏やかに牙を剥く。
 獣が欠伸でもしているかのように。
「自身の想いを投影させる。結構な事だ。だが結果として、お前の作った薬は
 その有用な効能とは裏腹に、わかり難い名前の薬となってしまった。
 ナタルという言葉は、お前にとっては重要なものだ。だが薬を使う者、
 治療する者、される者にとっては、極めて不親切と言わざるを得まい」
「それは……」
「お前だけに異を唱えている訳ではない。薬にまつわる全ての事柄において、
 同じ事が言えるのだ。薬草学が日の当たらない分野となった理由はそこにある」
「ようやく、『薬草学が腐り果てる』っていうさっきの言葉と繋がるんですね」
 痺れを切らしたように呟くリジルに首肯一つせず、ビューグラスは
 雰囲気を崩したままのカラドボルグへ視線を投げた。
「本来、医学と薬草学は同等の立場でなければならない。しかし今、
 薬草学という分野は医学に吸収され、『薬学』という医学分野の一つになりつつある。
 それは単に言葉の問題、冠の問題という話ではない。治す"者"が重宝され、治す"物"が
 軽視される恐れがある。この病院のようにな」
 ビューグラスの指摘する問題は、フェイルにも容易に想像出来た。
 質を求め知識と技術を身につけた薬草士が軽視され、医師ばかりが持て囃される。
 もしそうなれば、薬の調合や原料の調達が軽視され、より簡易に、よりコストを抑えた薬ばかりが
 開発されるようになる。
 医師はより多くの金を得る為に治療し、富裕層もその後押しをする。
 効果の高い薬は、その富裕層が独占する。
 結果、一般市民は質の低い薬ばかりを掴まされる。
「耳の痛い話だね。実際、そうなれば医学も衰退するだろうが、金だけは集まる。
 金の集まる分野は腐敗したとしても、腐り果てる事はない。異臭を放ったまま、
 世の中のごく一部の人間にだけ貢献していくだろうね」
 薬草学と医学の結びつきは――――歪。
 真剣味を欠いたカラドボルグの発言は、未来を投影したものだった。
「進化を止めた分野は確実に滅びる。このままではそう遠くない未来、薬草学は医学に
 吸収されてしまうだろう。儂はそれがどうしても我慢ならない。故に、反抗する事にした」
「それが……その為の武器が、毒」
 より多くの命を救う薬ではなく、より多くの命を奪う毒。
 真逆のようでその実、表裏一体でもある両者。
 ビューグラスはそこに可能性を見出した。
「戦争がなくなり、平和な世の中になったと言われ久しい現代においては
 抑止力がより重要性を増している。そうだな、ガラディーン」
 既に結びつきが明らかになっているが、それでもビューグラスが剣聖の名を
 呼び捨てにした事に、フェイルは強い違和感を覚えた。
 だが当の本人は特に感情を波立たせず、小さく頷くのみ。
 それだけでも、この空間が如何に異様であるかが垣間見えた。
「隣国のデ・ラ・ペーニャでもそのような動きがあると聞いている。
 使用を禁じられた、より強力な魔術……『邪術』なるものの研究を進め、
 他国への脅威にしようと目論んでいるとか。ルンストロム卿の言葉をそのまま
 鵜呑みにすればの話だが」
「そういう動きがあるのは事実ですよ。少なくとも、教皇選挙でその抑止力が
 一つの焦点になっていたのは間違いありません。それに、生物兵器の方でも
 より強く、より大きな被害をもたらす新兵器の開発は常に進められています。
 平和の裏側では、抑止力合戦という戦争が勃発中なんですよ」
 そう告げるリジルの口の端は、歪みなく吊り上がっていた。






  前へ                                                             次へ