「大丈夫。わたしの家には、薬草があるから」

「ふふっ。あなたは知らないのね。本物の薬草を」

「いらっしゃい。弓を触らせてくれたお礼に、見せてあげる。本物の薬草を。あなたが知らない、魔法みたいな、ね」

 

 

 フェイルにとってアニスとの出会いは、自分の人生を大きく左右する重大な出来事だった。
 彼女と知り合ったからこそ、第二の人生――――故郷と育ての親を失った自分が
 ヴァレロン新市街地で新たな一歩を踏み出すことが出来たと思っていた。
 自分を拾って育ててくれた弓職人が、その人生を捧げ、一生を賭けてまで
 追求し続けた武器の存在意義を守る為、必死になってその"道"を模索し、
 衣食住を気にせず訓練に明け暮れる事が出来た。

 大恩人。

 フェイルにとって、ビューグラスを一言で表すなら、それが最も相応しい言葉だ。

「魔術が普及しつつあるこの時代に、弓矢という武器を自分の手で生き残らせる。
 お前のその願いは、少なからず儂の思想と重なるところがあった。
 だから儂は、観察対象として招いたお前を軽んじた事は一度もない。
 それはお前自身、感じ取っている事ではないかね」
 そのビューグラスの発言に、偽りはなかった。
 フェイルは一度たりとも、ビューグラスが自分を蔑していると思った事はない。
 寧ろ、大切にしてくれていたとさえ感じていた。
 身寄りのない、取り立てて知識も教養もない子供を引き取り、
 何不自由ない暮らしをさせてくれていた――――そう本気で感謝していた時期が、
 余りに、余りにも長過ぎた。
「その辺の事情、僕は余り知らないんですよね。フェイルさんがジェラール村に捨てられて、
 そこで生物兵器に汚染された。しかし彼は心身に重大な症状を引き起こす事なく、
 特殊な目を二つ得た。ここまでは知っているんですけど……」
 割り込んで来た声には、好奇心の塊のような明るさと、不可思議な後ろ暗さが共存していた。
 そんなリジルの言葉に対し、ビューグラスの目が微かに面積を失う。
「奴には育ての親がいた。腕の良い、しかし頑固な弓職人だったと聞き及んでいる」
「成程。魔術がデ・ラ・ペーニャのみならず全世界に広まっている昨今、弓矢は過去の遺物と
 なりつつあります。そんな時代への反逆ですか。それは確かに貴方の理想と重なりますね」
 ビューグラスの理想。
 それがアニスの治療と結びつくものであってくれ――――
「貴方は、この世界で最悪の"毒"を追い求めている人ですからね」

 ――――そんなフェイルの願いは、形なきまま霧散した。

「……え?」
「毒ですよ。彼は毒の特別専門家なんです。魔術にも生物兵器にも負けない、
 圧倒的な軍事力にさえ匹敵する、そんな毒を完成させるのが夢。そうですよね?
 ビューグラスさん」
「……」
 返答はない。
 だがその無言を否定と捉える人間は、少なくともこの場には誰一人存在しなかった。
「どういう……事?」
 無為に限りなく近い、空虚に限りなく染まった問い掛けを、フェイルはそれでも
 口にしてしまう。
 聞く必要は全くない。
 ちょっと考えればわかる。
 ビューグラスの目的が『究極の毒』であるならば、彼の行動全てにおいて――――
 辻褄が合うのだから。
「アニスの為に、研究していたんじゃないの? アニスを治す為に、
 生物兵器を体内から消し去る薬を……作ろうとしていたんじゃないの?」
 その為の実験。
 その為の――――大量殺人。
 許されざる蛮行であり、人道に背く行為である事は明白だが、それでも尚、
 その根底にあるのが娘への愛情だと信じていたからこそ、フェイルは覚悟をもって
 ビューグラスを止めようとしていた。
 それが責任だとも感じていた。
 だが、真実は違う。
 違うと、音もなく告げて来る。
 迫り来る無機質な闇に呑み込まれそうになったフェイルは、
 自分の両の目を思わず右手で覆い、必死になって耐えていた。
 頭痛がする。
 吐き気もする。
 全身が強張り息苦しささえ感じる。
 そんな闇が、空間を徐々に浸していた。
「僕を観察して、僕を資料の一つにして、アニスを救おうとしていたんじゃ……ないの?」
 夢を諦め、宮廷弓兵としての地位を捨て、ヴァレロンへと戻る決意をしたのは、
 アニスを救う方法が何かないか模索する為だった。
 生物兵器を完全に除去するには、極めて効果の高い薬草と毒草が必要。
 毒草で生物兵器を殺し、薬草で当人の身体を守る。
 この二つの条件を同時に満たすのが、唯一の解決方法だと信じ、
 薬草士の道を選んだ。
 単に薬草士になるだけなら、ビューグラスを師事するのが一番の近道だっただろうが、
 彼がアニスの治療方法を模索しているならば、それは邪魔になってしまう。
 アニスの惨状を、親であるビューグラスが知らない筈がない。
 なら、絶対に何よりも優先して治そうとしているに違いない。
 それに、二手に分かれた方が可能性は高くなる。
 フェイルが独学を選んだ理由は、ビューグラスがアニスを救おうとしている事が前提だった。
「……知ってたよ」
 親子の愛。
 例え表面上は冷めているように見えても内実は違っていて、必ず存在すると
 多くの人が信じて疑わない、不可侵の領域。
 子を愛さない親はいない。
 誰もが軽々しくそう口にする。
 絶対的な真理であり、覆す事は許されない。
 しかしそれは、裏を返せば――――実は存在しないからこそ
 否定が『禁忌視』されている、とも捉えられる。
「貴方が僕に裏稼業の協力を仰いだ時点で、貴方が王宮……銀朱の誰かと関わりがある事なんて
 火を見るより明らかだった。じゃなきゃ、僕にあんな大事な仕事は任せないよね。
 自分の差し金だと気付かれたら社会的立場さえ揺らぐような、怖い仕事は」
 申し出たのはフェイルの方だった。
 何か役に立てる事はないか、と。
 王宮で学んだのは、単なる弓兵としての技術のみじゃない。
 もっと実戦的な、実用的な技術を身につけていると。
 当時、フェイルは薬草店を構える為に経済面でかなり困窮していた。
 心身共に切羽詰まっていた。
 だが、稼げる仕事が欲しくてビューグラスにお窺いを立てた――――という訳ではなかった。
 フェイルが恐れていたのは、たった一つ。
 アニスの身体を治せないかもしれないという、ただそれだけの懸念。
 だからビューグラスがどの程度研究を進めているのかが、どうしても気になった。
 禁忌の研究に手を染めているかもしれない。
 生物兵器そのものが禁忌なのだから。
 ならば、直接聞くのは得策ではない。
 万が一、外部に漏れようものならビューグラスは全てを失い、アニスも拠り所を失う。
 近付き、探るしか方法はなかった。
 ビューグラスは――――即座に食いついて来た。
「僕はずっと、貴方がアニスの為に手を汚していると思っていた。
 この街の有権者を、自分の脅威や障害になる人物を表舞台から引きずり下ろしていたのは、
 自分が生き残らなければアニスを救えないから……そう解釈していたんだ」
 けれど、現実は違った。
 違っていると、フェイルは内心気付いていた。
 それでも、見て見ぬ振りをしていた。
 親子の愛を全否定する事が出来なかった。
 だから、自分がビューグラスの依頼に基づき暗殺者まがいの副業を行っていた頃の事は
 無意識の内に頭の中から消していた。
 極力思い出さないようにしていた。
「でも、仮にそうだとしたら、僕の自己申告だけをアテにする筈がないんだ。
 僕が『王宮で特殊な技術を学んだから任せろ』って言ったところで、それを鵜呑みにするほど
 僕達の関係は深くない。でも、僕の事を王宮の誰かから聞いていたのなら、話は別だよね」
 フェイルの目は、その『誰か』を捉えていた。
 寂しくも冷ややかに。






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