回想に浸りながら歩くことが出来るほど、病院内には殆ど人気がなく、
 薄暗い廊下が生気なき老婆の溜息のような空気を帯び、前方へ伸びている。
 受付にさえ誰も座していなかったが、フェイルは然程驚いてはいなかった。
 貴族・富豪のみを相手にしているヴァレロン・サントラル医院は、
 受付が果たすべき役割は施療院や市民向けの施設とは異なる。
 いわば添え物に等しい。
 というのも、尊き身分の者や多額の寄付を確約しているような相手の場合、
 出迎えるべきは治療を行う医師だからだ。
 受付に出迎えをさせるのは失礼に当たるし、患者側も軽んじられたと憤慨する。
 そういう不文律が確立されている。
 それでも、病院という施設の性質上、また案内役としての役割上、
 診療時間内には受付に人を置いているが、時間外にはその限りではない。
 これについては、以前アニスをこの病院へ連れて来た際にフェイル自身が確認していた。
 受付だけではない。
 夜間には院内に殆ど人が出歩いていない。
 少なくともフェイルは当時、見回りの人間にすら出くわさなかったし、
 詰め所も確認出来なかった。
 そんな過去の経緯もあり、フェイルはまずアニスが以前いた病室を目指していた。
 今いるこの場所は、紛れもなく病院。
 だが同時に、敵の本拠地でもある。
 ならばまずは拠点とすべき場所の確保が必須。
 アニスの病室をその拠点とする腹積もりだった。
 アニスは既にこの病院を離れ、自身の住む屋敷へ戻っている――――が、
 彼女の治癒がビューグラスの目的そのものであり、花葬計画の中核を担っている以上、
 アニスは特別扱いされていたと考えるのが自然。
 退院した今でもアニス専用の病室となっている可能性が高い。
 ならば今は無人であり、拠点としては最適だ。
 病院特有の辛気臭さに辟易する余裕もなく、フェイルは以前来た時の記憶を頼りに
 注意深く、足音を立てぬように前へと進む。
 その一方で、いよいよ核心に迫ろうとしている緊張感もあってか、
 頭の中ではこれまでの道のりをより鮮明に、より深く思い返していた。
 色んな事があった。
 勇者一行との出会いに始まり、薬草店の経営危機に瀕しこのヴァレロン・サントラル医院
 との業務提携を画策し、アルテタへと出張した事もあった。
 それから――――メトロ・ノームでのアルマとの出会い。
 美しさを極めた彼女の容姿に心を奪われつつも、何処か儚く物悲しげな少女の心に触れ、
 少しずつ自分が日常から遠ざかっていく事を自覚した。
 何か巨大な力のうねりに巻き込まれた訳ではない。
 かといって、騒動の中心にいる訳でもない。
 フェイルの立ち位置は、常に中途半端なものだった。
 幸か不幸か、だからこそある程度の客観性をもって事件に対処出来ていた。
 しかし――――歴史在る武闘大会エル・バタラの開幕によって、その立ち位置は脆くも崩れ去る。
 少しずつヴァレロン新市街地を浸食していた、得体の知れない不気味な暗雲は、
 やがてリオグランテや街の住民の命をも奪い、その全土を覆い尽くすかのように
 街全体を呑み込んでいった。
 リオグランテの死後、フェイルはその暗雲のまさにど真ん中へと潜り込む羽目になった。
 まさしく暗中模索。
 その所為もあり、見えるものも見えなくなっていた。
 本来なら疑問に思い、注意深く慎重に思慮すべき幾つかの事項を見逃していた。

「こんな所で何をしているんだ?」 

 その背後からの声が、フェイルに気付かせた。
 猜疑心を持つべきだった。
 不可解だと、少なくとも半信半疑の姿勢をとるべきだった。

 ――――何故、"剣聖"と呼ばれるほどの人物が、いつまでもこのヴァレロンに居続けているのか?
 
「……ガラディーンさんこそ、どうしてここに?」
 ガラディーン=ヴォルスの役割は、エル・バタラにおいてデュランダルに敗北し、
 市民に、そして国中に世代交代を印象付ける事。
 ならば既に大会を終えた今、彼はお役御免となる筈。
「なんの事はない。デュランダルに食らった一撃が思いの外強烈でな。
 未だに時折頭痛がするから通院している。老体には少々、刺激が強過ぎたな」
 その言い分だけを切り取れば、特に不審な点は見当たらない。
 けれど、ガラディーンの立場を考えれば、明らかに矛盾している発言だ。
 彼は引退を仄めかしていた。
 ならば、まずすべきは王宮への帰還。
 自身の役割を果たし、無事世代交代を終えた報告を王にすべきだ。
 王宮騎士団【銀朱】師団長の立場にある彼は、王からの許可なしに引退など出来ない。
 他に目的があるとすれば――――例えば息子であるハルと親睦を深める、
 或いはデュランダルの手伝いをするというのなら、この地に残る理由としては
 一定の正当性を有するだろう。
 が――――
「僕は、この病院に用があって来た。でも、治療じゃないよ。診療時間はとっくに終わってるし」
「……」
 ガラディーンの行動はというと、ハルの剣を黙って持ち去り、デュランダルとは行動を共にせず、
 メトロ・ノームとこの病院に姿を見せるという極めて不自然なものだった。
 一貫性がないように見えるのは、その目的が不明瞭だから。
 フェイルは、自分の呼吸が浅くなっているのを自覚し、まるで溺れているような心持ちで
 振り向き、ガラディーンの目を睨む。
「この時間に通院ってのは、少し無理があるよね。そもそも、通院なんてするとは思えないよ。
 負傷直後に黙っていなくなるような気性の貴方が」 
「貴方……か。言葉遣いを覚えたというべきか、距離を置かれたと嘆くべきか」
 今にも震えそうな程の緊張感をまとうフェイルとは対照的に、
 ガラディーンは普段と何も変わらない、王宮でフェイルと接していた時と同じ口調で
 肩を竦めつつそうぼやいていた。
「どうして……王宮に帰らないの? ここは貴方の居場所じゃない。病院だって、
 行きつけの所があるでしょ? それなのに留まり続けて、しかも師団長らしくない
 意図の見えない単独行動を続けている。おかしいよ」
 歯に衣着せぬ、まるでかつて王宮に居た頃のような物言いで、フェイルは問い詰める――――
 のと同時に、何故今までそれを疑問視していなかったのか、自分へと問いかけていた。
 理由は明確だ。
 避けていたから。
 フェイルは無意識の内に、デュランダルとガラディーンの二人を敵視する事を避けていた。
 彼等が悪事を働くなんてあり得ないと、そう思い込もうとしていた。
 剣聖だからではない。
【銀朱】の、国内最高峰の騎士団の重鎮だからでもない。
 ハルの父親だから、という訳でもない。
 記憶の中に今でも燦然と輝く、あの王宮での日々――――それを汚されたくない。
「おかしいよ……ガラディーンさん」
 ただ、それだけだった。







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