――――ヴァレロン・サントラル医院。
 それはかつてフェイルにとって王城よりも遠く高く、遙か彼方の存在だった。

 薬草士を目指し、治療について学ぶ日々。
 それは同時に、病院という施設の有用性をこれでもかと叩き付けられる毎日でもあった。
 人体には、様々な問題が生じる。
 疲労、病気、負傷、老化――――これらはそれぞれに治療の専門家が存在するが、
 同時に全てが密接に関わっている。
 疲労が重なれば病気や負傷をし易くなるし、老化が進めば疲労も病気も怪我もし易くなる。
 負傷した箇所から汚れが入り込めば病気になるし、体調不良の最中に戦闘を試みれば
 高確率で負傷する。
 よって、治療というのは一人の専門家ではなく、他分野の専門家が一堂に会し、
 密に連携するのが理想だ。
 施療院ではそうはいかない。
 一人の開業医が、己の学んだ範囲で患者と向き合い、治療を試みるのが常だ。
 無論、その存在が重要でない筈はない。
 ただ、一人では自ずと限度がある。
 街の中には大勢の人がいて、それぞれに問題を抱えているという現実において、
 彼等を総合的に支援する為には病院の存在が不可欠だ。
 薬草士は、たった一人でその病院と同等の存在になる事が出来る。
 一人で様々な分野の薬を、何十・何百という種類の薬草を配合して作り出すからだ。
 疲労を回復させる薬、病気を治す薬、痛みを取り除く薬――――
 これらを適切に処方し管理出来るならば、病院と同じ役割を担えるだろう。
「……」
 だが、フェイルはそれが現実的でない事を知っていた。
 元々、薬草士になった動機は妹のアニスを治す為。
 彼女を普通の人間にする為だった。
 その為に必要な薬草――――或いは毒草を手に入れるには、
 薬草士になる以外方法はないと思っていた。
 しかしそれは甘い考えだった。
 薬草士として一人前になれば、手に入る薬草や毒草の種類は飛躍的に増す。
 どこそこにどんな薬草が群生しているといった話が耳に入ってくる。
 そう期待していた。
 けれど、フェイルは知る事となる。
 ヴァレロンの薬草士が手に入れられる薬草や毒草は、ヴァレロン・サントラル医院が
 独占していない物に限定されていると。
 そして、珍しい薬草や強力な毒草はほぼ例外なく病院が独占する。
 全ての流通を支配し、他に漏れないようにする。
 そこまで流通管理を徹底させている理由は、フェイルが知る由もない。
 ただ、これは公然たる事実であり、それを知ったフェイルは絶望感に苛まれ暫く途方に暮れた。
 一時はヴァレロン・サントラル医院に就職する道も模索したが、
 それも不可能と判明し、打つ手はなくなった。
「それでもフェイル、お前は薬草士としてヴァレロン新市街地に居続けたんだよな。
 そして提携にまでこぎ着けた。大したもんじゃねーか」
 ヴァレロン・サントラル医院には日中、多くの職員と患者が院内を歩き回っている。
 乗り込むなら夕方以降が好ましいと判断し、フェイルとハルの二人はヴァレロン新市街地の
 酒場で時間を潰していた。
 この酒場は、フェイルがラディアンスから情報提供を受ける際に利用していた場所。
 諜報ギルド【ウエスト】とヴァレロン・サントラル医院の直線上にある酒場で、
 ウエストのギルド員が毎日利用していた。
 だが先日の『死の雨』とウエストでの大量殺人の影響で、今は酒場内に客が殆どいない。
 勇者計画および花葬計画の渦中にあり、地上と地下を行き来し続けていた為、
 フェイルは現在のヴァレロンの状況を余り良く把握していなかったが、
 本来なら日中でも賑わう酒場が閑散としている事で、異常事態の最中にあるこの街に漂う
 陰鬱とした空気を嫌でも理解する事となった。
「でも、無意味だった。提携したところで特別な薬草や毒草を仕入れる事は
 出来なかったし、その直後に事態が急転したからね」  
 フェイルの口から小さな息と共に、弱音が漏れる。
 淡く、薄く、それでいて決して霧散してくれない感情の塊が。
「……正直、どうする事が正解だったのかは今もわからないよ。アニスを治せるような
 希少性の高い毒草を手に入れられるのは病院のみだと言うのなら、どんな手を使ってでも
 院内に転がり込むべきだったのかもしれない。でも、その足がかりすら掴めなかった」
「そりゃそうだろ。あの病院は外部から人は入れねえよ。徹底した秘密主義だからこそ
 貴族や富豪に需要があるんだしな。職員なんて全員院長の関係者だろ」
「うん。今となっては、無理だったのはわかるよ」
 秘密主義どころの話ではない。
 ヴァレロン・サントラル医院は、言うなれば――――
「地上のメトロ・ノーム。あの病院はきっと、そういう場所だ」
 これまで得てきた数々の情報を総合した結果、その結論を得た。
 元々、メトロ・ノームは生物兵器の研究など『禁忌』とされる数多くの非人道的な手段を
 国家の為に実行する無法地帯という位置付けだった。
 その禁忌をより具体的に国家の利益に結びつける為の組織が、ヴァレロン・サントラル医院だ。
 病院というのは、総合的な医療施設であり、数多の分野の専門家が集う場所。
 そして同時に、その国家の技術水準の象徴でもある。
 医療機関は、各国が例外なく注力する部門。
 医学の発展は、その国の発展そのものを意味する。
 ただ、ヴァレロンはかつてエチェベリアの中心地であり、現在も大都市ではあるが、
 主要都市、まして首都という訳ではない。
 よってその地にあるヴァレロン・サントラル医院に関しても、必ずしもエチェベリアという国家を
 代表する程の規模ではなく、本来ならば薬草や毒草を独占するような真似は
 しなくていい病院の筈だった。
 けれど実体は、過剰とも言うべき供給があり、需要もまた特殊。
 その齟齬こそが『地上のメトロ・ノーム』である事の証明だ。
「考えれば考えるほど、あの病院は胡散臭い。地上のメトロ・ノームっていうより、
 現代のメトロ・ノームなのかもしれない」
「現在進行形で、日常的に非人道的な研究が行われてるってか?」
「うん。だとしたら……」
 入院中のアニスも、或いは被験者や実験材料となっていたかもしれない。
 だが、ビューグラスが病院と結託し、アニスに用いる為の毒を作っているのならば、
 皮肉な事に無事は保証されている。
「複雑な心境だよ。僕はもしかしたら、自分の生きる目的と妹の命を自分の手で
 消そうとしているのかもしれない」
 これからフェイルは、ビューグラスの凶行を止めようとしている。
 それは、アニスを普通の人間に戻す唯一の方法を自らの手で消滅させてしまうかもしれない。
 その葛藤は、移動中は勿論、今も尚フェイルの頭の中で続いている。
「そりゃ違うぜ、フェイル」
 本来なら酒場では決して注文しないミルクを飲み干し、ハルは力説した。
「お前の親父がやってる事は、"悪魔の取引"って奴だ。それを見過ごせば、仮に助かったとしても
 お前の妹は悪魔に成り下がる。同じ街に住む連中の命を吸い取って生きる悪魔にな。
 それを放置するのが愛情か? 家族愛ってのは、外道に落ちる身内を肯定する事か?」
「……酔ってる訳じゃないよね?」
「おうよ。まともな事言ってるのは酔ったからじゃねえ。お前が俺の友達だからだ」
 恥ずかしい事を堂々と宣言してくるハルに対し、フェイルは決して口には出さなかったが――――
 この男が友達で良かったと心底思い、目の奥に熱いものを感じていた。
「ま、お互い親には苦労するな」
「ガラディーンさんは……そう言えば、あの人は今どこで何をしてるのかな」
「わからねぇ。俺から魔崩剣を取り上げておいて、一体何をする気なんだか」
 フェイルは彼がハルと別れた経緯を聞いた時、その決意の表れから死さえ覚悟していると理解していた。
 元とはなったが、剣聖としての力に陰りは見られない。
 そんな男がそこまでの決意を示すのは、単に王への忠誠心だけに留まらない。
 寧ろ――――逆の可能性がある。
「そろそろ日も傾いて来た。行くとするか」
 フェイルはそのハルの言葉に促されるように、外の景色に目を向ける。
 窓から見えるその光景は、数刻前より随分と薄暗くなっていた。
 不自然な程に。

 ――――余りにも不自然な程に。

「準備はいいか? 相棒」
「……うん。覚悟も、とうに」

 そのハルと同時に、フェイルも席を立つ。
 
 神の定めし規律からの離反――――その代償と贖罪の時が、刻一刻と迫っていた。








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