目的――――或いは標的であった筈のアルマがその場から離れたにも
 拘らず、バルムンクに慌てた様子は微塵もない。
 寧ろ、どこか安堵したような佇まいで、眼前のトリシュを見据えていた。
「テメーの事はあの悪魔から聞いてるぜ」
 その口調も、先程とは明らかに違い、冷静さを取り戻している。
 明らかに不可解な変貌だったが、笑顔のままのトリシュもまた
 バルムンクの様子に怪訝な目を向ける事なく、剣先で己の左肩を掻いた。
 無論、鎧など身につけていない。
「力加減だけで、剣を身体を掻く道具にしやがるか。化物だな、"リッツ=スコールズ"」
 その身体が――――ほんの一瞬、硬直する。
「トリシュ=ラブラドールってのは偽名らしいな。ま、当然か。諜報ギルドの人間って
 時点で本名を名乗る筈ねぇからな。にしても、まさかあのスコールズ家の一人娘たぁ驚きだ」
 当然――――今、バルムンクと対峙している女性が、現在このヴァレロンで
 リッツ=スコールズを名乗っている12歳の少女と同一人物である筈がない。
 容姿も年齢も明らかに違う。
 だが、バルムンクの指摘に対する当人の反応は、明らかに的を射られた人間のそれだった。
「スコールズ家から存在そのものを消された史上最悪の問題児が、諜報ギルドの支隊長に上り詰めて、
 突然姿を消したと思えば……あの"死神"の纏めるウォレスに属しやがった。
 あそこにゃ訳アリの奴が集まるようになってるのは周知の事実だけどよ、その中でも
 とびきりの訳アリだな、てめぇは」
「……」
 トリシュは何も答えない。
 だが、その禍々しさすら携えた口の歪みを変える事もない。
 トリシュは静かに嗤っている。
「どうにも複雑な事情があるらしいが……俺には関係ねぇ。ただ、これだけは言わせて貰うぜ」
 一歩。
 鬼神の如き覇気を纏った稀代の剣士は、重いその一歩を踏み込む。
「よく俺を足止めしてくれた。しかし何故だ? てめぇにそんな義理はねぇだろ?」
 その歩は、言葉をは裏腹に更なる圧力をトリシュに向けて放ったが――――
 トリシュはそれを涼しい顔で受け流した。
「さあて、どうしてでしょうね。もしかしたら、昔の自分を見ていたのかもしれませんね」
 誰に対して――――その明言こそしなかったが、トリシュは一瞬、道化師のようなその眼差しに
 草原を揺らす南風のような穏やかさを宿した。
「昔の自分と似た人を見て、昔を思い出したのかもしれませんね。気まぐれにも」
 けれどそれは風。
 一所に留まる事はない。
「そういう所も、今のトリシュらしいのかもしれません。だからこれでいいのです。ウケケ」
 リッツ=スコールズ――――そう呼ばれても、自身の名を変える気はない。
 バルムンクも重々承知していたらしく、頷きこそしなかったものの、口元に力を込め
 その白い歯を零す。
「どうしても、てめぇに聞きたかった。だからここに残った」
「情報料は前払い以外受付けてませんよ?」
「まあそう言うな。同じ人間やめちまったモン同士じゃねぇか」
 それは、最初からバルムンクはこの問い掛けの為に――――そう思わせる内容だった。
「生物兵器が"不適合"だった人間の末路はどうなる? てめぇなら知ってるんだろ?
 その為にウエストに入って上にのし上がったくらいの奴だからな」
 切実さは感じさせない。
 或いは既に諦観の念を抱き、その上で自分の死を、終焉の時期を知る為と割り切って
 聞いているような表情で、バルムンクは答えを待っていた。
 トリシュに回答する義務はない。
 まして義理など一切ない。
 ウエストも、ウォレスも、そして自分が最後に身を寄せた――――薬草店【ノート】のいずれも、
 バルムンクとは協力関係になく、寧ろ敵対してさえいるのだから。
「人によりけりなのです。投与された生物兵器の性質にもよります。即座にグチャッと
 潰れる幸運な人間もいれば、怨霊みたいに自分の欲望や『したかった事』に執着して
 中身は壊れたままウロつき続ける輩もいるのです。ケケケケケケケケ」
 けれど、トリシュは何ら隠す事なくそう伝えた。
 そしてそれは、ありのままの真実だった。
「……ありがとよ。俺は今、自分がどうなるのかがハッキリと見えたぜ」
「それを自覚出来るだけでも既に気持ち悪いのです」
 トリシュは剣先で周囲の空気を切り裂き、やがてバルムンクへ向ける。
 まるで歓喜の歌を指揮する稀代の指揮者の如く。
「有害な存在同士、決めるとしましょうか。どっちが先に逝けるか」
「応よ!」
 壊れもの同士の宴が今、始まる――――

 


「……けほっ」
 同時刻。
 薬草店ノートを離れ、東の方向へ遮二無二走ったファルシオンは、自分が真っ先に
 息切れする事を恥じつつも、己の限界を自覚し、減速しつつ咳き込んだ。
 だが、最初に立ち止まったのは彼女ではなかった。
「一旦隠れるぞ。どの道、永遠に走り続けられる訳でもない」
 そのファルシオンと、先頭を行くアルマを背負ったフランベルジュの間に位置していた
 ヴァールが、アロンソ通りを抜け二つ目の交差点の角で立ち止まった。
 ノートから一直線で来た訳ではなく、アロンソ通りを一旦右に曲がっている為、
 店の前で戦っているであろうバルムンクとトリシュの姿は見えない。
 少なくとも、目前に迫ってきている気配はないが――――いつバルムンクが
 襲ってくるかはわからない。
「そ、そうね。アルマ、それで良い?」
 そこでようやくファルシオンの体力が底を付いた事を知ったフランベルジュも立ち止まり、
 問い掛けにコクコクと頷いたアルマを地面に下ろす。
 そして、隠れる場所を探し周囲に目を向けると――――
「……ねえ。あそこって」
 直ぐ前方に見える巨大な周壁が視界に入った。
「もしかしてアニス……だったっけ。彼女が住んでる屋敷なんじゃないの?」
 まだこのヴァレロン新市街地の地理に疎いフランベルジュは、周壁の存在だけでそう判断し、
 その塀の入り口に当たる鉄門の傍にあったレリーフ型の表札を覗いてみた。
 だが彼女の期待とは裏腹に、そこはシュロスベリー家ではなかった。
 このヴァレロンには、他にも巨大な屋敷が存在していた。
「スコールズ……? 違っ……いえ、でも何処かで聞いた事あるような……」
「……そもそも足を運んだ事もあります」
 息を整えたファルシオンもようやく合流し、一瞬ヴァールに対し敵に塩を送られたような
 複雑な表情を浮かべたのち、小さく深呼吸して眼前の鉄門を見据えた。
「令嬢失踪事件の時に知り合った、リッツ=スコールズという女の子の住む家です」
「ああ、あの時の……ここだったのね」
 リッツと親しげにしていたリオグランテと共に、この屋敷を訪れた事が過去にあったのを
 ようやくフランベルジュは思い出し、こちらもまた複雑な顔で俯く。
 まだ、当時の事を明け透けに話せる程の時は経っていない。
 が――――
「他を探す時間的余裕はない。知り合いならここに匿って貰うしかないだろう」
 ヴァールのその冷血な一言が、却って二人の決断を後押しした。
 彼女の言葉は正しい。
 リオグランテとリッツの仲を考慮すれば、匿ってくれる可能性は十分にある。
 何より過去への感傷で選別する余裕などない。
 幸いにも鉄門の前に人の姿はなく、周囲の壁こそかなりの高さだが
 門はフランベルジュの身長より少し高い程度の為、楽に侵入出来る。
『死の雨』の影響か、人通りもない。
「先に私とヴァールが上がって、ファルとアルマを引っ張り上げる。良い?」
「やれやれ。この程度の高さを地力で上れない魔術士がいるから、私まで蔑まれるんだ……全く」
 一言嫌みを残しつつも、率先して門を上るヴァール。
 その姿を眺めるファルシオンの目には、屈辱の感情はなく――――
 周囲への警戒に全神経を尖らせるのみだった。





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