ヴァレロン新市街地を形成する建物が、街路樹が、路傍の石が、徐々に輪郭を帯び始める。
 陽の光によって訪れる一日の始まりは、何時だって健全だ。
 そこには何らかの特別で聖なる力が在ると教えを説く宗教も多い。
 けれども、フェイル=ノートの目には聖なる力など一切見えず、その新たな一日の目覚めは
 悪夢から覚めた直後に感じる恐怖の余韻にも似た、独特の闇が映った。
 それは決して世界の変容ではない。
 変わったのは自分自身。
 昨日のヴァールからの依頼――――それを受けた瞬間から、フェイルの目に映るものは
 フェイルの心を反映してか、陰影を帯びるようになっていた。
 けれどもそれは、何処か懐かしくもあった。
 王宮でデュランダルに暗殺技能を叩き込まれた日々。
 あの頃にも、似た感覚を抱いていたから。
 自分が少しずつ、くすんだ存在となっていくような実感。
 この世の公道から離れ、細く暗い裏道へ迷い込んでいるような不安。
 けれども悲しいかな、その不安こそが現在のフェイルの基盤でもある。
 持って生まれた資質と、王宮の御前試合までに身につけた技量だけでは、
 現在のフェイルにはなれなかっただろう。
 そして、現在のフェイルでなければ、バルムンクの一騎打ちやクラウ=ソラスとの死闘を
 ほぼ無傷で切り抜けるのは不可能だっただろう。
 彼らはフェイルよりも自力で勝る相手。
 フェイルは、そういう敵に対抗する為の手段を自分なりに持っているつもりだし、
 それは昨日ヴァールに話した通りの内容だった――――
 が、それが全てではなかった。
 格上相手の死闘を切り抜ける為には、相手に力を発揮させない事――――だけでは不十分。
『力対力』、『技対技』の戦いではなく、『生命対生命』の戦いと認識させる。
 それこそが必須条件だ。
 通常の戦いと違い、死闘は命のやり取り。
 力や技を競い合うのではなく、生命の奪い合いである事は前提条件だ。
 けれど、自分が遥かに実力で勝るという確信がある人間は、格下の敵が自分の命を奪う存在という
 認識を持たない事が多い。
 要は嘗めているという訳だが、それ故に常に心には余裕があり、視野も自然と広くなる。
 自分が殺される筈がない――――その大前提が土台になっている以上、格下が切り崩すのは難しい。
 だが、『生命対生命』だと認識させれば、その土台は瓦解する。
 命は誰しも一つしかない。
 この世界に平等という概念があるとすれば、それこそが唯一の平等だ。
 平等は即ち対等。
 自分も食われかねない、殺されかねないと認識させるのが、格上相手の死闘を切り抜ける
 唯一の方法といえる。
 その上で、相手に最高の力を出させないようにすれば、道は拓ける。
 問題は、『生命対生命』である事、命のやり取りである事をどうやって認識させるか。
 フェイルがデュランダルから学んだ暗殺技能は、その正解の一つだった。
 別に敵に対し暗殺術を披露する訳ではない。
 真の意味で暗殺技能を有している人間は、例え技術を見せなくとも、自然と敵の生命を視る。
 命の在処を理解する。
 さながら、高度な医療技術を身につけた医者が自然に治療すべき場所を嗅ぎつけるように。
 その嗅覚が、或いは視覚が、敵に本能的な恐怖と警戒を抱かせる。
 こいつはちょっと違うぞ。
 命の在処をわかっている、つまり――――命を奪う可能性を持った敵だ、と。
 フェイルには、その技術が既に備わっている。
 だから、裏道を行く事に躊躇はなかった。
 ただし、これからフェイルが通る裏道は決して平坦ではない。
 スティレットの動向を探る。
 フェイルは敢えてヴァールにそう言ったが、最早スティレットの存在は調査だけに
 留めておける段階ではない。
 彼女は無差別の実体実験を行っている。
 無差別殺人に等しい行為だ。
 正義の名の下に――――等という意識はなくとも、放置など出来る筈がない。
 そしてフェイルには、放置してはならない責務がある。
 スティレットがビューグラスと組んでいる以上、その責務からは逃れられない。
 同時に、失敗も許されない。
「……」
 フェイルは昨夜、結局自室へは戻らず、薬草店【ノート】の売り場にあるカウンター内の椅子で
 一夜を過ごした。
 特に深い意味はなかったが、そうしたい気分だった。
 一睡もせず、ただじっと覚悟を決めていた。
 黒の決断に対する覚悟。
 ずっと積もらせてきた色んな感情が壊死し、塵になっていくような感覚を抱きながら、
 フェイルはようやくその腰を上げた。
 この場を離れるリスクはある。
 アルマを狙う勢力が、万が一ここに彼女がいると嗅ぎつけたとしたら――――という懸念はある。
 けれど、その懸念ばかりに集中していても、事態は何も変わらない。
 フェイルの戦闘能力自体、守りに向いている訳でもない。
 ならアルマの当面の安全は他の面々に任せ、自分の力を最も活かせる方法を選択すべきだ。
 そしてそれは、自分の責務――――父親の蛮行を止めるという自分の責務を果たす事へも繋がる。
 フェイルはその決断を改めて心に刻み、アルマを頼むという旨の書き置きをカウンターの上に置いた。
 そして右手で【ユヌシュエットアルク】を取ろうと腕を伸ばす。
 アバリスから託された弓。
 非常に質の高い弓だ。
 精度は勿論、弦の弾力も通常の弓とは大違いで、この弓で矢を射ると大した力もなく高速の射出が
 可能とさえ言われており、一部では"魔法の弓"とさえ言われるほどの業物。
 何より軽く且つ頑丈で、近接武器としての使用に最適だ。
 けれども――――フェイルはその弓に伸ばした手を止め、顔をしかめ瞑目した。
 本当に、いいのか?
 アバリスが――――彼が一体、どんな想いでこの弓を自分に贈ったのか、フェイルは
 痛いほど理解している。
 これから自分がしようとしている事は、その想いを踏みにじる行為ではないか?
 幾ら決意が固まったとは言え、その自問自答への答えは出そうにない。
 だが、愛用のライトボウは既になく、拾った弓ではこれからの戦いには心許ない。
 自分が行くべき道を行くのなら、この弓は必要だ。
 必要だ――――
「怖い顔です」
 不意に、奥から声が聞こえて来た。
 気配を察知出来ないほど、自分が逡巡していたのを自覚しつつ、フェイルは声の主に向かって
 どんな顔をすればいいのかわからず、戸惑いを隠せずにいた。
「思い詰めたような顔。まるでこれから死地に飛び込もうとしている少年兵のようですよ。フェイルさん」
「ファル……」
 本当にこの娘は、何時如何なる時も見透かしてくれる。
 瞬間的にそんな思いに駆られたフェイルは、心ならずも苦笑いを浮かべていた。
 そして同時に、どう取り繕っても無駄だと諦めもした。
 最悪なのは――――ここで何も言わず立ち去り、彼女を、ファルシオンを無駄に混乱させる事。
 その混乱はフランベルジュにも、アルマにも影響する。
 よって、事実を告げるのが最善と判断。
「僕はこれから、スティレットさんを調査しに行く。調査は一人が動きやすいからね」
「私は、そうとは思えません」
 けれど、フェイルの目論見はいとも容易く破れた。
「フェイルさんがこれから何をしようとしているのか、今の二言で概ね理解しました」
「……敵わないよ、全く」
「だから、私を連れて行ってください」
 フェイルの直ぐ傍まで来たファルシオンの顔が、目が、まだ薄い陽光によって微かに色付く。
「私も、貴方と同じです。暗がりの道を歩く人間です。だから……」
「違うよファル。君の目には光が見える。それは大事にしないと」
 その光を目映く感じたフェイルは、ファルシオンの申し出を断る代わりに、彼女の肩に手を置き――――
「大丈夫。別に死地に赴く訳じゃない。数日留守にするだけだから。その間、アルマさんの安全確保を
 お願い。フランと君で、彼女を守ってあげて欲しい」
 小さな微笑みを残した。
「僕は僕に出来る事で、みんなを危険から遠ざけるよ」






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