他人の、まして異性の吐息を間近で感じる機会は、これまで殆どなかった。
 そういう人生を歩んできたフェイルにとって、ヴァールとの"話し合い"は極めて特殊だった。
 照れとは明らかに違う。
 自分が男である事を、嫌でも意識せざるを得ない、特別な衝動。
 ともすれば朴念仁的な印象を持たれる事もあるフェイルだが、
 異性に対し抱く感情は決して常軌を逸脱したものではない。
 かといって、それを剥き出しに出来るほどに不器用でもなければ、器用でもない。
 厄介な弱点を突かれてしまった――――そういう心持ちが半分を占める中、
 フェイルはヴァールの声に耳を傾けていた。
「生物兵器を投与されて以降のあの方は、人格が明らかに変貌してしまった。
 それは外面上のものじゃない。殆ど表に見せる事のない、内側の問題だ」
「僕が見た事のある彼女じゃなく、って事だね?」
 ほぼ確信をもってのフェイルの問いを、ヴァールは首肯をもって是とした。
 確かにスティレットは特異な人物。
 しかしフェイルが見て来た彼女はヴァールが嘆き、死を望むほど歪な印象ではなかった。
 もっと深く、もっと暗い中に、スティレットの中核が存在する。
 そしてその中核は、あの最悪の人体実験である『死の雨』さえも躊躇なく
 実行出来るほどの――――狂気。
 人間の持つ狂気の範疇を明らかに逸脱している。
 例えば戦闘狂いや人格的な破綻といったものとは根本的に性質が異なる。
「理性を消失させたような狂人は大勢いる。私も多数見てきた。けれども今のスティレット様は
 そういったものとはまるで違う、かといって悪意や不穏の塊でもない。敢えて言えば……」
 そこでヴァールは言葉を句切り、暫く押し黙った。
 意図的に特定の言葉を強調すべく溜めを作る話術――――ではない。
 言葉を吟味し、最もスティレットの名を汚さないものを選ぼうとしている。
 フェイルの目にはそう映った。
「"完璧な灰色"だ」 
 その結果、発せられたのは確かにそういう言葉だった。
 完璧な灰色。
 意味するところは、然程難しくはない。
「黒と白が五〇対五〇。そういう事で良いんだよね?」
「そうだ」
 問題は――――それが何を意味するのか。
「まるで図ったかのように、昔のスティレット様と、今の変わってしまったスティレット様が
 同じ比率で存在している……ように私には映る。これ以上は上手く説明出来ない。
 ただ、そう感じるんだ」
 ヴァールの説明は、極めて難解だった。
 そのまま解釈すれば、人為的な――――例えば演技というニュアンスが成り立つ。
 けれど、ヴァールがここまで不安を素直に口にしている時点で、そんな単純な
 ものではないとフェイルは感じていた。
 五〇対五〇、完璧な比率の灰色に例えられた今のスティレット。
 生物兵器を投与され、本来死者となった筈の身体を生ある者として動かし続けている
 自然の摂理への反抗が、影響しているのかもしれない。
 或いは、単純に生物兵器を提供したカラドボルグが、そういう印象を抱かせる
 何らかの人格操作を行っているのかもしれない。
 何にせよ、ヴァールの怯え具合は尋常ではない。
 それほど、現在のスティレットは異常だという事だ。
「スティレット様は、メトロ・ノームを我が物にしようとしている。以前のあの方なら、
 それは経済活動の一環だと理解出来た。でも今のあの方は……別の事をしようとしている。
 私達一族の魔術を、暗殺技能として扱ったように」
「暗殺……技能……?」
 その言葉はフェイルに獰猛な牙を剥いた。
「私はあの方の手となり、足となる。そのつもりだった。だが、デル・バタラの茶番劇の後、
 私は予想外の打診を受けた。この魔術を護衛ではなく、能動的な暗殺技能として使わないか、と」
 胸を抉られるようなヴァールの話は容赦なく続いていく。
 彼女に悪気は一切ない。
 ただ一方的に、フェイルが傷付けられているだけの事。
 フェイルにとって、その話の流れはまるで――――デュランダルとの王宮での日々
 そのものだったからだ。
「私自身が汚れるのは構わない。だが、一族の魔術が殺しの道具になり果てるのは……
 私の一存で決められる話ではない。私は保留とするよう懇願した。だが……」
「スティレットさんは、いい顔をしなかった。だから君はあの人の元へ帰れなかった。
 "手土産"っていうのはもしかして、暗殺するよう頼まれた人物の……」
「命だ。誰かは明かせない。明かせば、それは完全な裏切りになるから」
 スティレットを死なせて欲しい――――そこまで言ったヴァールでも、そこは明かせない。
 フェイル自身、納得出来る事だった。
 彼女は決して、スティレットを憎んでいる訳ではない。
 感謝の念は抱き続けている。
 だからこそ――――だ。
「……わかったよ。ヴァールさん。協力体制を築こう」
 フェイルがそう提案したのは、彼女の色香に惑わされた訳ではない。
 同情した訳でもない。
 フェイルにとって、決して他人事ではないからだ。
 生物兵器の投与による人格変化。
 身内にも、同じ症例がある。
 加えて――――今まさに、その変化が起こっているかもしれない人物がいる。
 しかもスティレット同様、死者が蘇るという条件付きで。
 リオグランテの遺体が消えた事の意味を、フェイルはそう理解していた。
 ただ、この件はまだファルシオンやフランベルジュには言えない。
 リオグランテが生きているかもしれない。
 生きているが、もう以前の彼ではないかもしれない。
 そのどちらにせよ、彼女達には酷な情報になる。
 前者は、もしそれが誤りだった際の精神的負担。
 後者は、再会した際に発生し得る精神的負荷。
 ただでさえ、リオグランテの死によって彼女達は傷付き、心を痛めた。
 その追い打ちとなれば、例えどちらであっても耐えがたいものだろう。
 付き合いの長い彼女達にとっては。
 なら、短い自分が何とかするしかない。
 奇跡的に蘇って、何の問題もなく今後も普通の人間として生活が出来る――――
 そういう夢を見るのではなく、現状のリオグランテがどうなっているかを把握し、対処する。
 もしハイト=トマーシュのように、常に激痛を味わう身体になってしまっていたら?
 スティレットのように、人の命を軽視する行動に出るようならば?
 そういった事も、これから考えていかなければならない。
 ならば、スティレットが現在何を考え行動しているのかは重要な判断材料になる。
 彼女を識らなければならない。
 同時に、ビューグラスも深く関わっている花葬計画の阻止も必須。
 その二つを同時に満たす行動は――――
「僕はこれから、スティレットさんの動向を探る。場合によってはその場で"射殺"する」
 それしかない。
 花葬計画を止める方法は、最早当事者を再起不能とするしかないだろう。
 当事者とは当然――――ビューグラスとスティレット。
「そう僕に依頼してくれ。君が依頼人になれば、僕は必ずそうする」
 フェイルの胸に、密かに抱いていた決意。
 アルマをこれ以上危険な目に遭わせる訳にはいかない。
 ファルシオンやフランベルジュをこれ以上悲しませてはならない。
 アニスにこれ以上――――"実験台"だったと思わせてはならない。
 その為なら、業を背負う事くらい大きな問題じゃない。
「……わかった。報酬は支払う。金でも、身体でも、好きなものを選んでくれればいい」
 フェイルは、黒の決断を下した。




 

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