薄い闇に覆われた現在のメトロ・ノームにおいて、氷霧による視界の阻害は
 実のところ、大きな有用性を持たない。
 フェイルのように、暗闇の中でも夜目が利く――――そういう性質を帯びていれば
 話は別だが、そうでなければ『元々見えにくい視界が更に悪くなる』だけ。
 見え難いのを前提に戦っている相手には大した変化とはならないし、まして
 視覚以外の感覚を駆使して戦闘に臨んでいる者に対する効果は更に期待薄と言わざるを得ない。
 それどころか、これから攻撃を開始しますよ、という合図になってしまう分だけ
 デメリットが大きいとさえ言える。
 が――――そこまで理解しながらファルシオンが【細氷舞踏】を選択した理由は、
 偏にクラウの特異性にあった。
 生気すらも感じさせないその亡霊じみた存在感。
 そこに何かしらの反応を起こさせるには、広範囲、かつ攻撃性の微弱な魔術が有効という判断だ。
 強力な魔術で攻撃したとしても、クラウは容易に回避するだろう。
 だが、この【細氷舞踏】であれば、回避は困難な上、仮に回避しなかったとしても
 被害はほぼ皆無。
 魔術の接近を感知し、警戒されるリスクを承知しながらも、敢えてファルシオンは
 クラウに何らかの反応を起こさせる事を選択した。
 魔術を放ったファルシオンの目に、クラウの様子は映らない。
 常人の目しか持たない彼女には、この明度の低い中、ある程度離れた位置にいるクラウと
 ヴァールの位置関係を把握するだけで精一杯だ。
 自分の選択が正しかったか否かは、次なる一手に委ねられる。
 その期待を背負う形で――――フェイルは弓を引く。
 幸いにも、梟の目は氷霧すらも無効化し、フェイルにクラウの明瞭な姿を映し出していた。
 それは自らに与えられた寄贈品か、それとも呪怨か。
 最早どちらでも構わないという心持ちで、標的への攻撃を試みようと狙いを定める。
 敵の速度は尋常ではない。
 隙がなければ、この距離では到底当たらないだろう。
 ファルシオンの【細氷舞踏】に気を取られる一瞬、そこを見逃せば次はない――――
 フェイルの集中力は凄まじい速さで収束を見た。
 視界が狭まっていく。
 狙撃の際に必ず訪れる感覚。
 その感覚に身を委ね、最終的には自分の放った矢が到達する一点のみが映るようになる。
 そこまでいけば、外す事はない。
 王宮での訓練、そしてビューグラスの依頼によって磨かれた、暗澹たる技術。
 今の自分、この状況、あの相手にこそ相応しい。
 何処か自嘲じみた思考に精神を委ね、フェイルは待つ。
 そして、氷霧がクラウ達のいる場所にまで到達したその刹那――――
 フェイルの視界はクラウの頭部を除き全てが遮断された。
 同時に、弦を離す。
 迷いなき一矢が直線に限りなく近い放物線を描き、空気すらすり抜け――――
「……!」
 クラウの頭部が大きくブレる。
 舞う鮮血。
 フェイルの矢は、確かにクラウに触った――――が――――貫く事はなかった。
 そしてそれは、必然だった。
 回避されたのではなく、外したのだから。
「……こんな時に……!」
 苦悶の表情を浮かべ、フェイルは顔を、というより目を右手で覆う。
 こんな時に――――"来て"しまった。
 それは果たして限界なのか、それとも一時的な揺らぎなのか。
 直ぐに後者である事が判明したものの、貴重な矢を外してしまった事実は動かない。
「フェイルさん、まさか……目の調子が良くないんですか?」
 ファルシオンが心配そうな声で問う。
 最早その感情表現に違和感はない。
 そう。
 人は移る者。
 移ろい、移り行き、それでも尚自分で在り続ける。
 その自覚が、フェイルの乱れた心を鎮めた。
「……うん。少し前から、ちょっとね。副作用かもしれない。でも一時的なものだから、大丈夫」
「本当ですか?」
 今度は一転、厳しいファルシオンの声。
 次の言葉を容易に想像でき、フェイルは心中で思わず苦笑した。
 こんな危機的状況だというのに。
「一時的ではなく断続的、或いは不規則な不調であるなら、今後の方策にも影響します。
 本当の事を言ってください」
 案の定、ファルシオンは論理的な言葉で、フェイルから真実を聞き出そうとしてきた。
 理論で武装しているが、実際には心配が前景にある。
 不器用な彼女らしい、とても慈愛に満ちた言葉。
 そして同時に――――真実でもある。
 目に不安がある以上、あの怪物とも言うべき敵を狙撃で仕留める試みは得策ではない。
「本当だよ。でも、狙撃は中止だ。残り一本しかない矢をここで使う訳にはいかない」
「なら……」
「打って出る。後方支援はファル、君に任せる」
 最善策ではない。
 が、他に選択肢はない。
 ファルシオンもそれは十分に理解していた為、逡巡もなく頷いた。
「もう直ぐ氷霧が晴れます。接近するなら今しかありません」
「了解」
 大した有利性はないと悟りながらも、フェイルはメトロ・ノームの大地を蹴り、
 左目だけを開けて駆け出す。
 クラウは――――動きがない。
 頭部を矢が掠めた事で、若干の出血があるようだが、気に留める様子はない。
 一方、氷霧の出現と同時に、ヴァールはクラウの眼前から姿を消していた。
 勿論、逃げた訳ではない。
 正面からでは分が悪いと判断し、何処かの柱へ隠れた――――そうフェイルは確信していた。
 気配は感じられないが、殺して潜んでいるに違いない。
 信頼に値する要素などない相手ではあるが、そう推察するに十分な人格という証拠は
 これまでの彼女の振るまいや言動で得ていた。
 今、クラウの前に敵はいない。
 が、クラウはそれでも動かない。
 フェイル達の方に目を向ける事もしていない。
 まるで――――フェイルが自分の所へ来るのを待っているかのように。
「クラウ=ソラス……」
 広くあいた柱と柱の間を駆けながら、フェイルはそう呟く。
 決して歓喜ではないが、心の何処かに高揚する自分がいた。
 思い出すのは、バルムンクとの戦闘。
 その時と似た感覚が、フェイルの身体を徐々に支配する。
 接近戦をこなす、ではなく、接近戦によって敵を打倒する弓兵。
 弓という武器の可能性を網羅した一個の戦士。
 それを目指した。
 そして今、その成果が試されようとしている。
 生き残るには、そして助けなければならない女性を助けるには、この接近戦を勝利しなければならない。
 遠距離において、まるで打つ手のなかった相手に。
「来ましたな、フェイル=ノート」
 クラウは笑った。
 意外にも、笑っていた。
「貴公がこの、腐り切った宿命の希望となる者か、それともただの"なり損ない"か……見極めさせて貰いますぞ」
 フェイルは笑わない。
 ただただ必死に、近づく敵の姿に神経を集中させ――――
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
 遠吠えの如く、吼えた。







 

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