ヴァレロン・サントラル医院、地下支部という機能を持つ施療院は
 以前フェイル達が訪れた時から室内の様相を変貌させていた。
 床には薄く滑らかな白い生地が絨毯のように敷かれている。
 壁にも同じ生地を垂れ幕のように下げ覆っているが、その意図はまるでわからない。
 窓ではないのだから、陽の光を遮る必要もない。
 そもそもこのメトロ・ノームに陽の光など入らないのだが、
 今はアルマが作り出していた"昼"の照明すらない。
 なので中は本来真っ暗なのだが、光源として用意された大きめのランプが
 異質な存在感を放っており、薄暗いながらも部屋全体に光を行き渡らせている。
 普段のフェイルがこの光景を見れば、不気味さを覚えずにはいられなかっただろう。
 少なくとも、この地下街の存在を知るまでは。
「遅かったって……何がですか?」
 だが今のフェイルには、そのような感情を抱く余裕もなければ、
 薄暗さにも、空間の放つ悪意の塊のような圧力にも、既に慣れてしまっている。
 物怖じする事なく両の目で見据えてくる青年に対し、カラドボルグが選択した
 表情は――――更なる笑みだった。
「そう怖い顔しないでよ。僕は医者だよ? 凄まれても困る」
「貴方が普通の医者じゃないのは明らかでしょう。"あの雨"が降ってきた時の反応。
 あれが普通なら、医者というのは余りに罪深い存在ですよ」
「ああ、そう言えば見られていたんだったね。つい最近の話だった筈だけど、
 もう遠い昔の事のように思えるよ」
 元々取り繕うつもりもなかったのだろうが――――カラドボルグは微かに
 人相を変え、地上での"快活な医師"というイメージを完全に消した。
 その表情は、血塗られた手とよく似合う。
「この手の血、気になるかい? 誰の血なのか……」
 そうフェイルへと問いかけながら、カラドボルグは近くの椅子に
 乱暴な所作で腰かけた。
 手術や治療を施していた様子はない。
 医療器具が一切見当たらないからだ。
 人間の身体を切り刻んだ形跡がなく、血溜まりのようなものも見当たらない。
 だとしたら――――
「ここで付けた血じゃない。外で誰かを襲った……?」
「乱暴な推理だねえ。医師が人を襲うと思うかい?」
「普通は」
 敢えてそこで言葉を切ったフェイルの皮肉は、カラドボルグに
 一瞬の破顔をもたらした。
「君の性格は嫌いじゃない。それに色々と縁も感じる。
 手助けとは言わないが、話くらいは構わないけど、どうする?」
「……情報を得たい、という率直な気持ちはあります。
 僕は、僕らは余りに何も知らなさすぎる」
 その結果、常に後手後手に回り、ついにはアルマまで捕らえられてしまった。
 敵の目的がわからない。
 敵が誰なのかすらわからない。
 花葬計画とやらの全貌も未だ掴めていない。
 あれこれと考え、それなりに推察で固めた道は作ってみたものの、
 それが何処へ通じているのか、まるで見えてこない状況とあって、
 フェイルは昏迷にも似た状況に追い込まれていた。
 何をされても、何も出来ないまま時間だけが過ぎていく――――
 それでは話にならない。
 罠であれなんであれ、食らいついてそこから情報を得るしかない。
 今のフェイルにとって、カラドボルグとの再会は歓迎すべきものだった。
 問題は、その手の血と、『一足遅かったな』の一言。
 今のフェイルの置かれている状況から連想される最悪の事態は、
 その血がアルマのもので、既に彼女が『一足遅かった』状態になっている場合。
 もしそれが現実だとしたら――――そう思うだけで、フェイルの口の中から
 水分が消え失せていった。
「いい緊張感だね。最悪の事態を想定している。なのに前を見据えている。
 医学的立場で今の君を評価するならば、理想的な精神状態だと言える。
 臨戦態勢における……ね」
 言葉だけを捉えれば、これから一戦交えようかという内容。
 だがカラドボルグに椅子から降りる様子は見られず、じっと
 フェイルの目だけを見ていた。
「ま、これ以上引っ張っても仕方ない。安心していいよ。この血は君が
 追ってきた人物のものじゃない。彼女を"奪う"為に、必要な血を流した」
「……バルムンクさん?」
「彼は非常に厄介でね。敵に回すと面倒な存在だったから、
 ある意味ありがたかったよ。どれほどの熟練者でも、女性を守りながら
 戦うのは困難を極める」
「バルムンクさんを……どうしたの?」
 フェイルの目の周囲の筋肉が、徐々に強張っていく。
 もし、バルムンクが最後までアルマを守り続けたのなら、彼がアルマを
『奪われた』のだとしたら――――
「生憎、君の想像は間違いだ。僕は医師だからね。生命の灯火を吹き消す真似はしない」
「なら、どうやってアルマさんを? 彼にアルマさんを見捨てる選択肢はない」
「どうも、このメトロ・ノームには『亡霊』がいるみたいでね。邪魔されたよ」
 肩を竦めながら、カラドボルグは自嘲気味に笑った。
 つまり、彼自身は目的を達成出来なかった。
 アルマを奪おうとバルムンクを襲ったが、亡霊なる邪魔が入り、達成出来なかった。
 亡霊――――その言葉に、フェイルは一瞬ヴァールとの戦闘を思い出した。
 あの時突然飛来した、謎の剣。
 あれも亡霊の仕業なのでは、と。
「なら結局、アルマさんは……」
「その亡霊に連れ去られた。バルムンク=キュピリエは彼女達を追った。
 僕は一人寂しく自分の怪我の手当さ」
 血に染まったその手を捻り、掲げてみせる。
 すると、先程までは死角になっていた肘から手首にかけ、くっきりと斬撃の痕が見えた。
 縫合したらしく、その痕跡もまた痛々しい。
「女の子を守りながら、俺にこれだけの傷を負わせるんだから、大した達人だよ」
「彼は傭兵ギルドのトップですから、普通の医師相手ならそれくらい出来るんじゃないですか?」
「……これは一本取られたね」
 取り合えず最悪の事態は回避出来た――――というわけではない。
 亡霊がアルマを攫ったのだとしたら、その亡霊が何者であるかを問わず、非常事態である
 事に変わりはない。
 フェイルは極力焦りを抑えようと、半ば無理矢理カラドボルグへ皮肉を発した。
「ま、そういう訳だから、今の君が一番知りたいのはその亡霊の情報だろう。
 俺にはその心当たりもある。つまり、君を満足させる材料がある」
「等価交換、ですか」
「話が早いね。俺には俺の目的がある。そこに一歩でも近付きたい。協力願いたいね。
 もし力を貸してくれるのなら、その為に必要な情報も提供するよ。その中には君の知りたい
 情報が混じっているかもしれない。つまり、君にはかなりお得だ」
 まるで、これからフェイルに手を貸そうとしているかのような物言い。
 フェイルの中にこれまでとは違った警戒心が生まれた。
「……貴方は一体、何をしたいんですか?」
「前に話しただろう。覚えていないかな?」
 今度はフェイルの方が記憶を試された。
 カラドボルグとは能動的に交流を図った事はないが、何度か会話をしている。
 その中に、彼の目的を語った場面はあったか――――
「高貴なる死……」
 結局は、その言葉に行き着いた。
「そう。人の力では救えない、逃れられない死。俺は……」
 カラドボルグは顔を傾け、俯きながら言葉を続けた。
 だがその目は、常にフェイルの目を収め続けていた。
「一度で良い。その死を超えた先にあるものを、この目で看取りたい」







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