酒が入ると口が軽くなる、という話は国内外を問わず何処でも
 聞く事の出来る、極めて日常的なエピソードだ。
 その一方で、諜報活動において酒を使うケースもまた少なくない。
 男には女を、女には金を、そして両者に酒を――――
 情報を引き出す為の常套手段だ。
 ただしそれは、あくまでも秘密裏に行うのが大前提。
 予告して口を割らせようとする行為など、そこには一切の合理性が存在しないのは
 余りにも明らかすぎて、誰もが呆れ果ててしまうだろう。
「ようやく酒を飲む気なったか」
「うん。頂くよ、マスター。どっちもお任せで」
 その為か、フェイルがヴァールを連れて酒場【ヴァン】へ行き、
 彼女と二人で話がしたい――――そう宣言した際、直ぐに反発の声は
 あがらなかった。
 トリシュさえも唖然としていたのだから、それが如何にあり得ない宣言かは
 推して知るべし。
 特に、フェイルが酒を好まない事を知っているファルシオンとフランベルジュの
 驚きたるや、天変地異でも起こったかと錯覚するほど。
 しかし同時に、この状況でフェイルが冗談を言う事もまたあり得ないと
 理解していた為、混乱したまま硬直状態になっていた。
『……正気か?』
 ヴァールのロープを解いたフェイルにかけられたハルのその一言が、全てを
 物語っていたと言ってしまっても過言ではない。
 だが、フェイルは当然、正気だった。
「勝手に注文したけど、悪く思わないでね」
「……」
 現在、酒場【ヴァン】のカウンターにはフェイルとヴァールの二人だけが座っている。
 メトロ・ノームの現状と彼らの関係性を知る者がこの光景を目の当たりにすれば
 狼狽を越えて咆哮の域に達するだろうが、マスターであるデュポール=マルブランクは
 一切動じてはいない。
 尤も、この程度で狼狽えるような人物が、かつて数多のイリーガルな行為の
 巣窟として機能していたというメトロ・ノームの酒場で経営など出来る筈もないのだが。
「ノリート産の蜂蜜酒だ。普段酒を飲まない人間でも十分に楽しめる」
 そのマスターがグラスに注いだ酒は、美しい琥珀色。
 微かに薫る蜜の甘い香りが、独特な空気を生み出している。
「ありがとう。気を遣って貰って」
 フェイルは静かに置かれたグラスを手に取り、直ぐに口に含んだ。
 本来は色と香りをじっくりと堪能するのが常識なのだが、酒に疎いフェイルが
 そのような"作法"を知る筈もない。
「……そんなに甘くないんだね」
「酒の中では最も甘い部類に入るのだがな」
 注がれた分量の半分ほど飲み、顔をしかめグラスを置いたフェイルに対し、マスターは口元を薄く笑んだ。
 そんなやり取りに、一切視線を合わせないヴァール。
 フェイルは小さく息を吐き、アルコールを霧散させたところで、そんな彼女に目を向けた。
「飲みなよ。奢りだから」
「……本気で私が飲むと思ってるのか?」
 初めて、ヴァールが口を開く。
 魔具を取りあげられた右手に力を込めながら。
 ずっと沈黙を守る可能性もなくはなかったが、恐らくそうはしないだろうという
 目算を立てていたフェイルは、それでも心中でひっそりと安堵していた。
 ヴァールという人物像を表層のみで捉えたならば、この『酒で口を軽くしてやろう』
 という余りにも見え透いた行動は、彼女の自尊心を大きく傷付ける事に繋がる。
『この程度の事で自分が口を滑らせると思われているのか』と。
 当然、相手に対しては蔑みの極致といった心持ちになる事も言うまでもない。
 だが一方で、こうも思う。
『真の狙いは何だ?』と。
 例えば、つい昨日までいがみ合い敵対していた人物が自分の家を訪ねてきて、
 菓子折を差し出しながら『昨日までのあらゆる行為を謝罪する。今日からは仲良くしよう』
 と言ってきたとしよう。
 誰がその言葉に心から頷く事が出来るだろうか?
 ヴァールの心境はまさに、それと同じもの。
 そしてそれこそが、フェイルの目的だった。
『この男は何を企んでいるのか?』
 彼女の猜疑心をその方向に固定すれば、自然と『完全黙秘』という選択肢が薄れていく。
 それでも、絶対的な覚悟と強靱な意志があれば、沈黙を貫いたかもしれない。
 自分は敗北した、だが情報は一切漏らさない――――そんな意志があれば。
 しかし、フェイルはヴァールにそのような決意はないと強く推定していた。
 根拠は、彼女の主。
 スティレット=キュピリエという人物そのものにあった。
「貴様の意図は知れている。酒で私を潰し、引き出せる情報を全て引き出す算段だ。
 酒に何か薬物を入れている可能性もある」
「……そいつは無視出来ない発言だな。俺の店でそんな無粋な真似はしないし、させん」
 恰幅のいいマスターが、鋭い目付きで睨むも――――ヴァールに狼狽する気配は一切ない。
 彼女の芯の強さは、フェイルもこれまで何度となく見てきた。
 同時に、気性の荒さも。
 ただしそれは、オートルーリングという魔術の一技術についてのみ限定される。
「無理に何かを聞き出そうと思ってる訳じゃない。それなら、集団で尋問、拷問した
 方が効率がいいと思わない?」
「私はどれだけ痛めつけられようと、屈しない」
「その雰囲気は感じてるよ。でも、僕は薬草士だ。人間の意思、それどころか人格すら
 吹き飛ばすような薬にも心当たりがある」
 氷のようなヴァールの目が、一瞬だけ揺れた。
 フェイルの発言に感情を動かしたのは、これが初めてだった。
「でもマスターの言ったように、ここでその薬をどうこうはしないし、出来ない。
 やるつもりなら、ここに来る意味はない。そうでしょ?」
「……貴様」
 ヴァールが目だけで表情を作り、フェイルを横目で睨む。
 それは、彼女がオートルーリングに関して話す時の表情と酷似していた。
「僕が君に聞きたいのは、君自身について。そして多分、君も僕に聞きたい事がある。違う?」
「フザけた事を。私が貴様に何を聞くと言うんだ」
「『旧時代の技術にすがる愚者』について」
「……」
 一瞬、歯軋りのような音が酒場内に響きわたった。
「意識が朦朧としていたからこその発言だったんだろうね。そして、だからこそ本音の
 可能性が高いと思った」
「私が……貴様を仲間だと思っている。とでも言う気か?」
「まさか。ただ――――」
 ヴァールの仮面は、剥がれつつあった。
 しかし、まだ亀裂すら入っていない。
 戦闘より遥かに困難な道のりは、未だ半ばに過ぎない。
「――――君が何かしら話たがっているとは思ってる」
 その一歩は、果たして是か非か。








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