――――それは、記憶の中にあるような、ないような、霞みの中で
 煙に巻かれたような、曖昧な会話だった。

 場所は、メトロ・ノームではない。
 時系列も現在ではない。
 あくまでもフェイルの頭の中に存在する風景だ。
 その場所は、フェイルにとって人格を形成した大事な場所であり、
 今も尚、唯一『懐かしむ』という行為を出来る過去
 エチェベリア国、王城の傍にある宮廷弓兵用の宿舎――――
 その周辺は、フェイルにとって庭も当然だった。

「目が視えないって、どういう感じなのかなって思ってさ」

 宿舎の壁を背に空を仰ぎ、そう問いかけるフェイルの隣には
 フレイア=リングレンの姿がある。
 彼女の目には光がなく、この世界を視認する事が叶わない。
 そしてそれは生まれてからずっと続いている。
 暗黒の世界――――もしフレイアに一瞬でも目が視える時期が
 あったならば、自分の住処をそう思っていたのかもしれない。
 しかし彼女はただの一度も、目が視える時期を過ごした事がない。
 たった一度も、この世界の正しさに触れた事がない。
 そんなフレイアに問いかける質問として、フェイルの言葉は
 配慮を欠いていると見なされても仕方のないものだった。
「そうです、ね」
 しかし当のフレイアは気にする素振りなど微塵も見せない。
 結局は当人同士の関係次第で配慮の仕方は全く異なるというだけの事だった。
「ノートさんは、矢を放つ瞬間にどんな事を、思って放ちますか?」
「んー……覚えたての頃は当てなきゃ、って強く意識してて、その後は
 フォームとか力の入り具合、抜き具合を気にしてて、でも……そうだね。
 最近はあんまりそういうのは考えなくなってきたかも」
「その最後の方と似て、います」
「そっか。それが当たり前なんだから、そうだよね」
「そうで、すね」
 微笑むフレイアの瞳は、視えていない筈のフェイルの目を正確に捉えている。
 気配と声を頼りに、フェイルの目のある位置を予測し、そこへ自分の
 顔を向けている。
 誰に教わった筈もない。
 少しでも他人との差異をなくし、不自然さを和らげる為に
 自分で身につけた処世術だとフェイルは解釈した。
 彼女は自分より遥かに優れた"生きる力"を持っている――――
 心からの尊敬を、フェイルはフレイアへと抱いていた。
 だからこそ、過剰に気遣う事はしない。
 過剰に気遣う事を過剰に気に留めたりもしない。
 自分の余り気の利かない性格をそのままフレイアへも適用する。
 それなりに長く悩み抜いた結果、フェイルは彼女への接し方をそう固定した。
 それが果たして、フレイアにとって最善かどうかは不明だが、
 そんなのは誰にとっても同じ。
 なら、余り深く悩みすぎるのも良くない。
「フレイアはずっとこう、でしたから不安や苦しみはありま、せん。
 もし最初は視えていたのなら違う、気持ちになっていたかもです、けど」
「確かにそうかもね。どっちが良いかなんてわからないけど」
「そうで、すね。一度でもシリカお姉様やノートさん、のお顔を視てみたい
 気持ちはあります」
「うーん……きっと後悔すると思うよ。シリカの怒った顔とかおっかないもん」
「そうなん、ですか?」
「そうそう。例えば……」
 今、直ぐ目の前にある、この顔みたいに――――
「フェイル=ノート! またお前はフレイアに余計な事を……」
 フレイアの姉、クトゥネシリカ=リングレンがそこにはいた。
「いきなり現れていきなり大声を出さないでよ。フレイアが驚くでしょ」
「ぐっ……! フレイア! こんな生意気小僧と二人きりで会うなと言っただろう!?」
「で、でもシリカお姉様。ノートさんとお話するの楽しい、です」
 アワアワと自己主張する妹を、クトゥネシリカは何処か歯痒そうに、でも少し
 嬉しそうに眺め、そして――――
「と、とにかくもうすぐ日が暮れる。帰るぞ」
 その手を取る。
 視界のない妹を驚かせないよう、柔らかくしなやかな所作。
 それだけで、この言葉遣いの乱暴な女性の本当の内面がわかる。
「いいか、フェイル=ノート。妹を惑わすような言動は今後一切するな。
 私の許可なしに二人きりになるのも絶対に許さないからな」
「はいはい。フレイア、話の続きはまた今度ね」
「人の話をちゃんと聞け! 今度はない!」
「で、でもシリカお姉様と三人なら許可、を頂けるんですよね?」
「……う。そ、それは……」
 ズイッと、クトゥネシリカの顔に自分の顔を寄せるフレイア。
 手を繋いでいる時の距離感を完璧に把握しているからこそ出来る、何気に高等技術だ。
「今度近くの、お山にお出かけ、しましょう。フレイアがパンを焼きます、から」
「そ、それは……おい、フェイル=ノート! お前は訓練で忙しい身だよな?
 だそうだ。だから諦めるんだ」
「何勝手に決めてるの。訓練なんていつやっても一緒なんだから、時間はいつでも
 作れるよ。フレイア、いつがいい?」
「空気を読め! 私は……!」
「明日がいい、です。お姉様も明日は午前中であがるって」
「フレイア! 勝手に人の予定を話すんじゃない!」
「……」
 光なき瞳は、それでも何かの光を宿し、クトゥネシリカの方にじっと向けられる。
 根負けしたのは――――
「……わかった。ただし! 直ぐ帰るからな!」
「わっ、ありがとうシリカお姉様!」
 じゃれるように抱きつくフレイアに、クトゥネシリカは喜怒哀楽全て混じったような
 複雑なのか単純なのかわかり辛い顔をしていた。
「あー……その、なんだ。フェイル=ノート。不本意極まりないが、そういう事になった。
 だが勘違いはするなよ! 私はお前のような礼儀知らずと馴れ合う気はない!
 あくまでもフレイアの希望を叶える為、同行するだけだからな!」
「一緒に遊ばない、のですか?」
「当然だ。私は……そうだな。フレイアの護衛だ。うん、これがいい。私は騎士団の
 一員なのだからな。騎士とはか弱き者を守る為の存在だ。断じて! そこの野蛮人と
 一緒になって遊ぶなどと言う軽薄な行為には興じない!」
「そっか。残念だな。せっかく三人で並んで魚釣りでもしようかと思ったのに」
「……魚釣り、だと?」
 クトゥネシリカの眉がピクリ、と動く。
 魚釣りに興味があるらしい。
「フレイアが行きたがってるのって、ここから一番近い所にある山だよね?
 あそこ、綺麗な小川があるんだよ。魚が一杯釣れるんだ。偶に訓練で行くんだけど、
 自給自足だーって毎度そこで川魚を釣り上げて、それを夕食にするんだよね」
「わっ、えっと、フレイアにも出来ま、すか?」
「うん。大丈夫。釣りに必要なのはゆったりした時間を満喫する心の余裕と
 一瞬の集中力だから。そこのおっかないお姉さんよりフレイアの方が確実に適正あるよ」
「な、なんだと!? 私に余裕と集中力がないとでも言うのか!」
「なら、あると証明する?」
「……一杯喰わされた気もするが、いいだろう。この勝負、受けて立つ!」
 こうして、明日の予定が決まった。
 実は丸一日宮廷弓兵団の合同訓練の予定が入っているのだが、フェイルは意にも介さない。
「と、ところで、フェイル=ノート。デュランダル様はその、魚は……」
「ああ。フツーに食べるよ。差し入れしたいのなら御自由に」
「そ、そうか。よしフレイア、明日は"めざせ大漁"だ! 今から釣り竿を厳選するぞ!」
「え? え? わっ、わっ」
 すっかりやる気を出したクトゥネシリカに引きずられるように、フレイアも
 フェイルと宿舎から離れていく。
「ノートさん、明日楽しみに、してます……」
 そんな声もどんどん小さくなっていった。
 乱暴に扱っているようで、実は細心の注意を払ってフレイアの手を引いているクトゥネシリカ。
 全てを委ね、安心して身を任せているフレイア。
 そんな姉妹の去りゆく姿を眺めるのが、フェイルは好きだった。
 でもそれは、明日また会えるからかもしれない。
 もし、この温かい時間に終わりがくるとすれば――――

 きっと、そんなふうには思えなかったのだろうけれど。






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