「……」
 フェイルにとって、その消失した気配は余りに馴染み深いものだった。
 通常ならば、察知する事など到底叶わない。
 だが、フェイルは余りに身近に、そして余りに日常的にそれを感じられた
 時期が確かにあった。
 だがらこそ、誰一人気付かないであろうその存在に気付いた。
 気付かざるを得なかった。
「フェイルさん……?」
 その反応が露骨にフェイルの表情に出ていた事で、ファルシオンが
 怪訝そうに名前を呼ぶ。
 アルマもまた、不安の種を頭の中に植えるかのように押し黙った。
「二人とも、僕が帰ってくるまでこの家から絶対に出ないようにして。
 フランとトリシュさんにもそう伝えておいて」
「えっと、どういう事なのかな?」
「お願い」
 理由を言わないフェイルに対し、アルマは困惑を見せていたが――――
「……わかったよ。約束するよ」
 理由を言わず、従う事を即決した。
 一方、ファルシオンは反論もなく、ただ一つ、浅く頷くのみ。
 二人の返答を確認したのち、フェイルは壁に立てかけていた弓、
 そして六本の矢が入った矢筒を背負い、アルマ邸の玄関から外へと出た。
 相変わらず、外は暗いまま。
 あの"柱の光"も今は跡形もなく消えている。
 あれは一体なんだったのか。
 ビューグラスは何の目的であの場にいたのか。
 そういう思案が一瞬生まれるが、それを直ぐに打ち消し、フェイルは
 糸を伝うようにして、暗闇の中を歩く。
 フェイルにとって、暗中を移動することは全く苦にはならない。
 にも拘わらず、一歩一歩進むにつれ、精神が磨り減る感覚に襲われていた。
 フェイルが察知した気配は、この上ないほど洗練されていた。
 無理に抑える事はなく、だが殆ど拡散せず、まるで正装した紳士の
 ような上品さすら感じ取れる。
 もしその人物を知らなければ、到底それが剣士のものだとは思えないだろう。
 だが――――
「……フェイルか」
 梟の目に映ったその男は、紛れもなく剣士。
 それも、国内最高の称号を得たばかりの剣士だった。
「久し振り、という程でもないか。先日地上で出くわしたばかりだったな」
「うん。それに、こっちはエル・バタラの決勝を観戦してたから」
「……見ていたのか。あれを」
 その声は沈んでもいなければ、淀んでもいない。
 弟子に公開殺人となったあの一幕を見られたと知っても、
 その男は――――デュランダル=カレイラは眉一つ動かさなかった。
 余りに唐突な出現。
 だが不思議ではない。
 デュランダルが勇者計画の実行者の一人である事は明白。
 そして、その勇者計画の被害者となる残り二人、ファルシオンとフランベルジュは
 今、アルマ邸にいる。
 もし、彼女達の始末をデュランダルが一任されていたとしたら、
 追っ手が緩かった理由はそこに集約される。
 いつでも始末できるのだから。
 最悪の可能性を想定し、フェイルの首筋に冷や汗が滲む。
「言いたい事があるなら言え、と言いたいところだが……お前に構っている暇はない。
 この先に用事がある」
「【銀朱】の副師団長が、メトロ・ノームの管理人宅に何の用があるの?」
「それをお前に答える必要はない」
 デュランダルの発言は一貫していた。
 眼中にない。
 そう、言葉でフェイルに伝えていた。
 本当にそうなら、言葉すら不必要だという事を、フェイルはわかっていた。
「いや、あるよ」
 だからフェイルは、背負っていた弓を手に取る。
 矢筒から矢を一本抜き取る。
 かつて――――師匠と呼んだその男に、弓引く為に。
「アルマさんは知人だからね。知人の家に殺人者に向かわせるのは抵抗がある。
 僕の判断は誤ってるかな?」
 矢を番い、フェイルは極力自分を抑えながら宣戦布告。
 自分でも、その姿が滑稽極まりない事を自覚しながら。
「お前のその目なら、俺の姿を光の下と同じように捉えているのだろうな。
 ならば、万が一という事もあるのかもしれん」
「……ある訳ないでしょ。どうして僕が師匠を止められるのさ」
 明らかに行動と矛盾した事を、フェイルは心の底から本心で言い放つ。
 それは決して自嘲でも自棄でもない。
 冷静に、この上ないほど冷静に自己分析した結果だ。
 バルムンクなら――――どうにかなった。
 勝つのは不可能でも、撤退させる事は出来るかもしれないという希望はあった。
 それが現実となったのは、幸運だったというしかないが、それでも
 狙い通りではあった。
 だが、この男は違う。
 バルムンクとは、技術も身体能力もその質が違う。
 バルムンクは、野獣を思わせるようなその風貌に似つかわしい腕力と、
 風貌とは真逆の精密かつ思慮深い技術を持ち合わせていた。
 デュランダルは違う。
 腕力を必要とする戦略を用いない。
 精密という概念すら必要ない。
 その剣技は紛れもなく世界屈指だが、それすらも霞むほどの特性を
 デュランダルは持っている。
 それは"静けさ"だ。
 戦闘態勢から初撃へ移る際の予備動作。
 敵からの初撃を回避する際の反応。
 それらが恐ろしく"何気ない"。
 落ち着いている、とか、余裕がある、といった表現ではとても表わせない
 深淵の静寂を備えている。
 フェイルが王宮に在籍していた頃、単純に剣技だけを比較すれば
 まだ剣聖ガラディーンに分があると言われていた。
 だがそれでも、二人が戦えばどうなるかわからないとも言われていた。
 それほど、デュランダルの泰然自若な戦闘スタイルは高い完成度を誇っていた。
 その上――――エル・バタラでガラディーンを下したという現実。
 あれが勝敗の決まっていた不正試合だったのか、本気で戦った結果なのかは
 問題ではない。
 デュランダルがガラディーンへと放った、そして――――リオグランテの命を
 奪った"あの"一撃。
 フェイルはあの攻撃を避ける可能性を見つけられずにいた。
 つまり、絶対不可避の一撃であり、致命傷となる強力な攻撃。
 仕掛けられれば、その瞬間に全てが終わる。
 身体能力、技術、経験、精神全てが国内最高峰。
 それに加え、無慈悲の一撃をも備えている世界屈指の剣士を相手にし、
 その歩みを止める手段をフェイルは持ち合わせていない。
 いや――――国内には誰もいないと言うべきだろう。
 少なくとも、フェイルはそう確信していた。
「お前に俺を止める事は出来る」
 漆黒をまとい、デュランダルは一歩、その右足を前へと踏み出す。
 それだけで、フェイルの身体には戦慄が走った。
 王宮での稽古では何度も対峙し、その度に辛酸を舐めた。
 だがそれでも、本気を出したデュランダルと巡り会った事はなかった。
 なのに、恐怖で竦んでいる。
 余りに単純明快な力の差。
 フェイルはそれを自覚していた。
 恐怖も、実力差も全て把握していた。
 身体が硬直するほどの圧力を受ける事もわかっていた。
 わかっていて、それでも尚、ここにいる。
 一人でデュランダルの眼前までやって来た。
 師匠と弟子だから穏便に済ませる事が出来る――――そんな淡い期待はそもそもない。
 そんな甘い人物ではないと、誰よりフェイルは知っているのだから。
「用があるのはアルマ=ローランただ一人だ」
 それは、フェイルの予想とは違っていた。
 当然鵜呑みには出来ない。
 だが、この目の前の男が自分に敢えて嘘を吐く理由もまた、見当たらない。
「もしお前が彼女を俺に引渡したくないのなら、俺を"納得"させてみせろ」
「……!」
 そのデュランダルから発せられた言葉は、フェイルの記憶を一瞬、王宮まで戻した。

『僕は納得できないだけです。別に何をしようって言う訳じゃない』

 クトゥネシリカ=リングレンの除隊にどうしても納得出来なかった。
 彼女を救う事も出来なかった。
 何も出来なかった。
 今は?
 今は何が出来る?
 アルマを引渡したくないのなら、何をすればいい?
 そもそも、何故デュランダルはアルマに会いに行こうとしている?
 デュランダルは今、何をしようとしている――――?
「……なら仕方がない」
 フェイルは弦を引く右手に力をゆるめた。
 思案の中で、ある"一つの可能性"に行き当たったからだ。
 あとは、その為の準備を始めるのみ。
 フェイルは弓を左手で掲げたまま、全身から力を抜く。
 目の前の師には及ぶべくもないが――――
「やるだけ、やってみようか」
 そう惚けた口調で呟き、予備動作を最小限にした初撃を放った。






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