――――それは、メトロ・ノームに突如"光の柱"が現れた時の事。

 その柱から光が失われた際、最も素早く変異に気付いたのは二人。
 バルムンク=キュピリエ、ガラディーン=ヴォルスの二人が
 実力相応の反応速度で臨戦態勢を整えた。
 唐突に闇に包まれた事が非常事態、そして危機的状況だと
 一瞬で判断したのは、彼らの豊富な経験が理由ではない。
 自身の生命を守護するという、生物として持って生まれた
 本能に由来するものであり、彼らが生物として他の面々よりも
 優れている事を示すものだった。
 が、しかし――――暗中における状況把握、そして今後起こり得る
 危機の正体を判断・予測する速度に最も長けていたのは
 彼らではなかった。
「逃げろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 肺に残っていた空気を全力で放出する勢いでそう叫んだのは――――
 フェイル=ノートだった。
 反応では遅れをとったフェイルだったが、暗闇を視界から
 取り除く『梟の目』を持っていた事で、誰より早く状況を理解できた。
 ただ、それは単に梟の目を持っている事だけが理由ではない。
 柱の光が消えた瞬間――――動揺や心の揺らぎを一瞬で抑え、
 次の瞬間には右の鷹の目を閉じ、誰が危害を加えようとしているのかを
 予測し、そこに視点を定める作業を淀みなく行えた事も大きな理由だ。
 そのフェイルの左目に映ったのは――――トライデント=レキュールの姿。
 何故、この状況下において彼を真っ先に疑ったのか。
 それは、フェイルが前に一度彼とここメトロ・ノームで遭遇していた事が
 大きかった。
 あの時、トライデントは明らかに永陽苔の光を促進していた。
 薬草を燃やし、メトロ・ノームの夜を明けさせていた。
 彼が永陽苔に関する何らかの実験を行っていたのは想像に難くない。
 メトロ・ノームの昼夜が正常の間隔ではなくなっていた理由が
 彼の行動である事は、疑いようがなかった。
 同時に、この場における彼の存在理由、そして彼が誰の指示で
 その実験を行っていたかも明白。
 今し方、光る柱に集まった面々に対して説明をしていた二人だ。
 マロウ=フローライト。
 そして、ビューグラス=シュロスベリー。
 この両者がトライデントの背後にいる。
 到底、戦闘が可能とは思えない二人の。
 となれば、トライデントの役割は自然と見えてくる。
 戦闘要員。
 難易度の高いものではなかったフェイルの読みは、
 当然のように的中した。
 闇の中、トライデントの身体が――――変質していた。
 その変質は、フェイルが一瞬の迷いもなく全員に向かって
 逃げるよう訴えるに十分な内容だった。
 彼は紛れもなく、普通の人間だ。
 勿論、戦闘力に関しては、かつて王宮騎士団【銀朱】期待の若手
 であったのだから、普通と表現するのは相応しくない。
 ただ、それはあくまでも人間としての練磨で作られた戦闘力であり、
 その力を出力可能とする身体もまた、人間としての常識の範疇にあった。
 けれど――――フェイルの左目に飛び込んで来たトライデントの
 変質は、人間の常識の範疇とは言い難かった。
 右腕の膨張。
 瞬間的に、通常の右腕の数倍の太さに膨れ上がるその過程は
 およそ生理的に受け付け難いものであり、いかに人間が
 人間らしくない姿になる事が恐怖の対象となり得るかを
 明確に示した瞬間でもあった。
 事実、フェイルはその瞬間、全ての視界をトライデントの
 右腕に奪われてしまった。
 彼がどんな表情をしていたのか、マロウやビューグラスが
 何をしているのか、といった重要な情報の取得を実行できず、
 強張った身体を強引に動かし喉と肺を稼働させるのが
 精一杯だった。
 それくらい、切羽詰まった一瞬だった。
 そんなフェイルの全力の咆哮は――――それでも、正しい危機感を
 全員に知らしめる事はできなかった。
 最初に、フェイルの声に反応したのは――――
「……!」
 ファルシオン=レブロフ。
 距離的に一番近い場所にいた事、フェイルの声を聞き慣れている為
 叫び声という声の判別が困難な声でありながらも、誰が発したかを
 瞬時に判断できたのが大きな要因だった。
 同意に、フェイルの危機感も直ぐに受け取った。
 この状況が以下にマズいか、一瞬の内に理解した。
 それでも、魔術士という一般人とそれほど身体能力の差がない
 存在故、離脱体勢に入るのには若干の時間を要する。
 その為、ファルシオンが柱に背を向け逃げる為の一歩を踏み出すより
 前に、彼女のローブの左袖が何者かに掴まれた。
 敵――――そう認識する間もなく、ファルシオンは地面に叩き付けられる。
 一体何故、自分が真っ先に狙われたのか。
 その回答を探す余裕など当然ない。
 そもそも、何が起こったのかわからないまま、ファルシオンの
 頭部には強烈な痛みが走った。
 袖を引っ張られ、地面に頭から落ちた所為だった。
 気絶は免れたが、目から火花が出たかのような激痛。
 思考力も完全に奪われる。
 混乱状態。
 次の行動を考える間もなく、ファルシオンは死を強く意識した。
 何をされたとしても、防ぎようがない。
 そんな絶望的な刹那の時間、ファルシオンの脳裏を掠めたのは
 自分を一人で育ててくれた母の顔だった。
 母へ恩返しをする為、ファルシオンは欺瞞者の道を歩んだと
 言っても過言ではない。
 彼女には、最早"勇者一行"という仮面を被る以外に
 魔術士として生きる道はなかったからだ。
 けれど、結局その道は早死にの道に過ぎなかった――――
 そんな後悔と懺悔の念に囚われたファルシオンの身体が
 再び跳ねる。
 その瞬間、ファルシオンの思考は完全に停止した。
 意識も同様に。
 彼女の身体は、本人の予感とは正反対にこっそり餌を奪い逃げる猫の
 ような唐突さで、生きる道の上を跳んだ。
 彼女の意思ではない。
 圧倒的な腕力によって、余りに強引に投げ出された。
 彼女とほぼ同時に、フェイルの叫び声に反応できた人物――――
 ハルの手によって。
「チィッ……!」
 ハルは、状況の全てを把握している訳ではない。
 少なくとも視界に関しては突然の暗転によって全く使い物に
 ならなくなってしまっている。
 これはその場にいるフェイル以外の全員が同じ条件だ。
 だが、それでもハルは現在の危機的状況の度合いについては
 フェイルとほぼ同等の情報量を頭の中に想定できていた。
 何が起こっているのかはわからない。
 だが、この上なくヤバい。
 一瞬でも早く、今の場所から移動しなければ、何かによって
 潰されてしまう――――そういう強い予感があった。
 五感の内の視覚を奪われた事で、聴覚への集中力が
 増していた点も大きかったのだろう。
 トライデントの右腕が膨張する際に発せられた不気味な音を
 ハルの耳は捉えていた。
 ファルシオンの身体をその場から離すべく強引に投げ飛ばしたのは
 彼女の身体能力が明らかにこの場において最も助けを必要とするという
 判断に基づいていた。
 手荒く扱う事への躊躇のなさも、同じ理由。
 それらは、ハルの人生経験に起因していた。
 彼はかつて、魔術士を憎んでいた。
 多くの魔術士を抱える国で、その憎悪の原因は生まれた。
 しかし今は、魔術士を憎むという気持ちは薄れている。
 その変化もまた、人生経験の一部によるものだ。
 とはいえ、心の何処かにかつての憎悪が残滓となって蓄積されていたらしく、
 その慈悲のなさがハルの行動を迅速なものとし、却ってファルシオンを
 生命の危機から一足早く離脱させる事となった。
 ハルがファルシオンの身体を柱の外側の方向へ放り投げた刹那――――
 トライデントの右腕は、高々と振り上げられていた。




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