それは一瞬の隙だった。
 先程ロギの一言によってフェイルの中に生じた須臾の空白。
 フェイルの放った殺気によって、ロギの身体は半ば強制的に
 硬直し――――それがきっかけとなった。
「フェイル=ノー……」
 アルマの袖から、フェイルの手が離れる。
 その伸びきった袖が本来の位置へ戻る刹那の時間。
 ロギの目から、フェイルが消えた。
 正確には――――視覚ではなく脳が見失った。
「……」
 しかし、ロギはそれでも冷静だった。
 自分の距離ではない。
 現状をそう判断し、地面を足で削るほど叩き、後方へと跳ぶ。
 既にフェイルの姿は視界にはない。
 無論、高速移動を続けている訳ではなく、このメトロ・ノームに
 無数に存在している柱の陰に隠れている事は明白だ。
 ロギは先程までいた位置から一気に10m以上離れ、柱に背中を預け
 左手に弓を、右手に矢を持ちつつ身を屈めた。
 宮廷弓兵団に所属していた頃、ロギは"集団における弓兵"の
 行動理念を学び続けた。
 後方支援を担当。
 重要なのは精度と速度。
 もっと重要なのは、距離感。
 標的を目視する訳ではなく、遥か前方にいる集団の誰かに
 当たるような、大きな放物線を描く遠距離射撃が宮廷弓兵団の
 基本的攻撃手段だった。
 並行して、馬上における射撃も学んだ。
 騎乗して弓矢を扱う"弓騎兵"は、騎士団の一員とし招かれる可能性を
 秘めた優秀な人材にのみ与えられる称号。
 ロギもその一人としての教育を受けた。
 騎乗しながらの射矢で重要なのは、いかに上半身を安定させるかという
 一点に集約される。
 そしてその為には、下半身で馬からの不規則な力を
 制御しなくてはならない。
 騎馬が動いた状態で敵を射る事ができるからこそ、弓騎兵には
 価値がある。
 馬を走らせつつ正確に矢を射るためには、射撃の前後に
 両脚で地面に立っている状態と等しくする必要があるが、
 実際にそれをできる人間は少ない。
 その為、殆どの弓騎兵は"リズム"と"慣れ"によって
 それに限りなく近い状態を作る。
 馬上の振動をなるべく一定のリズムに保ち、その振動による
 手のブレに慣れる事で、誤差を最小限に抑える。
 こういった訓練を、ロギは毎日繰り返し行っていた。
 その頃に培った技術は、現在――――まるで役に立っていない。
 騎馬に乗る機会などないし、一群の中の不特定多数の標的へ
 向けて矢を放つ事もない。
 しかし、ロギはこれらの訓練をムダだと思った事はない。
 寧ろ、今の自分を支えているのは宮廷時代に磨かれた精神性だと
 確信していた。
 誇り高き宮廷弓兵団の一員として日々研磨し続けた技術は
 基礎の上に幾つもの引き出しを作り、そこに数々の経験を入れている。
 引き出しの中に沢山の宝物がある――――
 それはロギに余裕と誇りとをもたらした。
 高い精神性は、この二つがあってこそ成立する。
 そう信じているからこそ、ロギの現在がある。
 実際、ロギには余裕があった。
 フェイルの突然の殺気にも、一瞬怯んだだけで直ぐに立て直した。
 そして冷静に現状の戦力分析を行う。
 技術は互角。
 であるなら、負傷しているフェイルに遅れをとる道理はない。
 何より、この野戦と市街戦の中間のような戦況は、
 自分にとって大きく有利に働くと確信していた。
 ロギは王宮を出て以降、常に似たような環境下で戦ってきた。
 正確には――――
 一方的に仕留めてきた。
 スティレットの部下の一人として、時に山岳地帯で山賊から彼女を守り、
 時に市街地で彼女の邪魔となる人物を排除し、そして時に
 このメトロ・ノームで暗躍し続けてきた。
 片や、フェイルはどうか。
 ロギの耳には、情報が入っていた。
 フェイルが薬草店を開き、静かに第二の人生を歩んでいるという。
 最年少で宮廷弓兵団の一員となるだけの才能を持ちながら、
 弓兵としての誇りを捨て、接近戦に活路を見出し、結局それも
 中途半端なまま舞台から降りた。
 そんなフェイルを、ロギは赦せずにいた。
 彼の挫折が、現代の弓兵の現状を――――魔術に敗れ戦場の
 第一線から退きつつある弓矢の惨状を体現しているかのような
 その人生を、どうしても認められなかった。
 だが、それも今日で終わる。
 ここでフェイルを仕留めれば、所詮は過去に近くで見てきた
 期待と栄光への幻影に過ぎないと、そう自分を納得させられる。
 ロギは戦う意義をそう設定し、フェイルの気配を探り続けた。
 弓兵時代にはなかった技術だ。
 暗躍する"弓使い"にとって、標的の位置をいち早く正確に
 把握する能力は必須。
 そして察知の仕方は何通りもある。
 視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚――――五感を全て駆使し、
 空気の流れを読む。
 それでも探れないほど気配を絶つのが上手い相手に対しては、
 自ら殺気を放つ事で強引に反応を起こす。
 当然、自分の位置も把握されるので、移動しながらが基本となる。
 現在、フェイルの気配をロギは察知できていない。
 負傷しており、集中力が乱れる事を予見していただけに、
 それは想定内とは言えなかったが、かといって動揺する事でもない。
 寧ろ、多少歯ごたえがあった方が納得度が上がる。
 ロギは深く息を吸う。
 全身へ殺気を漲らせる為の下準備。
 後は、高速で移動しながら周囲へ殺気を撒布する。
 本来であれば、その殺気をアルマへ向ければなお効果的だ。
 しかしロギはその選択を却下した。
 それでは納得度が下がる。
 これまでのあらゆるスティレットの任務において、常に
 自分の心情よりも成功の可能性を上げる事に腐心していたロギが、
 この日だけはフェイルと自分、そして弓兵である事へ執着を見せた。
 吸った息が十分に全身へと行き渡るような感覚が
 身体の熱を微かに上げる。
 この熱に己の中の殺意を乗せ、放散する作業によって
 殺気が周囲へと散る。
 ロギはそんな感覚で、殺気を意図的に放つ事ができる。
 これは誰もが同じ感覚という訳ではなく、ロギが自分の人生の中で
 自然と身につけたものであり、技術の一つでもある。
「終わりだ。フェイル=ノート」
 そう心中で宣告し――――ロギは地面を蹴った。
 そして同時に膨大な量の殺気を放つ。
 これだけの殺気を浴び、無でいられる人間はいない。
 必ず反応を見せる。
 それを察知し、位置を確認すれば後は矢を射るだけ。
 柱の陰に隠れていようと、射抜ける角度へ移動するだけでいい。
「弓矢の陽の当たる未来……その幻想に、この私が終止符を打つ」
 静かに心を波立たせ紡いだ思いを呑み込み。
 ロギは、フェイルの気配を察知した。
 それが――――この戦いの終結を決定付けた。






 

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