遠く、それでいて手を伸ばせば届く場所にある記憶。
 それはまるで陽炎のように、ゆらゆらと揺らめいている。
 真実だったのか、それともどこかでねじ曲げられた虚実なのか。
 いずれにせよ――――彼はこう云った。

「フェイル。植物が人間に勝ると思ったことはあるか?」

 それは、フェイルが宮廷弓兵団を抜け、この街――――ヴァレロン新市街地へ
 戻ってきてから一ヶ月が経過した時のこと。
 フェイルは『妹』を救う為、第二の故郷であるこの地へと戻った。
 救う方法はわからない。
 それどころか、救う必要性があるのかどうかすら曖昧。
 フェイル自身、詳しい事情はまるでわかっていないのだから。
 わかっていることは、五つ。
 自分自身が『指定有害人種』という、あからさまに危険な香りのする
 なんらかの一群である可能性がある、という点。
 その指定有害人種の一群にアニスが含まれている点。
 彼女に逃れられない死が迫っている点。
 ビューグラスと花葬計画が、これらの事実に何らかの関わりを持っている点。
 そして、以上の四点において極めて信憑性が――――高い点。
 王宮内にあった隠し部屋の記録簿に記載されていた内容が
 必ずしも事実とは限らない。
 ただ、わざわざ虚実を織り交ぜた記録を王宮の隠し部屋に保管する理由はない。
 真実だからこそ、王宮内に隠されていると考えるのが自然だ。
 だとすれば、アニスの生命に危険が迫っているのは事実と見なさなければならない。
 とはいえ――――果たして自分に何ができるのか。
 フェイルは指定有害人種という言葉の意味をずっと知らずに来た。
 言葉から受ける印象は、なんらかの害を持つ人間であるということ。
 その害が、他人に向けての害なのか、自分に対しての害なのかもわからない。
 当初は後者だと思っていた。
『生命の危機』から連想すれば当然の発想だ。
 ならば――――その害は薬草で消し去ることができるのではないか、と
 フェイルは考えた。
 この世界に、一口で怪我を癒やすような薬は存在しない。
 一瞬で体調を回復させるような魔術もない。
 人間の自然治癒力こそが、人間の傷を治す唯一の手段。
 そして、その自然治癒力を高める効果を持つのが、薬草だ。
 フェイルはジェラール村という生まれ故郷の村で幼少期を過ごしていた。
 そこは自然に囲まれた、美しくもあり、不便でもある村だった。
 一言でいえば『貧村』だ。
 自然の恵みに頼り、自然と共に生きる――――といえば聞こえはいいが、
 結局のところは選択肢が他にないだけ。
 親のいない子供にとっては、自然に生かされる以外生きる道がなかった。
 もし折り合いが悪ければ、早くに母なる大地の元へと還っていただろう。
 フェイルは運がよかった。
 森との相性がよかったからだ。
 自分の食べるモノを手にするための狩りに抵抗も挫折もなかった。
 自分の命を脅かすより強大な動物たちから逃れる身のこなしも
 ある程度の才能に恵まれていた。
 だが、それでも無傷で生きていけるほど甘くはない。
 フェイルは森の中で何度も傷を負った。
 毒に苛まれることもあった。
 それらの脅威から命を救ってくれたのが――――薬草だった。

「……植物が人間に勝っているところ、ですか?」

 そして、幼少期に身につけた薬草の知識は、街に出てきた際に
 偶々その権威たる人物の目に留まった。
 それが縁。
 偶々出会った少女との縁に続き、二つ目の縁だった。
 自分がどうして、数多の野草が生えている山中で正しい薬草を選べたのか、
 どうして正しい服用を行えたのかは、当時のフェイルにはわからなかった。
 だが、この時のフェイルには明確な理由がわかっていた。
 だからこそ、答えに詰まる。
 何気ない質問ではあるが、非常に大きな意味を持つ問いかけだとわかっていたから。

「そうですね……生命力、ですか」

 そう答えるのに、1分近くを要した。
 それなりの価値はあったらしく、ビューグラスは満足げに二度頷いた。
「そうだ。人間は腕をもがれてしまえばそれっきり。だが植物は違う。
 何度葉を失おうと、新たな葉を生やす。その生命力が人間にあれば、
 一体どのような夢を描くことができるのだろうと想像するだけで楽しい。
 お前は、そうは思わないか?」
「よくわからないです」
 フェイルは困り顔で、ビューグラスの言葉に耳を傾け続ける。
 王宮からこの街へ戻って、彼と再会してからというものの、
 フェイルは何度となく屋敷に招かれた。
 宮廷弓兵団時代の給与、御前試合で勝利したことで得た賞金など、
 それなりの蓄えはあった為、薬草店を開くという目的は果たせそうだが、
 どの場所にどれくらいの規模の店を構えるかはまだ決めきれず、宿暮らしが
 続いている中での招待は、ありがたくもあり、歯痒くもあった。
 できるなら、例え小さな店であっても自分の拠点を構え、その上で
 接したいという気持ちが強かった。
『貴方の娘さんを助ける為にここへ戻ってきました』
 そう宣言することはなくとも、その用意だけは済ませておきたかった。
 それだけに――――

「薬草にはまだ大いなる可能性がある。人間にないモノを引き出してくれる
 大きな可能性だ。儂も年を取った。それほど長くは生きられまい。だが……
 この可能性を見ずして、薬草学にこの身を捧げた人生を終わらせたくはない。
 フェイル……儂に力を貸してはくれないか」

 そう請われたのは、辛かった。

「協力してくれるのなら、相応の礼はしよう。これからこの街でお前が生きていく上で
 儂の名前は十分役立てるはずだ。どうだ?」

 辛く――――しかし、嬉しかった。
 必要とされたことが嬉しかった。
 今までの人生の中で、誰かに請われることはなかったから。
 幼少期、父親代わりになってくれた職人は傍に置いてくれたが、彼にとって
 フェイルは必要な人間とは言えなかったとフェイル自身は思っている。
 その後の人生についても同様だ。
 師と仰いだデュランダルも、一方的に敵意を向けられたクトゥネシリカも、
 温かい目で見守ってくれたガラディーンも、同じ志で修練に励んでいた宮廷弓兵団の面々も、
 優しくはあったがフェイルを必要としている訳ではなかった。
 ここにいてもいい。
 でも、ここにいて欲しいとは言わない。
 当然だった。
 フェイルにそこまでの力はない。
 そこまでの求心力はないのだから。
 だから、請われることの意義は人一倍知っている。
 フェイルに選択肢はなかった。

「……わかりました」

 決して遠くはない、それでいて霧の中にあるかのように曖昧模糊な記憶。
 だが、そこに一つだけ確かなものがあるとすれば。

「そうか。協力してくれるか」

 ビューグラスが目を細めて微笑んだ時の、その表情。
 それは――――謁見の際に見かけたこの国の王の顔と、よく似ていた。


 悲しいほどに、よく似ていた。








 

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