ヴァレロン・サントラル医院、地下支部。
 要するに、このメトロ・ノームにおける施療院の役割を担う場所。
 ただし、地上に数多存在する施療院とは全く異なる外見をしている。
 数種類のくすんだレンガが細かく積み上げられ、優しい雰囲気を醸し出している
 その壁は別段珍しくはないが、まるで集合住宅のように規則正しく沢山の
 窓が並んでいる光景は、施療院というより医院、病院の規模であることを指している。
 建物の大きさも、施療院にしてはかなり大きい。
 そもそも、メトロ・ノームにこれだけの大きさの治療施設が必要かというと、
 住民の数、訪れる人数を考慮すれば到底肯定はできないだろう。
 ヴァレロン・サントラル医院の名前だけを貸している訳ではなく、
 病院の支部として機能させようという強い意図を感じる建築物だ。
 ここまで追ってきた人影がそこへ入っていったのを見届けたのち、フェイルたちは
 ヴァレロン・サントラル医院地下支部の前に立った。
「……どうするの?」
 フェイルの手を握ったまま、フランベルジュが不安げに問う。
「警戒は必須ですが……小細工できる状況でもありません。正面から堂々と
 入っていくしかないでしょう」
 フェイルの手を握ったまま、ファルシオンが淡々と答える。
 そのやり取り自体は特に反論すべき点がないが――――
「いつまで握ってるの」
 フェイルは呆れつつ、両人の手を同時に放した。
「取り敢えず、ファルの言うように正面から入ろう。二人とも、前後左右、
 上も含めて警戒を怠らないで」
「わかりました」
「じゃ、先頭は私に任せておいて。特攻隊長だから、私」
 フランベルジュが長い金髪を揺らし、扉の前に立つ。
 扉の形状は、教会によく見られるような上部のみ角が丸みを帯びたタイプで、
 かなり大きい両開き戸になっている。
 人が出入りする場合には、この扉ではなく扉の左側に入り込んでいる
 小さめの子扉を利用する。
 フランベルジュはその扉のノブを右手で取り、ゆっくりと押し込んだ。
 特に襲撃などの気配はない。
「行きましょう」
 ファルシオンの声に前方を見たまま頷き、フランベルジュは
 ヴァレロン・サントラル医院地下支部の中へと入っていった。
 一方、最後尾のフェイルは周囲の気配を探りながら、警戒を続ける。
 こちらも、何かが見張っているような様子はない。
「ファル。万が一、この扉が魔術で封じられた場合、解除できる?」
 そんなフェイルの問いに、すぐ前にいるファルシオンは暫く思案し――――
「扉を封印するのは制約系魔術と呼ばれる魔術ですね。それを解除するのは
 解約系魔術ですけど、私は……余り得意ではありません」
 制約系魔術で扉を封印された空間には、魔術による加護が発生する。
 その場合、例えば物理的に破壊したり、攻撃魔術で壊したりするのは困難。
 閉じ込められてしまうことになる。
「了解。万が一の場合を考えて、僕は扉の傍にいる」
 フェイルのその申し出は、怖気づいて中に入りたくないと
 とられかねない内容だったが、フランベルジュもファルシオンも迷いなく頷いた。
 弓矢を操るフェイルが扉の前から援護する形なら心強いし、
 何より扉の外から狙われるというリスクを背負っている。
 それを説明するまでもなく、二人はちゃんと理解していた。
 フェイルがこの状況で率先して選択するのは、最も厄介な役回りだと。
「わかった。ファル、貴女はいつものように、私の後ろね」
「はい」
 ファルシオンの首肯を見届け、フランベルジュは中へと入った。
 以前、令嬢失踪事件の解決時にここへと入った時に二人が見た光景と
 全く変化はなく、外同様かなり闇の濃い中、目の前にはいくつかの長椅子が
 並んだ待合室が辛うじて見えるのみ。
 受付と思われる場所に人はいない。
 そもそも、常駐している医者が存在しない。
 定期的にヴァレロン・サントラル医院から交代制で派遣する形をとっているという。
 前にフェイルが見たのは、ヴァレロン・サントラル医院の院長グロリア=プライマルの
 秘書を務めているファオ=リレーだった。
 普通に考えれば、追ってきた人影は病院関係者。
 ただ、ファオであれ他の病院関係者であれ、もし普通にこの施療院で
 働いている人間であれば、気配はそのまま、日常のまま発しているだろう。
 現在、この施療院に人間の気配は――――ない。
 フェイルたち以外は。
 つまり、意図的に気配を断っている。
 警戒を解くわけにはいかない。
 が、このまま警戒し続けていても仕方がない。
「誰かいない? ちょっと聞きたいことがあるんだけれど!」
 フランベルジュが意を決し、大声で奥に呼びかける。
 返事は、ない。
 いよいよキナ臭い状況になってきた。
「ったく、面倒なことになってきたったら……奥に行ってみる?」
 髪をすくい上げ、フランベルジュがそう吐き捨てた、その時。

「……え?」

 ――――フランベルジュの左耳の傍の髪が、フワッと宙を舞い、落ちる。

「な……」
 絶句するフランベルジュと、目の前を落ちていった金色の髪の束に
 呆然とするファルシオン。
 何が起こったのか、二人ともまるで気付いていなかった。
 無理もない。
 音すらしなかったのだから。
 ただ、髪が落とされるのと同時に、フランベルジュの左耳と頬に強い刺激が走る。
 攻撃されたのだと悟るのには十分な手がかりだった。
「フラン!」
「私は大丈夫……なんだけど……」
 自分が何をされたのかわからずに、フランベルジュは左の頬を左手で覆う。
 血は出ていない。
 耳も同様。
 鼓膜にも異常はない。
 ただ、ごく一部の髪だけを落とされた。
 これは――――
「フェイ……ル……?」
 信じられない、という顔でフランベルジュは振り向いた。
 扉の前にはフェイルの姿がある。
 それは先程、報告を受けたばかり。
 弓を構えている。
 それも、有事の際に矢を放つためには当然の構えだ。
 だが――――矢を番えていない。
 何故なら、既に放ったから。
 フランベルジュの左耳と頬を掠めるように。
 彼女を襲ったのは、フェイルの矢だった。
 余りにも迅く、反応どころか認識すらできない攻撃。
 フランベルジュの直ぐ近くにいたファルシオンも、全く感じ取ることができなかった。
「ごめん」
 フェイルは素直に謝罪した。
 フランベルジュに対し、矢を射たことを。
 心からの謝罪だった。
 何しろ――――
「緊急事態だったから、髪を落とす位置とわかってても射ずにはいられなかった」
「え?」
 そこでようやく、フランベルジュは理解した。
 慌てて再び前方に視線を送る。
 フェイルと、自分の左耳とを繋ぐ線の、その延長――――
「驚きました。今の速度……とても人間が放った矢とは思えない」
 先程まで誰もいなかったはずの空間、施療院に入って直ぐの所にある
 待合室の中央に、ぼんやり人間の輪郭と思しきものが立っていた。
 その右肩部分にはフェイルが放った矢が刺さっている。
 そこだけが、周囲の色と微かに濃度が異なっていた。
「何より、確実に虚をついたはずでしたが……」
 呟く言葉が示すのは、三つ。
 一つめは、女声であること。
 二つめは、彼女の服装
 先程まで追っていた人影の格好はしっかり把握できていなかったが、
 それでも現在のものとは異なっているというのはフェイルには認識できた。
 何故なら、色がまるっきり違うからだ。
 今の彼女を覆っているのは、全身黒づくめの服装。
 肌を露出した箇所が、顔を含め一つもない。
 その上、気配を断っているのだから、フランベルジュとファルシオンが
 目の前に彼女がいるのに気付かないのも無理はなかった。
「闇と同化してるからこそ、意味のある格好だからね。僕の左目には通用しない」
 右目を閉じながら、フェイルは弓を背負った。
「さて、早急に答えて欲しいんだけど……僕たちがずっと追ってきたのは
 貴女なのかな? ファオ=リレー」
 三つめ――――声に聞き覚えがあったこと。
 フェイルの名指しに対し、黒づくめの格好をした女性は――――
「……せっかく、瞬時に着替えてこんな小細工までしたのに」
 事実上の肯定と降伏を宣言し、膝を折った。
「仕方ありませんね。敗者には何も語る権利はありません。さあ、蹂躙なさい。
 でも私は何も話しません。決して、貴方がたに屈することはないでしょう」
「……一体、何の話ですか?」
 ようやく状況を飲み込めたファルシオンが、少し意地悪に返す。
 それは――――
「私達は別に、貴女の敵ではありません。こっそり後をつけてきたのは単に、
 私達こそ貴女を敵かもしれないと警戒していたからです。それだけです」
 自分達を勝手に敵と判断し、奇襲をしかけようとした相手に対する
 ちょっとした憂さ晴らしだった。
「敵じゃ……ない?」
 心底驚いたような声で、ファオは顔の部分に巻いていた布をずり下げ、
 丸い目を覗かせた。






 

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