間近で聞けば耳を劈くような音であっても、遠方であれば不快感は先に立たない。
 寧ろ、何があったのかという疑惑の念が先に立つ。
 そして今は、フランベルジュの安全が不安視されている状況。
 幸いにも、声は女性のものではなかったが――――
「行こう。ただし、余力は残して」
「はい」
 フランベルジュが関与している可能性はかなり高い。
 フェイルの呼びかけに応じ、ファルシオンは小走りで北へと進み行く。
 フェイルは併走しながら、周囲への警戒を行った。
 闇夜、しかも雨が気配を消す状況下においては、どれほど察知能力の高い人間でも
 そう易々と敵を感知することはできない。
 だが、フェイルには梟の目がある。
 特殊な視覚を活用すれば、闇に紛れていると油断した敵をいち早く
 察知することは可能だ。
 けれど、それは――――目がしっかりと見えていればの話。
「……」
 フェイルは顔をしかめ、左目の瞼を右手で覆った。
「どうしました?」
「いや……雨粒が目に入っただけ」
 そう答え、歯軋りをしつつ指の隙間から前方を睨む。

 ――――時間が、ない

 そんな危機感が支配する胸を左手で鷲掴みし、目を凝らしたその瞬間。
「……いる」
 梟の目に、動く何かが映った。
 雨に遮られた前方に見えるのは、真っ直ぐ伸びるアロンソ通りの舗装路と、
 その左右に立ち並ぶ建物の数々。
 その東側の建物の陰に、動く何かは消えていった。
 宿屋『カシュカシュ』はこの北東にある為、まだまだ見える位置にはない。
 しかし、絶叫の聞こえた方向に進み、この雨の中動く何かが見えた以上、
 フランベルジュとの関連性を考慮しない訳にはいかない。
「誰が……いたんですか?」
「わからない。ただ、僕達から隠れるっていうよりは、一連の行動の中で
 移動してるって動きだった。今はもう右側の建物の陰に隠れた」
 敵なのか無関係の人間なのか、そもそも人間なのか――――それすらわからない状況。
 警戒に越した事はないが、仮に先程の動く何かがフランベルジュを襲っているのだと
 すれば、慎重になり過ぎることでみすみす逃がしてしまうことになる。
 決断が迫られる場面だ。
「フェイルさん、追って下さい。私が後ろからフォローします」
 ファルシオンは即座にそう言い切った。
 それが、この状況下における最善策。
 フェイルにも異論はなく、小さく頷き駆け出す。
 雨に濡れ続ける舗装路は滑りやすくなっており、全力での疾走を妨げる。
 その場合は――――

『その場合は、前傾姿勢をとらず重心を高くして、歩幅を狭く』

 不意に、フェイルの頭の中に響く声。
 かつて師と仰いでいた人物の、冷たいようで優しく、でもやはり厳しい声。 
 その過去の言葉をどうすべきか――――迷うまでもない。
 今は複雑な心境だと憂う余裕などない。
 相手が誰で、何をして、今はどういう関係性なのか、などと考えているゆとりはない。
 全てを利用し、最善策でフランベルジュの危険を取り除くべき。
 フェイルは僅かに生じた葛藤を棄て、頭の位置を上げた。
 バランスを重視した走り方。
 同時に、視界が広がることで、探索にも向いている。
 あとは、先程見た動く何かの正体を見極めるだけ。
 それが消えていった右側の建物の隙間、路地の方へと曲がると――――
「……」
 そこには、何もない。
 建物の壁に挟まれた狭い空間には、割れた酒瓶と脚の折れた椅子が
 放置されているのみ。
 極端に雨脚が弱まっている中、フェイルはその先へ向かおうと前進を――――
「上!」
 する『フリ』をしていたところに、背後からファルシオンの短く的確な声が届いた。
 的確過ぎたのが災いしたが、それは仕方がないこと。
 ファルシオンが優秀だったために起こった事故だ。
 細い路地に追い込んだ相手が消えた場合、最も警戒する必要があるのは、
 視界の遥か上。
 両側の建物の壁に捕まり、上り下りすることができるからだ。
 雨脚が弱まって見えたのは、頭上に雨を遮る『何か』がいるから。
 ならば、気付いていないフリをして、襲ってきたところを躱し、返り討ち――――
 そんな作戦が瓦解したが、気に留める必要はない。
 一から練り直せばいいだけ。
 ただ――――
「……?」
 天からの奇襲はない。
 フェイルが上を見たその時、フェイルへではなくその前方、東側へ延びる路地へ
 向かい飛び降りている人影が微かに見えた。
 視線を下ろすと、既に人影は前方の路地を失踪している。
 対峙しようとする意識は全く見られず、後ろ姿では性別の判断は困難。
 少なくとも、フランベルジュではない。
 ファルシオンに見破られたからなのか、元々戦闘の意思はなく、
 寧ろフェイルを敵とみなし接触を回避しようとしているのか――――
「追おう」
 考えている暇はないと判断し、フェイルは歩を進めた。
 後ろのファルシオンもそれに続く。
 息を切らしながらも、必死でついてくるその気配を背中に感じながら、
 フェイルは路地を抜け――――やがて広い舗装路へと出た。
 右側、南部にはカメイン家の屋敷が、左側の北部には香水店【パルファン】
 の立て看板が見える。
 ここから更に東へ抜ければ、ヴァレロン・サントラル医院だ。
 人影は――――どこにも見当たらない。
 建物は前方、左右どこにでもあるが、扉は全て閉じられている。
 路地への入り口も前方にはなく、隠れる場所は限られている状態。
 宿屋『カシュカシュ』はここから更に北東。
 どうすべきか――――そんな決断の連続が迫られる。
「ファル。パルファンの看板を魔術で撃って!」
「……わかりました」
 あえて声を張り上げたフェイルの意図に気づき、ファルシオンは
 直ぐにルーリングを開始した。
 看板の陰に隠れていれば、今のフェイルの声で逃げるにしろ
 諦めるにしろ、出てくるはず。
 別の場所で身を潜めているなら、二人の意識が看板に向いている今が絶好の襲撃機会。
 隙を作れば姿を見せる可能性が高い。
 もし出てこないのなら、もうここにはいないだろう。
 果たして――――
「どうかお待ち下さいませ」
 看板の陰から、そんな声と共に何者かが姿を現してきた。
 フェイルの梟の目には、闇夜であってもハッキリとその姿が映る。
 見覚えのある顔だった。
「確か、ウエストの……」
「諜報ギルド【ウエスト】ヴァレロン支部のソーテックでございます」
 以前、エル・バタラ本戦前のセレモニーが行われた時に
 フェイルを地下の控え室へ案内した人物。
 そこで、フェイルは大量の血痕を目にした。
 それは、クラウ=ソラスの死を想起させる現場だった。
 だが彼は生きている。
 今どこで何をしているのかは不明だが――――
「そのソーテックさんが、どういう理由でこの雨の中、外に?」
「既におわかりかと存じますが、現在このヴァレロンには異変が起こっております。
 諜報ギルドの人間であるならば、情報収集は必然の行動でございます。
 先刻は襲撃される可能性もあり、逃走を試みたのです」
「……」
 フェイル達だと気付かなかったかもしれないし、仮に気付いたとしても
 フェイル達が襲撃しないという保証はない。
 そこに矛盾はない。
 だが、異質な状況下において、ギルドに属する人物が単独で動くとは考え難い。
 まして、情報を扱うギルドとなれば、何も知らずにいると考えるのが不自然。
 何かを知っている――――そう判断すべきだ。
「ソーテックさん、多くは問わない。この状況について話せる範囲の情報と、
 フランベルジュ=ルーメイアという金髪の女性剣士を見かけなかったか、
 その二点だけ欲しい」
 そう告げ、新商品【ナタル】によって得た売り上げの一部を入れた
 革袋をそのまま投げる。
「申し訳ございません。前者は機密事項でございます。後者のみ取り扱い致します」
 その袋を受け取ったソーテックは、中身の確認もせずに懐へしまった。
 そんな彼を見るファルシオンの目が、怯えを帯びる。
 心臓が跳ね上がったことが容易に想像できる、そんな目だった。

 ――――そして。

「フランベルジュ=ルーメイアさんに関しましては、確認済みでございます。
 先程、彼女への襲撃が敢行されました。その際に――――」
 その瞬間、声は途切れた。







 

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