雨中の闇夜を沈黙のままに歩く二人は、一度もお互いの姿を目に入れないまま、
 ただ黙々とアロンソ通りの広い舗装路を歩く。
 フェイルの背には、愛用の弓と矢筒。
 できることなら、雨に打たれるべきではない。
 弓は樹脂で舗装しているので、ある程度は水分の吸収を抑えることができるものの、
 ほんの小さな変形が感覚を大きく狂わせてしまうため、出来る限り
 品質管理を徹底したい武器だ。
 けれど、今はもうそんな次元で物事を語れる状況にない。
 今すぐにでも、誰かが襲ってくる可能性がある。
 それほどに切迫した空気が、ヴァレロン新市街地には充満して――――
「……」
 ふと、フェイルは立ち止まった。
 その様子に三歩ほど歩いたのち気付いたファルシオンが、雨に濡れた前髪を
 右手で掻き上げながら振り向き、見つめる。
「どうしました?」
「ファル……ここに来るまでに、誰かに尾けられたりしなかった?」
 そのフェイルの言葉に、ファルシオンは一瞬にして身を強張らせた。
「誰かいるんですか? この近くに……」
「いや、違うんだ。見張られてるとか、そういうことじゃない」
 事実、フェイルがそう感知したなら、既に弓を手にしている。
 立ち止まったのは、先程までずっと心の中に留めていたファルシオンへの疑念を
 敢えて口にするため。
 彼女を信じると決めた今、問い詰める必要はない。
 だが、話を聞く必要はあった。
「勇者計画が、勇者を貶めるための計画なら、当然勇者のリオだけじゃなく、
 一行全員が邪魔になる。放置しておくとは思えない」
「……ですね。私やフランが国王に楯突いたり、リオの潔白を訴えたところで
 意味があるとは思えませんが、反国王派や他国の権力者が私たち元勇者一行を
 担ぎ上げる可能性は憂慮するでしょう」
「うん。だから、始末する。普通なら」
 なのに――――ファルシオンは無事薬草店【ノート】までやって来た。
 これが、フェイルが先程まで抱いていた疑念の正体だ。
 もしファルシオンがアルベロア王子の命に従って勇者計画の仕上げを
 行おうとしているのなら、彼女を襲う刺客など存在する筈もない。
 けれど、聡明なファルシオンであればフェイルのその疑念に気付かない筈がない。
『そういえば、来る途中に襲われそうになったが、どうにか逃げてきた』と言えば
 それで済む話だ。
 フェイルには確認しようがないのだから。
 しかしながら、ファルシオンはそうは言わなかった。
 ファルシオンは――――白。
 けれど、フェイルはそれを確認したい訳ではなかった。
 既に信じているのだから。
 確認しなければならないのは――――
「君らが泊まっていた宿が襲われてるかもしれない」
 その可能性だ。
 傷心中の勇者一行を、その日の夜の内に襲撃し、始末する。
 襲撃する場所は当然、泊まっている宿屋『カシュカシュ』。
 だから襲撃前に宿を出たファルシオンには被害は及んでいない。
 そう考えると、現状の辻褄が合う。
 逆に言えば――――フランベルジュの身に危険が迫っている可能性が高い。
「……!」
 それに気付いたファルシオンは、微かに瞼を上げ目を見開いた。
「迂闊……でした。どうしてそんな、明らかな留意すべきことを……!」
 歯痒そうな物言いで、ファルシオンは駆け出す。
 彼女の体力からして、ここで走ったところで宿まで持つはずがないが、
 その判断ができないほど、頭に血が上っている。
「待って!」
 そう叫ぶまでもなく、直ぐにファルシオンの速度は落ちていった。
 追いついていくその背中は、本来徐々に大きくなっていくはずなのだが、
 フェイルの目には次第に小さくなっていくように映る。
 そして――――不意に、視界から消えた。
「……」
 パシャン、という音と共に、その場に座り込んでしまった。
「……ファル」
 心中を察し声を掛けたフェイルを、ファルシオンは見上げる。
 フェイルは、思わず自分の目を疑った。
 あれほど――――何があっても表情を変えずにきた、あのファルシオンが。
 常に冷静沈着、常に深淵を覗くような目に物事を映し出してきた、あの
 銀髪の魔術士が。
「……」
 声もあげず、顔をクシャクシャにして、涙を流していた。
 それは、余りにも唐突に訪れた崩壊だったのかも知れない。
 ずっと張り詰めていた糸が、どんなことがあっても耐えてきた強い強い糸が、
 ついに切れてしまった――――そんな顔だった。
「どうすれば……」
 それは、フェイルに向けられた言葉ではなかった。
 虚空へ向かって、ファルシオンは声を出す。
「私は……一体どうすればいいんですか?」
 悲痛な感情を吐露する。
「リオがいなくなって、フランまでいなくなったら、私は……」
 完全に――――ひとりぼっち。
 震える自分の身体を抱くようにして俯くファルシオンの姿が、そう語っていた。
 フェイルはファルシオンの抱えている孤独を知らない。
 慰めるべき言葉も。
 フェイルにもかつて、仲間がいた。
 宮廷弓兵団の面々だ。
 共に旅をした訳ではないし、楽しい時間を過ごせたのは僅かだったかもしれない。
 それでも、彼らが仲間だったと言えるのは、弓矢を愛する心を共有していたからだ。
 フェイルは彼らを失ったわけではない。
 宮廷弓兵団がなくなった今、どこか別の場所で何かで生計を立てて生きているのだろう。
 そう思うだけで、遠い日を懐かしむことができる。
 だが――――失ってしまっては、繋がりを感じることもできない。
 或いは、年月が経てばできるようになるかもしれない。
 でも、今まさに失ったばかり、そしてもしかしたらまた失ったかもと
 絶望している女の子の心を推し測ることは、フェイルには到底できない。
「私は……何を寄る辺とすればいいんですか?」
 できないのなら――――
「甘えるな」
 フェイルが選択したのは、叱咤だった。
「君はさっき言ったよね。勇者の名誉は、私達の名誉そのものだって。
 私達が守らなくて、誰が守るんだって。だったら、今は甘えるな」
 小粒となった雨が、ファルシオンの涙を流し落とし、そこに涙とは
 違う別の雫をもたらす。
 フェイルはその顔に、手を差し伸べることはしなかった。
「フランが襲われたとは限らないし、襲われたとしても、彼女なら乗り切ったかもしれない。
 フランが生きている可能性を君が信じてやらなくてどうするんだ」
「それ……は」
「立て!」
 咆哮――――ファルシオンは思わず肩をビクッと震わせた。
「走る必要はない。でも、進まなくちゃ確認もできない。今、君が寄る辺と
 すべきなのは、願望でも絶望でもなくて、自分の目と耳と頭だ。
 その目で真実を見て、聞いて、最善策を練る。それしかないだろ」
「……厳しいんですね。フェイルさんは」
 フェイルの叱咤を一通り聞いたファルシオンは、自力で立ち上がった。
 もう、表情はいつも通り。
 フェイルは心の底から、この少女の芯の強さを尊敬した。
「フランに対してもそうでしたけど……将来、鬼教官になれますね」
「ガラじゃないよ。そもそも、何を教えるのさ」
「生きる道を。貴方の子供に……というのは、如何ですか?」
「それって……いいお婿さんになれますよ、って言ってるの?」
 思わず半眼で呟いたフェイルに対し――――
「さあ、どうでしょう」
 ファルシオンは、笑顔を見せた。
 それも、初めてのことだった。
 何のことはない、ごく普通の、誰もが見せる笑顔と全く変わりのない、
 目を細め口角を上げるだけの表情だった。
「……甘えるのは、らしくありませんでしたね」
 だが直ぐに、真顔に戻る。
 その目は最早、先程まで涙を溜めていた少女のものではない。
 かといって――――以前までのものとも少し違う。
 そこには、隠さない意思が淡い光となって宿っていた。
 刹那――――
「あああああああ……!」
 遥か前方より、雨音を切り裂くような絶叫が響きわたった。

 








 

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