フェイル=ノートの生まれた村――――ジェラール村に悲劇が訪れたのは、
 もう15年以上も前の出来事だった。
 伝染病の流行。
 しかも、ジェラール村でこれまで見たこともない症状を引き起こす、未知の病気だった。
 症状は多岐に亘り、地獄の頭痛に見舞われる者、皮膚がケロイド状に腐る者、
 全身が発火したかのように火照る者、背骨が極端に曲がる者――――
 類縁の病気を特定することすら困難だった。
 原因は不明。
 余所の土地から誰かが貰ってきた流行病だと思われていたが、
 その後の調査隊の検査によると、周囲の村で同様の病気が流行したという
 事実はなく、また病気自体既存のものではなかったことから、
 ジェラール村で発生した病気だという結論が下された。
 だが、この凄惨な出来事が公になることはなかった。
 数少ない生き残りの者たちに『忌むべき村の出身』という不利益な
 冠を与えることはない、という配慮に基づいてのことだった。

 その数年後――――人口が5分の1以下になりながらもかろうじて存続した
 ジェラール村を、一人の男性が訪れた。
 男は狩人だったが、負傷によって右目の視力を殆ど失い、転職を考えていた。
 弓矢に一生を捧げた男が次に選んだ道は、その弓矢を作る職人。
 ジェラール村では良質の木材が取れると聞き及び、木製の弓矢を作り
 腕を磨こうと考えやって来た。
 男は村のはずれに小さい小屋を作り、そこで生活を始めた。
 山へ籠り、木を切り倒し、木材にしてそれを材料に弓矢を作る。
 ただ、弓の弦は馬の尾の毛で作る為、馬を飼っている村民と交渉をする必要がある。
 つまり、村人と接する必要がある。
 男は口下手で、寡黙だった。
 社交性に乏しく、人を楽しませることは苦手だった。
 しかし、暫くこの村で生きると決めた以上、苦手だからとは言っていられない。
 人は一人で生まれ、一人で死んでいく生き物。
 しかし、その刹那と刹那の間にある何十年もの間は、誰かと共にあって
 はじめて意味を成す。
 男は人生経験の中でそれを悟っていた。
 だから、慣れない挨拶をぎこちなくも進んで行う事から始めた。
 馬の尾の毛を調達するための手段であることは確かだが、それ以上に
 第二の人生を実りあるものにしたい、という強い意思があった。
 心ならずも狩人という職を失ったことで、そうしなければ生きる気力を
 根こそぎ失ってしまうという恐怖感もあった。
 彼は必死の思いで村に馴染もうとした。
 だが、村人達は素っ気なかった。
 伝染病の事件から間もないということを男は知らなかった。
 村の人口が以前の5分の1以下になっていることも。
 だから、小さい村で余所者の自分が歓迎されていないと思い込んでしまった。
 それは決して珍しいことではなかったからだ。
 男はどうすべきか迷ったが、自分にできることは一つしかないと思い立ち、
 狩りで獲物を捕まえ、それを村人に分けることにした。
 食糧を調達すれば、自然と人は集まる。
 そうすれば、質のいい馬の尾の毛を貰え、より質のいい弓が作れる。
 だが問題は、片目の視力が極度に弱まり、遠近感を失っている状態で
 狩りができるか、という点だ。
 このジェラール村の北部には狩りにはおあつらえ向きの森があるが、
 そこにどのような動物が棲んでいるのかは男にはわからない。
 村人に聞こうにも、それが出来る雰囲気ではない。
 男は覚悟を決めた。
 生きる為――――実りある人生にする為、森へと潜った。
 森は広大で、奥に進むにつれて不穏な空気が漂ってきた。
 男の狩人としての腕は一流。
 空気だけで、ある程度そこが危険か否かがわかる。
 だが、男は奥へと進んだ。
 野ウサギやシカのような、クセが弱く食べやすい肉が好ましい。
 しかしそういった獲物には中々巡り会えない。
 狩人である男は、その理由を理解していた。
 天敵がいるからだ。
 ウサギやシカを食糧とする生物が、森にいるからだ。
 そう確信した男は、目的を変更した。
 その『森の主』を仕留めれば、村人達から一目置かれる。
 その方が手っ取り早いし、何より自分らしい。
 男の弓を握る手に力がこもった。
 だが、それは誤った判断だった。
 一流の狩人は本来、誰より危険に敏感だ。
 自分の力量を正確に把握し、その力量を超える難易度の狩りはしない。
 それが、生き残る為の最良のスタンスだと心得ているからだ。
 男も当然、そういう意識を強く持っていた。
 だが第二の人生を歩む上で、その習性を脱したいという思いもあった。
 何より――――まだ自分は狩人として一流だと、誰かに認めて欲しかった。
 怪我で視力を失い、惨めに辞めて逃げるように別の職に就く。
 そんな自分でいたくなかった。
 だから男は逸った行動に出てしまった。
 周囲が薄暗くなるまで前に歩き続けてしまった。
 時間の感覚を忘れてしまった。
 一流の狩人にはあり得ない行動。
 自分自身への失望と周囲の空気――――特に虫の鳴き声すら聞こえない状況に
 緊張を覚え、慎重に引き返す。
 しかし、こういった失態に森の主は敏感だった。
 弱気になっている元狩人。
 獲物としては最適だと判断したのだろう。
 それは、男の目の前に現れた。
 男の倍近い身長の――――熊。
 灰色の体毛が逆立ちそうなほどの、強烈な殺意を向けてくる。
 人里離れた場所に棲む熊は、夜行性ではない。
 だが、数多の獣の血を染みつかせた男の身体を、熊は見逃してくれなかったようだ。
 男は生唾を飲み込みながら、震える手で矢筒から矢を手に取る。
 とても一撃でどうにかなる相手ではない。
 そして、一撃で仕留められなければそのまま突進され、人生は終焉。
 野生の熊、それも超大型の熊は、人間の身体をいとも容易く引き裂ける力を持つ。
 同時に、一度狙った獲物をどこまでも追い続ける執念深さも持っている。
 男は――――観念した。
 知識がありすぎるだけに、そうせざるを得なかった、
 背を向けて逃げれば、ジェラール村にまでこの熊はやって来る。
 それが最悪であることは言うまでもない。
 なら、ここで満足させるしかない。
 すなわち、自分の死。
 でもただでは死なない。
 自分が人生を賭け、鍛えに鍛えた技術で、目玉の一つでも道連れにする。
 男は先程の覚悟に、捨て身を上乗せした。
 人生の最期としては、中々の舞台だと満足して。
 男は震える手で矢をつがえ、狙いを定める。
 当然上手くいくはずはない。
 震えているのだから。
 このような状況で放つ矢が、人生最後の一射――――それは狩人として
 これまでの人生の大半を過ごしてきた男にとっては、余りにも空しい。
 男は観念し、弓矢を下ろす。
 それもまた、一つの覚悟。
 気高き死を――――
 いや。
 まだ死ねない。
 しかし状況は延命を許さない。
 それでも死ねない。
 やりたいことなどない。
 狩人という職を失い、無理にこじつけて第二の人生を歩むに過ぎない。
 それでも生き甲斐があるかもしれない。
 そんな――――生への執着と現実の限界が脳裏を回る。
 男は我を失った。
 どれだけ狩人としての道を極めたとしても、いざ人生の終焉を自覚したら
 人間はここまで弱くなれるものなのか。
 そう絶望し、自我を崩壊させた。
 野生の熊は、本能で獲物が弱っているのを感じたのか、殺気がいよいよ漲っていく。
 ここまで――――
「……こっち」
 その小さくか細い声を極限状態で拾えたのは、狩人として鍛えた聴覚の手柄だった。
 声は、男の左――――熊の右の方から聞こえて来た。
 男が歩いてきた道とも、引き返していた道とも違う方向。
「走って……こっちに向かって」
 声は少年のものと思しきもの。
 その指示に従うのは危険極まりないと判断せざるを得なかった。
 熊は走って逃げる相手を追う習性がある。
 死んだフリをすれば回避できるという迷信は、その習性の真逆を指す意味で
 普及したものと考えられているが、何にせよ走るのはマズい。
 既に敵意全開の巨大熊を相手に背を向ければ、たちまち惨殺される。
「……死にたいの?」
 その声は、まるで場にそぐわない、本当に少年ならではの純粋な疑問。
 不思議に思う余り力の抜けた声だった。
 刹那、男は声の指示に従い、全力で駆け出す。
 勘ではない。
 声のまるで『助かって当然』、『死ぬことのほうがあり得ない』という
 語調に賭けた。
 巨大熊は――――
「……」
 追ってこなかった。
 結果的に、男は命を落とすことなく森を脱出することに成功した。
 後々わかったことだが、少年の声が指示した方向は、森に詳しい村人に
『蛇の道』と呼ばれている、大蛇が巣くう区域だった。
 熊は蛇を嫌うため、追ってこなかった。
 男がその蛇の道を去り、熊も森の奥へと戻って行った直後――――
「……おかしな大人」
 森の木の一つから、スルスルと少年が降りてくる。
 まだあどけなさの残るその顔立ちとは対照的に、目は冷ややか。
 そしてその左目は、夜間でありながら森の様子を色鮮やかに映していた。
 この少年は、ごく普通の幼子だった。
 少なくとも、人とは違う特別な何かを持って生まれた訳ではない。
 だが、数年前の事件を境に、二つの特別が生まれた。
 一つは、両親のいない孤児となったこと。
 もう一つは、両眼に特異な力が宿ったこと。
 遥か彼方、遠くを見渡せる右目。
 暗闇であっても、視界を確保できる左目。
 まるで鷹と梟の目だと、周囲の大人たちは少年の存在そのものを不気味に思い、
 彼に関わることを極力避けるようになった。
 そんな環境で少年は、少し捻くれた性格に育った。
 だが同時に、壮絶な命の消失と救済を幼い身で目撃した体験からか、
 命に対する意識は人一倍強く持つようになっていた。
 無謀にも巨大熊や大蛇の棲む森へ、余所者の大人が向かう姿を
 遠くから見ていた彼がその後を追い、梟の目で逃げるべき道を確かめ
 示唆したのも、命は助けるべきものという強い信念があったからだった。
「明日、助けたお礼に食べ物をもらおう」
 そう呟きながら、少年は森を抜けて一人住む家へと帰る。

 それが――――フェイルとその育ての親との出会いだった。

 



「流行病の影響で孤児が増えたジェラール村は、近隣の街や村の力を借りて孤児院を作った。
 僕もそこで育てられる予定だった。でも、この目の特異性を不気味がられて
 半ばのけ者にされてて、孤立してたんだ」
 フェイルは中庭に寝転がり、星空を眺めながら過去を語る。
 流行病の頃はまだ幼く、記憶は殆どない為、鷹の目、梟の目の宿った時期などは
 伝聞でしかないが、それを聞かせてくれた大人たちの顔と、引き取りを拒んだ
 親戚の口実はははっきりと覚えていた。
「忌み子を家に入れるなんてできるか……そう言われたよ」
 苦笑するフェイルの言葉を、リオグランテは黙って聞いていた。
 同じように地面に寝転がり、相槌を打つ意識すら忘れるほど集中して。
「そんな僕に興味を持って、育ての親になってくれたのが、余所者の職人だったんだ。
 あの人を助けたのは、幼心に共感があったのかもしれない。孤立していた
 あの人に、自分の現状を重ね合わせたんだと思う。多分だけど」
 処世術と言えるほど、器用な助け方でもなかった。
 ただ、今にして思えば――――
「限界だったのかもしれない。一人でいる事が」
 数多の星を見上げながら、フェイルは力なく苦笑した。






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