不穏な空気というのはある種、心の状態が外部へ反映したもの。
 心の変容が五感に影響を与え、見るモノや感じるモノを異質にしてしまう。
 これまでの経験から、フェイルはそんな持論を持っていた。
 実際、今もそうだ。
 地上とメトロ・ノームの繋ぐ階段を上り終え、シュロスベリー家の
 屋敷に着いた瞬間、フェイルは周囲の空気に異質なものを感じていた。
 だが、空気が変容している訳ではない。
 気温も数日前とほとんど変化はないはずだった。
 だが――――寒気がする。
 通常の肌寒さとも、悪寒とも違う種類の寒気。
 体内と体外の境界の部分がジンとするような、奇妙な感覚だ。
「……」
 フェイルはそんな空気を払拭するように駆け出し、一階の西棟にある
 アニスの部屋へ向かった。
 もしかしたら、そこには以前消え失せていたハイトの遺体があるかもしれない。
 しかし、そんな思いとは裏腹に、以前と何ら変わりはなかった。
 血痕はくっきりと残っている。
 ここであった出来事が夢や幻ではないことの証明。
 しかし、証拠たる遺体は依然として所在不明のままだ。
 とはいえ、ここ数日地上にいなかったフェイルがその後の進展を知る筈もない。
 もしかしたら、すでにハイトは見つかっているのかもしれない。
 犯人がアニスだと知っているのは本人とフェイルだけなので、
 アニスに官憲の手が伸びる可能性はないし、ヴァレロン・サントラル医院に
 入院しているため身の安全は保証されている。
 この件に関しては、後回しにしても良い状況と言える。
 フェイルは直ぐにシュロスベリー家を出て、空を仰いだ。
 地下と同じく、既に夜。
 だが地下の夜と地上の夜はやはり大きく異なり、星空はいつものように
 神秘的な輝きを地上へもたらしている。
 この空を、アルマが見たらどう思うだろうか――――喜び興奮するだろうか。
 フェイルは暫くそんなことを考えたのち、自宅へ向けて走り出した。


「……?」
 久々に目にした自宅――――薬草店ノートの店内には、あかりが灯っている。
 違和感があった。
 現在、ここはファルシオンに任せているが、彼女は別の宿に泊まっている。
 夜間には人はいないはずだった。
 奇妙な感覚が、全身に微かな痺れをもたらす。
 これも、心の反映。
 警戒心を現した現象だ。
 危害を加えるような相手が、わざわざ夜間にあかりを点けてまで
 店内に留まっているとは考え難いが、用心に越した事はない。
 まずは深く呼吸。
 同時に、微かな笑みがこぼれた。
 ここ最近、常に緊張と不安はあった。
 闘いも数度勃発した。
 だが、今この瞬間味わっている感覚は、それらとは一線を画している。
 これは――――暗殺まがいの行為をしていた頃の意識。
 自分の神経がみるみるうちに内部へと染み込んでいくような、そんな意識だ。
 染み込んだ神経は、無数の線を描いて全身へと張り巡らされ、感覚が
 研ぎ澄まされていく。
 敵が――――いる。
 この中に、撃つべき相手がいる。
 フェイルは確信した。
 頭ではなく、身体が反応したのだから、疑いようがない。
 フェイルは自分の頭脳より、無意識の身体反応を信じていた。
 店内にいる何者かの気配は、昂ぶっている一方で外部へ解き放つような
 攻撃性は感じられない。
 こちらに気づいている様子はない。
 そして、この店は自分の店。
 フェイルは最大級の警戒をしながらも、遠慮なく入り口の扉を開いた。
 鍵はかかっていない。
 注意深いファルシオンが鍵をかけ忘れる可能性は限りなく低い。
 つまり中にいるのは、鍵を開けられる人物。

『針金でチョイチョイっと! 得意分野です!』

 そういえば、そんなこともあったな――――フェイルは過去を懐かしみながら、
 開けた扉を静かに閉めた。
「無断侵入はするな、って言ってたはずだけど?」
 店内にいる人間に向けて、そう言い放ちながら。
 テーブルに置かれたカンテラの傍にいたその人物は、驚いた表情を浮かべて
 いたが、すぐにクスッと笑い出す。
「でも、店員の務めですから」
 そして『あの時』と同じような返事をした。
 だが――――顔はまるで別人。
 あれから、大した時間は経っていないのだが。
「ここは集中できるんです。最初にここを訪れた時から、親しみを感じてたんですよ」
「ま、あんな惨状を巻き起こせば緊張感はなくなるよね」
「反省してます。でも、もうすぐ全額支払えますから。病院と提携して
 その必要はなくなったみたいですけど、僕の気持ちが収まりませんから」
「……本当に、変わったよね」
 どこか大人びたその顔を、フェイルは寂しげに眺めていた。
 隣国デ・ラ・ペーニャへ親書を届けるための旅をしている、勇者候補――――
「そうですか? 自分ではよくわかりませんけど……」

 ――――リオグランテ。

 売り場の椅子に腰かけ、上体だけをフェイルへ向ける姿は、風格すら漂っていた。
 明日、エル・バタラ決勝を控えることも関係しているのだろう。
 そこに漲るのは、確かな自信と余裕。
 以前のリオグランテとは全く縁のないモノばかりだ。
「お久しぶりです、フェイルさん。お店借りてます」
「明日、決勝なんだよね。いいの? こんな所にいて。宿で休んだ方がいいんじゃ?」
「疲れてないんです。試合なかったですから」
 そう。
 エル・バタラ準決勝は二試合とも不戦勝に終わるという、前代未聞の出来事が
 地上では起こっていた。
 その内、リオグランテと闘う予定だったハイトは、既にこの世にはいない。
 デュランダルと対決するはずのバルムンクも、地下に取り残されたまま。
 当然、それらの事情を大会関係者が話すはずもなく、両試合の不戦勝は
 理由を語らずに伝えられた。
「スゴかったんですよ、昨日は。闘技場中が大騒ぎになって」
「そうだよね。いくらなんでも不戦勝が多すぎる」
「ええ。でも、デュランダルさん……でしたっけ。あの人が一喝したら、
 ピタって収まったんです。信じられます? あれだけの人数を一人の人間が
 言葉だけで鎮圧するなんて。僕、身震いしました」
 デュランダルがその場で何を言い放ったのか、そしてその言葉は誰かが用意したもの
 なのか、それとも本人の言葉なのか――――フェイルには知る術はない。
 だが、理不尽な大会状況に暴徒となった観客を鎮めたのは、紛れもなく
 デュランダル本人の持つ胆力。
 それと明日、対峙するリオグランテには、言葉ほどの気後れはない。
 フェイルは驚きというより、圧倒的な違和感を覚えた。
「……怖くないの? リオ」
「決勝の相手が、ですか? 怖いですよ。あの人、とんでもなく強いですから
 でも不思議ですよね。怖いって思っても、普通怖いって思った時に
 感じるような逃げたいとかイヤだとかいう感じ、ないんですよ」
 淡々と――――しかし明らかに昂ぶっているような口調で、
 リオグランテは捲し立てた。
 言葉遣いは変わらないが、明らかに普段のリオグランテより早口だ。
「フェイルさん。もしかして、僕を応援する為に戻ってきてくれたんですか?
 ずっと店開けてたんですよね? ファルやフランが心配してましたよ」
「……そうだね。試合は見てみたい気がする」
 そう告げながら、フェイルは店の奥へと向かった。
 リオグランテは特に席を立つ素振りは見せなかったが、ずっとフェイルを
 目で追っていた。
「僕が勝てるって思います?」
 そして、問う。
 フェイルは即答はせず、自室へと入った。
「普通に考えたら、勝てませんよね。相手はこの国で一番強い騎士ですから」
 売り場からそれほど距離は離れていないので、声は届く。
「でも、僕は勝てる気がするんです。何でかはわからないんですけど、
 自信があるんですよ。できれば昨日、試合をして自信を深めたかったんですけど。
 その前の試合……準々決勝が、手負いの相手でつまらなかったし、一回戦も
 アロンソさんだったから全力出せなかったんですよね。だから、僕この大会で
 一回も全力で闘ってないんです。それって結構不利ですよね。それなのに
 勝てるって気持ちが止まらないんですよ。僕、変になっちゃってるのかも」
 フェイルは自室で、明らかに興奮状態に陥っているリオグランテの
 言葉を黙って聞いていた。
 発言の内容と様子から、リオグランテが勇者計画とやらに荷担しているようには
 見受けられない。
 だが、今はここへきた目的であるそのことすら、どうでもよかった。
「でも、どうせならフランが勝ち上がってくれればよかったのになあ。
 そしたら、準々決勝で闘えたのに。今後のことを考えると、こういう大会で
 一度白黒ハッキリさせたかったんですよ。フラン、ああいう性格でしょ?
 なかなか認めないと思うんですよ。僕のほうが強くなったって。
 でも、さすがに仲間と大会以外で闘うのは非常識ですよね? あ、でも
 大会が終わってから、稽古がてら練習試合みたいに戦るのはアリかなあ?
 やっぱり、女の人には一度ガツンってやっておかないとダメだと思うし。
 フェイルさんはどう思います?」
 更に早口になっているリオグランテに対し、フェイルはゆっくりと
 自室から出てきた。
 
 ――――その手に愛用のライトボウを持って。

 先日購入したばかりの弓とは、手への馴染み方がまるで違う。
 この弓は、王宮時代に元々の愛用品をデュランダルからダメにされた
 次の日に注文したもの。
 材質や大きさなど、すべてフェイルの希望通りにしてもらった。
 当然、それを許可したのはデュランダルだ。
 この弓は、師匠との思い出の品でもあった。
 一度壁に掛け、もう手に取ることはないと思っていた、過去の遺産。
 それを手にした瞬間――――フェイルの身体は、先程神経を張り巡らせた際の
 比ではないほど、急激に集中力を増していった。
「フェイルさん?」
 戻ってきたフェイルの様子に気づき、リオグランテが立ち上がる。
 フェイルは気にも留めず、ツカツカと歩み寄った。
「リオ。君が変わった理由は僕にはわからない。大会を勝ち進んでいく間に
 成長したからなのか、慢心したからなのか、大会の熱に当てられて興奮しているのか。
 それとも……他に何か理由があるのか」
「一応、僕は成長したって思ってます。自分でも自分が強くなってる自覚はありますから。
 それに、エル・バタラに決勝まで残ってるのは、特別な何かがあるんじゃないかって
 思うんですよ。運って言われればそれまでですけど。だから明日は運だけじゃないって
 観客の人達にわかってもらえる試合をしたいんです」
「言ってる事は正しいと思うよ。立派にさえ思う。それだけなら、成長したねって
 素直に称賛できるんだけど……」
 今のリオグランテは――――フランベルジュを見下している。
 軽視している。
 或いは、嘲笑っている。
 自分が軽々と越えていった壁の低さを。
 それがリオグランテの本質――――フェイルはそう思いたくなかった。
 確かめる必要がある。
「今の君は称賛できない」
「……どうしてですか?」
 リオグランテも、フェイルの感情を読み取っていた。
 それまでの顔つきから一変し、笑顔を消している。
「君の強さがどういう種類のものなのかを知らない限りは、すごいって言ってやれない」
 ふと、フェイルの頭にクラウ=ソラスの姿が浮かぶ。
 あの種類の強さだとしたら――――
「狭い所と広い所、どっちが得意?」
「え?」
 止めなければならない。
 今、ここで。
 デュランダルと闘う前に。
『何か』が起こると言われている、その『何か』が起こる前に。
「勇者リオグランテ。闘い足りないのなら、いい案がある」
 王宮経験者ならではの毅然とした佇まいで――――フェイルは告げた。
「僕と闘え」







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