「くぁ……」
 欠伸を噛み殺しながら、フェイルは王宮から身一つで飛び出した旅路の終着点を
 目の前に、しばらく感慨に耽ける――――事なく、足早に街中へと入っていった。
 路銀はとうに尽きており、ここ一週間は野宿の連続。
 ようやく目的地に着いた達成感より、とにかくベッドで寝たいという
 欲求の方が強く、涙で滲む景色にも何かしらの感動はあったものの、
 それ以上に休める場所に着いた安堵感が大きかった。
 ただ、久々に見る景観は面影が薄く、思わず自分が訪れた場所が
 間違っているんじゃないかと勘ぐってしまう。
 数年ぶりに訪れたヴァレロン新市街地は、思っていたほどの活気はなかった。
 人通りはさほど多くないし、何より観光客があまり見当たらない。
 まずは腹ごしらえと入った酒場には、夜ではない事を踏まえても閑散とし過ぎていた。
 これは後にわかった事だが――――当時、ヴァレロン新市街地には
 不景気の波が押し寄せていたらしい。
 元々、劇場や闘技場、賭博場、舞踏会場といった娯楽施設が数多くあるため、
 主に男性の観光客が多く、酒場は日中であっても殺伐とした空気の中で
 豪快に食事をとる屈強な男達の姿が目についたものだが、フェイルのそんな
 記憶が再現されることはなかった。
 一抹の寂しさを覚えながらも、フェイルはまず宿屋へと向かう。
 幼少期を過ごしたこの街へ帰ってきたのは、単に王宮で夢破れて第二の人生を
 歩むための出発点に選んだから――――だけではない。
 明確な目的があってのことだ。
 その為には、まず再会が必要だ。
 しかも、単に再会するだけでは目標は達成できない。
 まずは、懐に入り込む必要がある。
 その上で、確信を得なければならない幾つもの確認事項がある。
 フェイルに迷いはなかった――――が、この時は目的よりなにより
 深い眠りに就きたい衝動で頭が埋まっていた。
 幸いにも、記憶していた宿屋はこの時も営業中だった。
 だが、路銀がないという問題は依然として未解決のまま。
 売って金になるような物は、夢の残り香とも言うべき弓矢くらいだ。
 もちろん、売るわけにはいかない。
 そうなると、金を生み出す方法はなくなってしまう。
 フェイルはそれでも、宿屋へ入った。
 交渉するためだ。
 一晩泊らせてくれたら、その宿泊費の倍の分だけ働く。
 なにせ元宮廷弓兵団の中で唯一、近距離戦に備え修練を積んできた。
 体力だけなら騎士の平均をも上回る自信はある。
 だが――――
「生憎、働いてもらおうにも仕事がないんだ。他を当たってくれ」
 こんな空しい答えが返ってきては、交渉の余地もない。
 フェイルは疲労と睡魔が暴れる身体を引きずるようにして、
 まだ陽の高い街をさまよい歩いた。
 もうこうなったら、無人の建造物を探してそこで眠るしかない。
 ベッドはないかもしれないが、大きめの布と木材くらいあれば自力で作れない事もない。
 郊外の倉庫が狙い目だ。
 もちろん、家を持たない住民も少なからずいるこのヴァレロンにおいて、
 そういった場所はそうそうないだろう。
 それでも、屋根のある閉じた空間で最低限の寝心地の中、睡魔に身を委ねたい
 欲求はこの上なく高まっており、フェイルは生きた屍のような目で
 街の中を探し回った。
 が――――しかし。
 フェイルは歩いている途中、自分の無意識の行動に気づく。
 そして、気づいた時にはもう行動は終わっていた。
 目の前には――――大きな屋敷。
 幼い頃、何度も何度も通っては楽しい時間を過ごしていた場所。
 アニスらが住む、シュロスベリー家だ。
 ここにだけは、来てはいけなかった。
 なのに、ここに来てしまった。
 本当に無意識でなのかと自分を疑うほどの、奇妙な引力に導かれて。
 だが、フェイルは急いで来た道を引き返す。
 ここに来るのはまだ早い。
 何故なら――――この屋敷は、ヴァレロン新市街地に来た理由だからだ。
 第二の人生の舞台ともいうべき場所。
 今はまだ早い。
 万全の体制で臨まなければ――――
「フェイル……か?」
 不意に、背後からの声。
 どうして、背中しか見せていないのに名前を呼ばれるのか。
 どうして、長らく聞いていなかったその声を瞬時に認識できてしまうのか。
 フェイルはそれらの理由を知っていた。
 だが、まだ確認はしていない。
 全てはこれからだ。
「そこの少年。こっちを向いてくれないか。人違いだったらすまないが」
 理知的で、落ち着いた声。
 心臓が高鳴る自分――――に怯える自分がそこにいた。
 大きく息を吸い、細く吐く。
 こうなれば、もう覚悟を決めるしかなかった。
 フェイルは軽く歯を食いしばり、ゆっくりと振り向く。
 案の定、だった。
 そこには――――

 


「何故答えない。フェイル」
 まるで逃げ道を防ぐかのように、隠し部屋の入り口に立っている
 ビューグラスは厳しい声を向ける。
 眼光も、フェイルがこれまで見た事がないほど鋭い。
 それが却ってよかった。
「……ここにいたのは」
 フェイルは自分が冷静であるかどうか、判断に迷っていた。
 もし冷静でないなら、この場は全てハルに任せた方がいい。
 そうしなければ、この先自分がどうなるかわからない。
 ここにはアルマがいる。
 ヘタな言動はできない。
 ビューグラスがここにいる意味を考えれば、間違いは犯せない。
「知り合いを探すためです」
 フェイルは発言と同時に、自分の状態を把握できた。
 声に変容はない。
 動揺はしているが、装う事は可能。
 つまり、普段のトラブル遭遇時と変わらない。
 そんな自分を自分で不思議に思いながらも、フェイルはビューグラスと向き合った。
「知り合い……? ここに来る可能性がある知り合いがお前にいるのか?」
「はい。そもそも、その知り合いからこの場所を教えてもらいましたから」
「……」
 フェイルは何一つ嘘はついていない。
 ここを教えた土賊のリーダー、アドゥリスを探していたのは事実だ。
「やはり、開放すべきではなかったか……」
 ビューグラスは険しい顔つきで独りごちる。
 フェイルは、彼が少し老け込んだように見えた。
 久々に見る顔には、記憶以上の数のシワが刻まれている。
 ふと、小さな寂寞感に襲われた。
「用事は済みましたので、もう戻ります」
 言葉少なにフェイルはそう告げ、アルマとハルに目配せする。
 予定変更。
 ここはもう使えない――――
「そうだね。わかったよ」
「おう。ったく、とんだ無駄足だったな」
 空気を読んだ二人はすぐに合意し、まずハルが先に隠し部屋から出て行く。
 次にアルマ。
「お嬢さんは確か、このメトロ・ノームの管理人だったと記憶しているが」
「……」
 すれ違いざまにそう語りかけてくるビューグラスに答えず、せかせかと
 柱内の梯子を上っていく。
 間髪入れず、フェイルも続いた。
 そして、梯子に手をかけ、自分の退路を確保した時点で――――
「実はもう数人探してたんですけど」
 振り返りもせずに立ち尽くしたままのビューグラスに話しかける。
 冷静な自分を果たしてどこまで保てるか、自信はなかった。
 それでも――――
「その中の一人が、貴方です。無事でよかった」
 そう言わずにはいられなかった。
「……そうか」
 ビューグラスは低く這うような声で返す。
 フェイルはその声に、どこか迷いのようなものを感じていた。
 そして、同時に自分にも。
 だが、更に言わなければならない事がある。
「アニスが心神喪失状態になっています。今はヴァレロン・サントラル医院に
 入院中です」
「……」
「貴方は何をやってるんですか」
 問いかけではなく、詰る口調で。
 フェイルは冷静にそれを実行した。
「何をやっている、か。確かに何をやっているんだろうな。儂は」
 だが、その返答にまで冷静さを保てるほど、フェイルは傍観者ではなかった。
「……まさか、ボケちゃったんじゃないでしょうね?」
 今度は制御できていない怒気。
 もしこの場にファルシオンがいたら、なんと言われるだろう――――
 なんとなくそんな事が頭を過ぎり、僅かな理性の残存を確認した。
「娘が弱ってる、って言ってるんですよ。曖昧な目的でここにいるのなら、
 早く地上へ戻って傍にいてやって下さい」
 声を荒げずにいられたのは、その理性の存在が大きかった。
「残念だが、それはできない相談だ」
「……」
 そのなけなしの理性も、ビューグラスのまるで他人事のような物言いに
 吹き飛ばされる寸前。
 フェイルは下唇を噛み、かろうじて衝動を抑えた。
 安堵感と焦燥感と怒気が入り乱れ、何か全く別の活力を作り出そうとしている
 自分の内部を必死で抑えた。
「……もう行きます。アニスには、無事だって事だけ伝えます」
 嘆息と同時に漏れた言葉を最後に、梯子に足をかける。
「フェイル」
 呼び止めるつもりなのか、独り言なのか――――判断に迷うほど
 か弱い声で、ビューグラスは語りかけてきた。
「お前は、儂を心配していたのか?」
「……貴方と、アニスをです。貴方が身勝手な理由で家を空けていたのなら、
 アニスだけです」
「ならば、アニスだけだな」
 決して聞いても答えてくれないだろう――――
 フェイルはビューグラスと再会した刹那、そう確信していた。
 それほど、この場に現れたビューグラスは鬼気迫る雰囲気を醸し出していた。
 突然目の前に現れた旧知のフェイルに対して、まるで脅すかのように、
 まるで怯えているかのように問いかけてきた姿は、異様だった。
 だから、意外だった。
 ビューグラスが自らの目的の手がかりを伝えてきた事に。
「フェイル」
 だが、同時に戦慄のようなものも感じていた。
 ビューグラスのか細い声は、まるで何かに魂を売り飛ばしたかのような、
 そんな不気味さすら有していたから。
「アニスの事は諦めろ」
 そしてそれは――――あながち間違いでもないのかもしれないと、
 フェイルは感じていた。





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