自分の店よりはるかに広い、成功の典型例とさえ言える香水店【パルファン】。
 その応接室にいたビューグラスの顔は、普段となんら変わりはなかった。
 商談が上手くいかなかったと思われる直後であっても。
『すいませんでした』
 そんな彼に対し、最後にフェイルが告げたのは、謝罪の言葉。
 あれ以来、ビューグラスとは会っていない。
 伝えたい事は、謝罪じゃないのに。
 だからフェイルは、どうしても彼を見つけなければならなかった。
 現在は、アニスの件が最優先事項になっているが、仮にそれがなかったとしても。
 ビューグラスに言わなければならない事がある。
 報告しなければならない事がある。
 だから、フェイルはビューグラスの失踪を知った時、冷静さを失っていた。
 仮にあのままだったら、この扉は見つけられなかったかもしれない。
 アニスの件があったからこそ、冷静さが多少なりとも戻った。
 フェイルはそう自己分析しながら、扉の前に立った。
 もし、これが封術を施したままの状態だとしたら、フェイルにはどうする事も出来ない。
 魔術士を呼んでくるしかないだろう。
 そうなると、第一候補となるのはファルシオンだ。
 夜間なので、寝ている可能性はあるが――――
「……」
 フェイルは祈るように、扉に手をかける。
 もしファルシオンを連れてくるという事になれば、様々な事実がファルシオンに
 知られる事となる。
 洞察力に優れた女性だ。
 ここで何があったか、ある程度の事は推察するだろう。
 そうなると、彼女を巻き込む事になってしまう。
 ガラディーン、ビューグラスの失踪。
 アニスの殺人。
 クラウの豹変。
 更には――――【エル・バタラ】を中心に起こっている、
 不可解な出来事の数々。
 明らかに、何かが始まろうとしている。
 クラウも、そしてデュランダルも、それを示唆していた。
 勇者一行の一員である以上、ファルシオンやフランベルジュにも
 何かしらの影響はあるだろうが、その影響の及ぶ範囲をわざわざ広げる事はない。
 だがもし、この扉に封術が施されていたら――――
「……ん」
 フェイルが触れると、扉は特に普通の物と変わらない質感を返してきた。
 そのまま開けてみると、すんなり開く。
 最初から封術は施されていなかったのか、それとも誰かが解いたままにしておいたのか。
 いずれにしても、フェイルはこの先に進むことが出来る。
 ただ、一つ解せない事があった。
 ここはビューグラスの部屋。
 そのビューグラスが失踪していて、この部屋に【メトロ・ノーム】の入り口が
 ある現状では、彼がここを通って地下街へと下りた事が予想される。
 本棚の本が取り払われていたのも、それを強く示唆する。
 なのに、本棚は扉を隠していた。
 つまり、元の位置に戻っていた。
 考えられるのは二つのシナリオ。
 一つは、ビューグラスがここを使って地下へ向かい、その後に誰かが
 この本棚を元に戻した。
 ただ、このシナリオだと、本棚を元の位置に戻す行為に意味を見出さなければならない。
 何事もなかったかのようにしたいのなら、本も戻すべきだ。
 本棚だけ戻して本をそのままにする。
 出口だけを塞ぐ――――つまり、ビューグラスを閉じ込めるという事も
 考えられるが、【メトロ・ノーム】の出入り口はここだけではない。
 出口を塞ぐ事にメリットはないだろう。
 つまり、これは考え難い。
 もう一つのシナリオは――――ビューグラス自ら、この部屋の状況を作り出した、
 というもの。
 勿論、そこにも意味を見出す必要がある。
 ビューグラスが何故、そんな事をしなければならなかったのか。
「自分が【メトロ・ノーム】にいると、暗に示したかった……?」
 考えた末、フェイルはその結論に達した。
 誰に示したかったのかはわからない。
 ただ、もしそうなら辻褄は合う。
 ビューグラスが本当にこの扉を使って【メトロ・ノーム】に行ったのなら、
 この状況を生むには協力者が要る。
 尤も、使用人が数多くいるこの館では協力者には事欠かない。
 今は館の中には誰もいないが、ビューグラスが『本棚を元に戻したら、
 暫く館には近づくな』と命じたのかもしれない。
 また、他の方法も考えられる。
 すなわち――――この状況だけを作り出し、ビューグラスは姿を消した。
 別の入り口から【メトロ・ノーム】へ入ったのかもしれないし、
【メトロ・ノーム】へ行かずに姿を消しているかもしれない。
「……待てよ」
 そうなってくると、もう一つのシナリオがある事にフェイルは気づく。
 同時に、急いで扉を開け、階段を下り始めた。
 もう一つのシナリオ。
 それは――――何者かが『ビューグラスは【メトロ・ノーム】へ行った』
 と示唆している、というもの。
 そうなってくると、ビューグラスは拉致された可能性がある。
 そして、偽装工作として【メトロ・ノーム】が利用された。
【メトロ・ノーム】の存在、更にはビューグラスの部屋に【メトロ・ノーム】への
 入り口がある事を知っていて、初めて可能な方法だ。
 しかも、示唆する相手も同様の条件が必要となる。
 かなり限定された、可能性としては余り高くないシナリオ。
 ただ、仮にこれが真実だとすれば、ビューグラスの身に何かしらの危険が
 迫っている可能性は高い。
 そして、どのシナリオが成功だとしても、ビューグラスの所在を確かめるには
 結局【メトロ・ノーム】へ行くしかない。
 フェイルは真っ暗な中、早足で階段を下りて行き、やがて――――扉に突き当たる。
【パルファン】から入った時と同じ構造。
 ただし、扉は――――
「……開いてる」
 フェイルは鍵を使わず、【メトロ・ノーム】へと侵入した。
 暗闇に包まれていながらも、微かに明るさを残した空間。
 そして、一面に広がる地下水道。
 フランベルジュとの特訓で入って以来なので、それほど懐かしさはない。
 そもそも、懐かしがっている余裕はない。
 アニスのために、一刻も早くビューグラスを見つけ出す必要がある。
 ここにビューグラスがいるとすれば、果たして何処を探すべきか。
 誰に聞くべきか。
 答えは容易だった。
 この地下街を管理している人間がいるのだから。

 


「ビューグラス……って人は……確かに登録……してるみたいだね。
 あんまり……記憶にな……いけど……帳簿……に……名……前……があ……ったよ」
 幸いにも、時間は夜。
【メトロ・ノーム】管理に、アルマ=ローランが言葉を有する時間帯だ。
 ただ、寝ようとしていたらしく、目はショボショボ。
 声も途切れ途切れだ。
「ご、ごめんなさい。こんな夜遅くに突然訪ねて」
「いいん……だよ。此方が言った……んだからね。『また来て欲しい』って。
 いつ来て貰っても嬉しいんだよ」
 徐々に眠気が覚めていったのか、アルマの声に明瞭さがもどる。
 顔はまだ眠たげだが。
 その美しさが、別の意味で支持を集めそうなほど。
「でも、ビューグラスって人がここ数日、此方の所に顔を見せた記憶はないかな。
 記録だと……最後にこの地下街に来たのは、もう3年も前だね」
「3年前……」
「日中に鍵を使って来たのなら、此方に会わなくてもここへ来た事はわかるから、
 厳密には『夜以外に鍵を使ってここへ来たのは、3年前が最後』って事になるね」
 つまり、鍵を使わずに来ているのなら、若しくはビューグラスに
 充てがわれた鍵を使用していないのであれば、いつ来ていても矛盾はない。
 更に言えば、夜であれば鍵を使おうとアルマの封術には引っ掛からない。
 そもそも――――ビューグラスの部屋の鍵は、開いていた。
 3年前からそのままなのかもしれない。
 つまり、ビューグラスがここを訪れたかどうかはわからない、という事になる。
「……ちょっと聞きたい事があるんだけど、いいかな?」
「大丈夫だよ。まだおねむの時間じゃないからね。此方は大人だから、
 いつもはこんな時間には寝ないんだよ」
「その割に、未だに眠そうなんだけど……」
「眠くないよ。今日は偶々お客さんが多かったから疲れただけなんだよ」
 シパシパした目で弁明するアルマは、妙にお茶目だったが――――
 その事に気を取られるゆとりは、今のフェイルにはない。
「それじゃ遠慮なく聞くけど……この【メトロ・ノーム】への入り口って、
 どういう基準で作られてるの?」
 それは、フェイルがずっと思っていた疑問。
 現時点でわかっているだけで、【パルファン】、諜報ギルド【ウエスト】、
 更にはビューグラスの部屋にまで入り口が存在している。
 ギルドはまだしも、個人の館の一室にまで入り口があるというのは、
 少々理解し難い。
 何しろ、両空間を繋ぐ通路を作るだけでも一大事業だ。
「基準は……此方も良くわからないかな。此方が知っているのは、
 この【メトロ・ノーム】はずっと前、此方が生まれるずっと前から作られていて、
 その時にはもう今ある出入り口は殆ど作られてた、って事くらいだよ」
「そっか……」
 つまり、ここで出入り口の法則を検討する事は出来ない。
 ビューグラスがどの出入り口を使ってこの【メトロ・ノーム】へ
 赴いたのかはわからないので、検討したところで余り意味はないが――――
「……待てよ。確かこの地下街に光があるのって、薬草学が関わってるんだよね?」
「薬草学? ごめんね、それはよくわからないよ」
「あ、いや。えっと……植物が関係してるんじゃないかな?」
 言い直したフェイルに、アルマはカクン、と頷く。
「……カクン?」
 首肯としてはやや鋭すぎる動き。
 頭の重さに抗うことなく、まるで――――
「寝てないよ」
 フェイルが指摘する前に、アルマは頭を上げてブンブン首を横に振った。
「いや、別に寝ても全然いいんだけど。僕が起こしちゃったのが悪いんだし」
「悪くないよ。此方はこの時間、全然起きてるからね」
「それならいいけど……」
 瞼がピクピク動いているのを眺めつつ、フェイルは答えを待つ。
「植物は、関係あるよ。このメトロノームの光は、いろんな人が研究して
 作ったものなんだけど、自然に生えている苔を改良して作ったらしいからね」
「苔か……」
 薬草と苔。
 一見、植物以外に共通点はないように思われる。
 だが、だからこそビューグラスが苔に対して薬草学的アプローチを試みている
 可能性は否定できない。
 もしも、苔の種類のどれかに薬草のような治癒効果のある物があれば、
 それは大発見だ。
「やっぱりビューグラスさんはここへ来てるのかも……」
 そうフェイルが呟いた刹那――――
「あ……」
 終始眠たげだったアルマが、驚いた様子で駆け出し、外へと出て行く。
「ど、どうしたの?」
 慌てて追うフェイル。
 家の外に出たところで、その理由に気づく。
 まるで、図ったように――――
「どうして……夜が明けているんだ……?」
 そこには、先程の景色とはまるで違う、日中の【メトロ・ノーム】があった。








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