人通りの少ない夜道を風を切るように走り、フェイルは再びシュロスベリー家の
 館の前に来ていた。
 ここにはハイトの死体がある。
 このままにしておく訳にはいかない。
 ただ――――これからどうするかは、まだ決めかねている。
 幹部位階7位という立場で、司教や大司教よりも下の身分ではあるが、
 司祭の死は決して軽くはない。
 傭兵やごろつきが殺されて、道端に転がっているのとは訳が違う。
 司祭の死がアランテス教会の知るところとなれば、当然彼らが死因を探る。
 そして、死に至らしめた人間がいたならば、魔術士を派遣して
 その者を捕らえ、処罰するだろう。
 死罪もあり得る。
 ただ、アニスのような権威のある家の娘であれば、政治的な交渉のコマに使われ
 上手くいけば軽い罰で済む可能性はある。
 勿論、これは『平等さ』という観点で言えば、非難されるべき風習ではあるが、
 今はそんな道徳論を口にしているゆとりはないし、フェイルにとっては
 どうでもいい問題だ。
 アニスが助かるのなら、それが一番良い。
 ならば、これからすべき事は二つ。
 一つは、ハイトの死体をアランテス教会に差し出す。
 その際に重要なのは、『ハイトが夜にアニスの部屋にいた』事を強調する点。
 司祭という立場においては、あってはならない不道徳な行為だ。
 フェイルはアニスとハイトの間に男女の交わりがあった――――とは思っていない。
 恋人という様子は一切なかったし、何よりハイトが死の間際呟いた言葉。

『……化物……だ……………………』

 恋人を指す言葉ではない。
 愛情が冷め切った末の痴情のもつれ――――だとしても、余りに過ぎた言葉だ。
 両者の間には、何らかの関わりはあったが、必ずしも良好な関係ではなかった
 と考えるのが妥当だろう。
 しかし、現実として『若い男女が夜、部屋に一緒にいた』という事実を
 突きつけられれば、誰もがそこにゴシップめいた考えを浮かべるもの。
 アランテス教会としては、司祭という身分の信者がそのような醜聞を
 流されてしまえば、打撃を受ける事は間違いない。
 従って、交渉する余地が生まれる。
 ただ、その為にはもう一つの『すべき事』が必要となる。
 ビューグラスを見つける事だ。
 交渉の席を設ける為には、拮抗した力関係が必要。
 ビューグラスの名前は、アランテス教会の力に対抗する上では必須だ。
 彼なくして、アニスを助ける手段はない。
 だが、肝心の彼は家にはいないという。
 父を嫌うアニスがそれ以上の情報を持っているとは考えられない。
 自分で探すしかない。
 フェイルは大きく深呼吸し、再び屋敷の中へと入った。
 まずはビューグラスを探さなければならない。
 交渉を行う事を前提にするのなら、彼がいない段階でハイトをアランテス教会に
 差し出す事はできないからだ。
 とはいえ、死体を何日も放置する訳にはいかない。
 明日までにはビューグラスを見つける必要があるだろう。
「とは言っても……万が一見つかると困るよね」
 心中で独りごち、フェイルはアニスの部屋へと向かった。
 もし、誰かがここを訪れ、アニスの部屋へ入る事があるとすれば、
 全てが台無しになってしまう。
 死体を隠す必要がある。
 それ自体、罪深い行為ではあるのだが――――死人を交渉道具に使おうと
 目論んでいる今、それを懺悔しても意味がない。
 フェイルは迷う事なく、アニスの部屋の扉の前まで辿りついた。
 ここには、ハイトの死体が横たわっている。
 親交はさほどなかったものの、顔見知りの死体を見るのは相応の覚悟がいる。
 先刻は、アニスの方に意識が集中していたので、まだどうにかなった。
 だが、一対一で向き合うとなると、それなりに恐ろしいものがある。
 他人の死は、自分の死を映す鏡。
 引きずり込まれるように、死に魅入られる事は少なくない。
「……さて、と」
 扉に頭を当て、コツンと一つノック代わりに叩く。
 それが覚悟の証。
 フェイルは意を決し、その扉を開けた。
 同時に、病的ともいえる赤に染まった部屋の装飾が飛び込んでくる。
 とはいえ、闇に紛れている事もあり、異様さはかなり軽減した状態。
 だが――――
「……え?」
 闇に紛れている、という表現では到底語ることの出来ない異常が、
 この部屋には起きていた。
 床に広がる一面の血の海。
 先刻は見えていなかった景色だ。
 当然の事。
 その血は、ハイトの身体で隠れていたのだから。
 だが今は、ハッキリと見える。
 理由は――――
「死体が……ない?」
 思わず声に出してしまう程の衝撃。
 ハイトの死体が忽然と消えていた。
 フェイルは半ば反射的に、足元に目を移す。
 だが、そこには血の跡はない。
 月明かりが照らすのは、血とは違う赤。
 元々の床の色だけだ。
 実は生きていて、この場を自力で立ち去った――――という線は消える。
 そうなれば、何者かが死体を運んだと解釈するしかない。
 心臓が止まっていれば、血液が吹き出る事はないので、
 倒れた場所以外に血痕がないのは説明が付く。
 ただそうなると『誰が死体を運んだのか』という大きな疑問が浮上する。
 それに、フェイルはこれに似た状況をつい最近、経験していた。
 あれは――――ヴァレロン総合闘技場の地下。
 情報屋デルに呼ばれて駆けつけた一室。
 そこには、クラウがいた筈だった。
 だが、クラウの姿はなく、夥しい量の血が床から天井にかけて
 付着しているというだけ。
 通路に血の跡は一切なかった。
 余りに――――酷似している。
「クラウと……同じだっていうのか?」
 ハイトとクラウ。
 共通点は、フェイルには見出せない。
 だが、もしクラウと同じ理由でハイトの死体が消えたのなら、
 クラウ同様、ハイトは生きている事になる。
 尤も――――クラウが今、本当に生きているのかどうか、
 フェイルは確信を持てないでいる。
 あれから二度見かけたクラウは、いずれも何処か『異常』が見られた。
 本当に、生きているのか――――
「……指定有害人種」 
 出てくるのは、その言葉。
 クラウは自分がそうだと公言した。
 アニスもその一人。
 フェイルも。
 そして――――ハイトもそうなのだとしたら。
「……」
 それ以上の事は、今のフェイルにはわからない。
 ただ、ここであれこれ考えて時間を費やすのが無意味だというのは明らかだ。
 今はそれが致命傷になりかねない。
 ならば、今は凍結する。
 大事なのは、アニスの未来を守る事だ。
 今はここにハイトの死体はないが、ハイトが絶命した事は確か。
 なら、いつ死体が現れるかわからない。
 アニスを守るには、一刻も早くビューグラスを見つける必要がある。
 やる事は何も変わってはいない。
「次は、ビューグラスさんの部屋……だな」
 心の中で呟き、フェイルは謎多きアニスの部屋の扉を閉めた。
 それからは、心を無にして走る。
 考え事が多いと、有事の際に対応が遅れる。
 実戦の場では常に心掛けておかなければならない事。
 そう。
 今、この時――――フェイルは実戦の想定をしながら動いていた。
 殺気がある訳ではない。
 人の気配すらない。
 それでも、フェイルの身体と精神は、警戒レベルを最大限にまで引き上げていた。
 闇に融けるような速度で疾走し、意識も融かしていく。
 何も考えないよう。
 何も生み出さないよう。
 数多の衝動を抑え込み、鼓動すら制御する意識で、ビューグラスの部屋にまで
 辿りついた。
「はぁ……はぁ……」
 肩で息をしながら、扉を開ける。
 鍵が掛かっていない事は予見済み。
 重厚な扉を開けると、沢山の書物にまみれた部屋が広がる。
 何度も訪れた、薬草の匂いに溢れた部屋。
 ただ、今はその匂いはかなり減っている。
 それを憂う余裕もなく、フェイルは扉を開けたまま、部屋に何か
 手がかりがないかとくまなく探す。
 灯りがあれば、もっと効率はよくなるのだが――――
「……確か火打ち石があったような」
 部屋の奥にある大きな机の引き出しを片っ端から開き、探してみる。
 すると、ほどなく発見。
 部屋のランプに火を点すと、一気に視界が広がった。
 その瞬間――――フェイルはとある事実に気づく。
 書物が床に散らばりすぎている。
 元々、余りの本の多さに本棚では整理しきれず、床に本を積んでいる部屋では
 あったが、今の状態は積んでいるというより、まさに『散らばった』状態。
 本棚を見ると、殆どの書物が外に出されてしまっている。
 不自然だ。
 考えられるのは――――誰かが侵入し、物色したという可能性。
 扉の鍵は開いていたのだから、十分にあり得る事だ。
 だが、もし物盗りの仕業だとしたら、腑に落ちない点がある。
 引き出しは閉まったままになってたのに、本棚だけが無造作に荒らされている。
 そうなってくると、この部屋の本を盗む為に何者かが荒らしたと言う線が
 浮上するのだが、それでもおかしな点は残る。
 前列にある本を床に放るのは、自然な行為だ。
 後列の本を探す為に必要な行動なのだから。
 だが、本棚の本は殆どが床に散らばっている。
 後列の本までどかす必要はない。
 背表紙で判別できない本は殆どないので、不自然な行動だ。
「そうなると、この本棚そのものが……?」
 フェイルは周囲への警戒を解かず、本棚へと近づく。
 棚自体は、とても高価という点を除けば、普通の本棚。
 だが――――
「……」
 フェイルは、ある光景を思い出し、本棚をじっと眺めた。
 その光景とは――――王宮の書庫。
 不気味な白色の仮面を被った何者かが案内した、秘密の場所。
 その入り口は、棚に封術を施すという形で封印されていた。
 勿論、ここに同じような細工が成されているとは限らない。
 しかし、目の前の本棚から書物を抜き出している意図があるとすれば、
 可能性の一つとしては考慮すべき。
 問題は、フェイルには封術を解く事ができないという事。
 もし封術が正解だとしたら、お手上げだ。
 だが――――可能性はもう一つある。
「……試すだけ試してみるか」
 フェイルは肩を回し、それを試す準備を整えた。
 本棚の本をほぼ全て出してしまう理由。
 もしそれが、この本棚を動かす為に軽くしているのだとしたら――――
「よっ……と!」
 棚の側面を掴み、横へずらす。
 本は殆どないが、それでも重い。
「んぐっ……!」
 歯を食いしばり、フェイルは全身を使って本棚を横へと引っ張った。
 程なくして――――棚が動き出す。
 その後暫く引っ張り続けて、棚の幅と同じくらい動かしたところで、一旦手を離す。
「……」
 微かに切れる息を整えながら、本棚があった部分に目を向けるべく
 移動してみると――――
「これは……」
 そこには、正解の証があった。
 王宮の書庫や香水店【パルファン】で見た、両開き扉。
 それは――――【メトロ・ノーム】への入り口だった。







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