「どうして……?」
 アニスの震える声に、フェイルは答えるか否か迷い、奥歯を噛む。
 この状況そのものを予感していたわけではない。
 ただ――――驚かなかったのは、心の何処かに準備があったからに他ならない。
 アニスの身に何が起こっていても。
 アニスが何をしたとしても。
 
 指定有害人種。

 その言葉の意味はまだまだ闇の中だが、クラウの変容を見る限りは
 何かしらの異常を来していると見做すべきだ。
 言葉そのものから発せられる毒々しさも、それを支持してる。
 となれば、アニスがこの状況――――ハイトを殺害したこの状況も、
 想定はしていなくても不意打ちには到らない。
「……僕の事は、今はいい」
 結局、フェイルは何もアニスには伝えない事を選択した。
 そもそも、今それをする事に意義を見出せない。
 それよりも大事なことが山のように積まれている。
「アニス。彼をどうして殺さなくちゃいけなかったの?」
 フェイルの声は普段より少しだけ低い。
 だが、冷たさはない。
 アニスに一片の冷静さを取りもどさせるには、最適な声だ。
「私は……」
 しかし、それが奏功する事はなく。
「私は……私は……私は……わたしは……わたしは……」
 アニスの血塗られた右手で自身の髪を掴み、引き千切る勢いで引っ張り出す。
「わたしは……!」
「アニス!」
 鋭い声。
 フェイルの獲物を狙う狩人のような目に、アニスの全身がビクッと跳ねる。
「わかった。理由は聞かない。ただ、今の君をこのままにしておく訳にもいかないよね。
 官憲に引き渡すのが常識的な行動なんだろうけど……ハイトさんは司祭だ。
 司祭を殺したとなれば、死罪の可能性がある。弱ったな……」
 目の前の惨劇と、幼なじみの異常。
 それでもフェイルは、まるで日常で起こった些細なトラブルのように
 緊張感を抑えた声で思案する。
 それは決して、非日常的なこの状況を理解していない訳でもないし、
 逃避している訳でもない。
 理性を総動員して、アニスの異常を最小限に抑えるためだ。
 クラウは異常が起こった後、何事もなく元へもどった。
 しかしアニスもそうだという保証はない。

 ――――死を免れない

 そんな記載を見てしまった以上、刺激を与える事は出来ない。
 この状況は、『重度の症状』が関係している事は想像に難くないのだから。
「……フェイルは優しいね」 
 だが、フェイルの演技はあっさりとアニスに暴かれた。
 幼なじみという関係が、悪い方向に出てしまった。
 アニスは幼少期、フェイルと接した時間が長かった。
 つまり――――フェイルの本質に近い部分を、ずっと見ていた。
「私のこと、知ってたのね」
「……」
 フェイルは何も答えられない。
 何かを言えば、壊れてしまう。
 それほど、アニスの表情は危うかった。
 狂気と深痛が激しく入れ替わり続けているような――――
「貴方にだけは知られたくなかったのに」
「アニス……」
「貴方の中だけは……子供の頃の私のまま……普通の女の子のままでいたかったのに」
 アニスの顔が、深痛に偏る。
 悲哀と、悔恨。
「上手くいかないね」

 そして――――強烈な殺気。

 刹那、フェイルは全身を律動させる。
 同時に購入したばかりの弓を背から取り、同時に矢羽を引っかける。
 接近戦をこなす為、必死で覚えた技術。
 一瞬でも早く矢を撃つ為の予備動作。
 しばらく弓矢に触れてすらいなかったフェイルは――――その一連の動作を
 完璧に、しかもこれまでで一番素早くこなした。
 無意識だったからだ。
 気づいた時には――――矢はもう放たれていた。
 皮肉にも、長年積み重ねてきた技術は、弓を置いた今、完成の域に達した。
 更に皮肉にも。
 その矢尻の先にあったのは。
「……!」
 アニスの――――右肩だった。
 上げかけていた右腕が、矢に引っ張られる形で後方へと持って行かれ、
 体勢が大きく崩れる。
 刹那、フェイルは瞬時に弓を捨て、駆け出した。
 躊躇はない。
 一切ない。
 息を止め、呼吸すら排除し、全神経を集中させてアニスへと飛びかかる。
 矢の掠めた肩から出血し、倒れ込んだアニスの身体に覆い被さるようにして―――― 
 フェイルはアニスを捕縛した。
「……この……バカ!」
 同時に、平手打ち。
 これも無意識だった。
 だから、鮮烈な破裂音がすると同時に、自分自身の行動に目を丸くしてしまう。
「あ……ご、ごめん」
 馬乗りになった状態で、フェイルは謝罪の言葉を口にする。
 その奇妙な構図に――――
「……ふふっ」
「……はは」
 笑いがこみ上げてきた。
 不可解な光景。
 でも2人にとっては自然でもあった。
 それは、子供の頃に良く見た光景。
 尤も、馬乗りになって怒るのは、アニスの役割だったが――――
「まだ、あの頃のままだよ。僕達は」
 フェイルは穏やかな顔で、穏やかな声で、穏やかな思いで話す。
「アニスがバカをして、僕を振り回す。次は拗ねて、僕を困らせる。
 あの頃のままだ。変わってない」
「フェイル……」
「でも、もっと成長しなきゃね。お互いに」
「……う……うう……うぁ……」
 笑顔でアニスの頭を撫でるフェイル。
 アニスの顔が、クシャッと緩む。
「ひぅっ……う……うあああああああああああああ!」
 そして、まるで子供のように――――赤子のように泣きじゃくった。
 その姿に、フェイルは内心安堵のため息を吐く。
 アニスが殺気を発したあの時。
 フェイルは一瞬、それが自分に向けられたものだと感じ取り、思わず身構えた。
 だがそれは間違いだと気づく。
 アニスの殺気は、内に向けられていた。
 
 ――――自分を殺せ

 そう訴えていた。
 もし、それを理解してから動いていたら、間に合わなかっただろう。
 アニスの右手は、自分の首の直ぐ傍まで伸びていた。
 それが何を意味するかは、ハイトの亡骸を見れば明らかだ。
 だから、フェイルは自分の撃った矢がアニスの愚行を止められた事に
 心から安堵していた。
 例え、それがこれから始まるであろう大きな苦難へと彼女をいざなうとしても。

 


 それから――――
 フェイルはアニスを連れ、ヴァレロン・サントラル医院へと向かった。
 矢の掠めた右肩は軽傷だったが、その衝撃で転倒した際に足首を捻ったらしく、
 それが思いの外重傷だったからだ。
 とはいえ、骨に異常はなく、痛みさえ我慢すれば一週間ほどで歩けるようにはなる、
 という診断が下された。
 診察したのはカラドボルグ=エーコード――――ではなく別の医師。
 カラドボルグはこの日、ヴァレロン・サントラル医院にはいなかった。
「……フェイル」
 歩けるようになるまで暫く入院する事になったアニスは、ベッドの傍で座っている
 フェイルに、怯えるような目を向ける。
「ゴメンなさい。私……まだ、全部を話す覚悟ができない」
 ハイトを殺害した理由。
 自分も死のうとした理由。
 ハイトを殺せるだけの力を持っている理由。
 シュロスベリー家の館に、アニスとハイト以外誰もいなかった理由。
 様々な事実が棚上げされているが、フェイルは何も聞こうとはせず、
 大きく数度頷いた。
 だが、どうしても聞いておかなければならない事がある。
「一つだけ聞かせて。ビューグラスさんは何処にいるの?」
「……」
 実の父の名が出た瞬間、アニスの顔が強張る。
 アニスは――――ビューグラスを嫌っていた。
 それはフェイルも知っている。
 このヴァレロンにもどってから、アニスが父親と一緒にいる場面は
 殆ど見た記憶がない。
 余り寄りつかなかった薬草店【ノート】にアニスが足を運ぶようになったのも、
 父親との関係が悪化しているからかもしれない、と邪推していた。
「……あの人は、もう家にはいないの」
 あの人。
 アニスは冷淡な声で、父親をそう表した。
 フェイルは敢えて何も言わず、アニスの頭を撫でる。
「ありがとう。後の事は全部僕に任せて、アニスはゆっくり休んでなよ」
「……家に、行くの?」
 立ち上がったフェイルに、アニスは状態を起こし、手を伸ばす。
「ここにいて。お願い」
「……ダメだよ」
「どうして?」
 子供の頃とは変わってしまった、アニスの大きな目。
 それは濁ってしまったのか。
 それとも――――暗雲に隠れた月のように、ただ見え難くなってしまっただけなのか。
 フェイルは悩みながらも、腕を掴むアニスの手をそっと外した。
「言ったろ。僕達は成長しなきゃ。アニスは我慢する事を覚えないと」
「フェイルは……?」
 今にも泣きそうなアニスに、フェイルは少し首を傾け、薄く微笑んだ。
「――――僕は、あと少しだけ強くなる」







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