「……へ?」
 最近、余りそんな間の抜けた返事をする機会も減っていたフェイルは、
 自分の中にまだそんな余裕にも似た感情があった事に、驚きを覚えた。
 逆に言えば、それくらい、全く頭になかった事でもあった。
「だから、親父がいなくなったんだって!」
「それはわかってるよ! そこじゃなくて、剣聖って……」
「まー、話せば長くなるからここじゃ話せねーけど、兎に角そうなんだよ。
 姓が違うのは、それも色々あんだよ」
「いや、そもそも僕、ハルの姓知らないし」
 そんな冷静な指摘に対し、ハルは一瞬キョトンとし、ようやく少し
 緩和した顔に、苦笑を浮かべた。
「……そういや、そうだったな。すっかり『ハル』で定着しちまったから
 俺もコレが本名って感覚だったわ」
「本名じゃ……ない?」
 つまりは、偽名。
 友人に名を欺かれていた事に大したショックはなかったが、
 意外な事実ではあった。
 フェイルの知る、ハルという人物は、そういう行為をしそうにない
 人物だったから。
「偽名って訳でもねーんだけどな。いわゆる愛称だ。お前も知ってるだろ?
 この街にいる、やたら愛称で呼びたがる情報屋の女。アイツの付けた渾名なんだよ」
「ラディアンスさんの事?」
 次々と明らかになるハルの秘密に、フェイルは驚きを隠せなかった。
 友人となって一年が経つが、これまで余り自分の事を話す事はなく、
 フェイルの素性も積極的には聞いてこなかっただけに、この一連の流れは
 切迫した状況である事を示している。
「ああ。って、俺のコトはどーでもいーんだよ! 兎に角、親父が
 救護室からいなくなったんだよ。あの怪我で出歩くなんて、正気の沙汰じゃ
 ねーってのに……」
「医師は? 救護室に一人いた筈だけど」
「そいつもいねー。忽然と蛻の殻になっちまった」
 早とちり、という可能性もない訳ではないが――――ハルの言う通り、
 とても外へ出て良いような怪我ではない。
 カラドボルグの言では、暫く安静にして、問題ないようなら
 ヴァレロン・サントラル医院に入院させる、との事だった。
 それだけに、そのカラドボルグもいないと言うのは、不自然極まりない。
「わかった。二手に分かれよう。ファルとフランにも声をかけてみる」
「済まねー。こんなお祭りの時に……」
「僕にとっても他人事じゃないんだ」
 フェイルはそこまで言い放ち、観客席へ向けて駆け出した。
 王宮時代、何かと気にかけてくれた恩人。
 そこに友人の父親という要素まで加わった。
 大会の観戦などより、よほど重要な存在。
 フェイルは、先程まで救護室にいた、温和な顔のガラディーンを
 思い返していた。
 心中穏やかな筈がなかった。
 初めての敗北。
 そして、終焉。
 幾ら数々の修羅場をかい潜ってきた天才剣士でも、その非常な現実に
 悠々と向かい合えるとは、限らなかった。
 もっと、励ましの言葉をかけるべきだったのかもしれない。
 もっと、その偉大さを説くべきだったのかのしれない。
 フェイルの心の中に、そんな後悔が波のように押し寄せる。
 それは――――最悪の展開を懸念している自分の証明でもあった。
「ファル! フラン!」
 それをかき消すように、フェイルはまだ遠い二人に呼びかける。
 しかし、拍手と歓声によって、その声がかき消された。
 アリーナでは、その声援を一身に浴びている人物が一人。
 エスピンドラ=クロウズだった。
 膝を突くカバジェロに手を差し述べる姿は、騎士の鑑。
 だが、そんな彼よりも更に騎士としての人生を突き進んだ男が今、
 不可解な失踪により、行方不明となっている。
 フェイルは視線を切り、ひたすらに走った。
「あ……」
 それにいち早く気付いたファルシオンが、立ち上がる。
「ファル! フラン! 悪いけど、ちょっと手伝って!」
「何? 店の宣伝……って感じじゃないみたいね」
 フランベルジュも、フェイルの形相にただならぬ事態を察し、
 真剣な顔で立ち上がった。
 そんな二人に感謝しつつ、フェイルは事の顛末を伝える。
「わかりました。私は機動力に乏しいので、救護室近辺を探します。
 二人は別の所を」
「了解。私は、南側を探してみる。見つかったら救護室に戻るように
 言っておくから、二時間を目処に確認しておいて」
 流石に勇者一行、人捜しは手慣れたもの。
 的確な指示の元、二人はあっと言う間に散った。
「あ……ありがとう」
 そんな『仲間』の背中に、フェイルは心の底から感謝を告げた。
 決して、付き合いは長くない。
 勇者候補として、この街を訪れ、そして近い将来、離れていく存在。
 長い長い旅路の途中で、重要な拠点とは程遠い、少し長めに立ち寄った街で
 知り合っただけの関係。
 それなのに――――気付けば、ここまで信頼関係が築かれていた。
 アリーナでは、第三試合の開始が迫っており、観客席からは
 魔術士同士の一戦に対する期待感が溢れ出ている。
 フェイルはそんな客席の通路を疾走し、消えた剣聖の姿を追った。

 


 ――――同時刻。
「それにしても、悪趣味ですよね」
 関係者以外立ち入り禁止の、闘技場最上部の通路前で、
 リジルは自分と反対側の壁に背を預けている女性に対し、
 苦笑混じりにそう呟いた。
「あらン? 何がかしらン?」
「こうして、高みの見物をしてる僕等が、ですよ。こういう役回りは
 嫌いじゃないですけど」
「なら、どうしてそんな事言うのかしらン?」
「必死になって、自分のすべき事をしてる人を見ると、そう思うんです。
 自分のやってる事が、いかに薄汚れてるか……自己嫌悪ですね」
 肩を竦め、そう呟くリジルの顔は、実年齢より遥かに若い。
 一方、そのリジルに視線を向ける事なく、通路の向こう、アリーナを
 眺め続けるスティレットは、そんな生物学の権威の言葉を一笑に付した。
 それはもう、愉快そうに。
「また、そんな心にもないコト言って♪ ホント、リジルちゃんって
 面白いのねン♪」
「真面目な話なんですけどね……ま、良いですけど。慣れてますし」
 自分の意見が聞き入れられない事に免疫のあるリジルは、笑顔に
 笑顔を返した。
 その最中、アリーナでは第三試合が始まり、二人の魔術士が
 挨拶代わりの攻撃魔術を綴り始めている。
「クレウス=ガンソ……テュラム家推薦の宮廷魔術士でしたか。
 かなりの腕前って聞いてますけど、勝算はあるんですか? 貴方の従者」
「あらン♪ ヴァールの事を心配してくれるのン?」
「まあ、このカードに関しては確か『自由枠』ですから。どちらが勝つか
 純粋に予想を楽しめる、数少ない対決ですし」
「それは残念ねン♪」
 その『残念』が、何に掛かっているのか。
 リジルは特に聞く事はしなかった。
「ま……何にしても、見所はもっと先ですけどね。『彼』がこれから
 どう変わって行くのか。人間の変遷は、どんな生物の進化よりも楽しいですから」
「あら、そう言えば、見たわよン♪ 一回戦♪」
 スティレットの声に、艶が加わる。
「あれも、アナタの差し金かしらン?」
「違いますよ。あれは、また違う技術です。そもそも、人間に組み込める技術じゃない。
 あの人は……天才過ぎます。天才って言葉が不適当なくらいに」
「あらそうなのン♪ てっきり、『指定有害人種』の仲間入りしたとばっかり
 思っちゃってたわン♪」
「誰が指定してるんだか、って話ですけどね。それ」
 再度肩を竦め、リジルはアリーナ側とは反対の、場内の方に足先を向けた。
「あらン、見て行かないのン? せっかくのヴァールの晴れ舞台なのに♪」
「申し訳ありませんけど、僕には然程思い入れはありませんから。
『勇者計画』が順調にいってれば、それで良いんですよ」
「ってコトは、もう一つの計画の方に肩入れしてるのねン♪」
 そんなスティレットの鋭い指摘に、リジルは答える事なく、
 その革靴で床を小突くようにして歩を進めた。
「さてとン……ヴァール、良い子にしてるかしらン?」
 その後ろ姿に然したる興味も示さず、スティレットは自身の護衛に
 熱い視線を注ぐ。
 そこから、彼女の息遣いや鼓動は聞こえない。
 けれど、どのような心理状態でいるのかは、手に取るようにわかる。
 それは、特別な技という訳でもない。
 単純な洞察力の成せる技。
 スティレットには、人間の限界を超えた、尋常でない集中力が備わっていた。
 その集中力が、視力を限界以上に高め、遥か下方のアリーナの様子を
 克明に眺める事が出来る。
 ただし、実際に視力が良いという訳ではない。
 そこに見えるのは、現実ではなく、スティレットの頭の中で補完された映像。
 そしてその補完の精度は、限りなく現実に近いもの。
 今、スティレットの頭の中には、アリーナで魔術合戦を繰り広げている
 二人の姿が、まるで目の前にあるかのような克明さで映っていた。
「あの時の借り……忘れてはいないでしょうね? ヴァール……」
 スティレットの顔が、軋むように歪んだ。






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