その日――――空は何一つ邪魔のない、圧倒的な青空だった。
 無論、それが意味するところに、祝福や歓迎の文字はない。
 ただ単に、風が雲を運んだだけの事。
 雲間が大きく広がり、その隙間から覗く光を感知しているだけの事。
 しかし、人は太古の時より、その光景を特別なものとして見ていた。
 それは、決して勘違いではない。
 何故なら――――人はその蒼に、魂を吸い寄せられるかのような感覚を抱くからだ。
 そして、頭の中が空になって行く。
 空っぽの空は、それ故に幾つもの顔を持つ。
 それは果たして、感情の反映か、未来への展望か。
 そんな、少しだけ哲学っぽい事を夢想しながら、フェイルは仰ぎ見る空から
 視線を落とし、自身の店の入り口を眺めた。
 現在、まだ店を開ける時間ではない。
 にも関わらず、『準備中』と記された札の前には、何人もの客が並び、
 開店の時を待っている。
「……」
 フェイルは瞬き一つせず、そのぼやけた光景と空を交互に眺め、そしてその後、
 隣にいるファルシオンに視線を向けた。
「はい、現実です。夢ではありません。花屋でもありません」
 無論これは、かの剣聖ガラディーン=ヴォルスが昨日見せた珍妙な仕込みによる効果。
 物珍しさ半分で訪れている客が大半だ。
 本来は、今日は寧ろ閑散としている予定だった。
【エル・バタラ】の開幕前、怪我を懸念した参加者が買い求める事を
 期待して、【ナタル】と言う即効性重視の薬草を作った。
 そして、その効能が人から人へと伝わり、大会途中に第二の波が訪れる――――
 そんな青写真を描いていた。
 それだけに、狙い通りと言う訳ではない。
 しかしそれでも、フェイルにとっては奇跡の一瞬。
 自分の店に行列が出来る――――それは、商売をする者であれば誰もが夢見る景色であり、
 目指すべき目標点の一つだろう。
「どうですか? 気分は」
 そんなフェイルの気持ちを察してか、普段より心なしか優しい声で、ファルシオンは問う。
「行列が出来る店を目指してた訳じゃないけど……それでも、感無量だよね」
「良かったですね」
 ローブに身を纏った女性魔術士の声は、上空よりも澄んでいた。
「では、そろそろ開けましょうか。人手不足は否めませんが……アニスさんが
 手伝ってくれれば良かったんですが」
「仕方ないよ。用事があるって言ってたし。それに、午後からは僕達も応援に行かなきゃ」
 この日は午前中で店じまい。
 その間、ヴァレロン総合闘技場では【エル・バタラ】の開会式やルールの説明が行われ、
 午後から予選が始まる。
 かき入れ時ではあるが、アニスのいないこの日、代わりに店を頼める人物はいない。
 通常、こう言った『売り時』を逃すのは、商人として致命的な愚行なのだが、
 フェイルに迷いはなかった。
「さて、それじゃ張り切って行こうか」
「はい」
 こうして、薬草店【ノート】、一世一代の一日が始まった。


 同時刻――――ヴァレロン総合闘技場。
「えー、まーそのー、本日はー、お日柄も良くー」
 四年に一度の大会として、格式の高さを謳っている【エル・バタラ】は、
 各地域の領主や富豪、他国の公賓を招く等、様々な上位者を誘致し、全員に挨拶をさせている。
 しかも、全員に結構な時間を割り充てている為、長い上に詰まらない話が延々と
 続いてしまうのは、この開会式のお馴染みの風景となっている。
「くぁ〜。いつまでこんなくっだらなーな時間を過ごせばいいの。トリシュ飽き飽き。
 隊長、帰って良いですか? 若しくは黙らせても良いですか?」
「どっちも不許可だ」
 そんな緊張感のない呟きも聞こえるものの、殆どの参加者は、この無意味な時間に
 怒りを覚え、会場である円形闘技場内は殺気が漲っていた。
 そんな空気にあてられた訳ではないが――――
「フランさん」
 参加者103人の内、予選会を免除された騎士二名を除いた101人が集うその場所で、
 リオグランテは普段と違うトーンで、真後ろにいるフランベルジュに話しかけた。
「……何?」
 その背中に違和感を覚えつつ、フランベルジュは最小言語だけを返す。
 延々と続く長話に憤怒する余裕もない。
 微かに声も震えている。
 フランベルジュは、緊張していた。
「覚えますか? フランさんと僕が初めて会った時のこと」
「急に何よ。そりゃ、忘れるほど昔の事でもないから、覚えてるけど」
 それは――――特に鮮烈という訳でもない、ごく普通の出会い。
 勇者候補、そして勇者の仲間を募集した城下町の札を見ていたリオグランテは、
 その中の文字の一部が読めず、悪戦苦闘していた。
 そこへ現れたのが、フランベルジュ。
 長い金髪、気品のある顔立ち。
 高額な物ではないが、何処かセンスを感じさせる深い蒼のガントレット。
 その姿を見たリオグランテは、第一声――――
「『騎士の方ですよね? すいませんけど、これなんて読むのか、教えてくれませんか?』だもの。
 忘れようがないじゃない」
「本当にそう思ったんですよー」
「ま、悪い気はしなかったけど……で、それが一体何なの?」
 徐々に、フランベルジュの声が普段通りになっていく中、リオグランテは
 変わらないトーンで言葉を紡いでいく。
「フランさんはあの時から、僕にとって憧れというか……お姉さんのような人なんです。
 強くて、凛々しくて、綺麗で」
「きゅ、急に何よ? そんな事、今まで一度も言った事ない癖に……」
「だから、いつまでも強くあって欲しいって思ってます。この大会でも」
 それは、つまり――――
「無様な姿を見せるな、って言いたいの?」
「僕はこの大会、勝ち上がります。当然、予選も通過するし、更に上へ行くつもりです」
 来賓の長話は、まだ続いている。
 しかし、その声は既に、フランベルジュには届いていない。
 馴染みの声のようでいて、初めて聞くようなその声が、耳を、脳を支配しているから。
「……随分、自信たっぷりじゃない。半月かそこらの特訓で、そんなに強くなったの?」
「はい。僕は、やっと思い出しました」
 更に、声の色が変わる。
 フランベルジュは、戸惑いすら覚えていた。
「自分が勇者候補として、旅をしている事……この街に来て、フェイルさんと出会ってから
 暫く忘れてた気がします。自分がそう言う存在だって事を」
「リオ、貴方……」
「それを、ようやく思い出したんです。自分が日に日に変わって行くのを実感して」
 その言葉は――――決して誇張ではなかった。
 フランベルジュの目にも、その変貌はハッキリと映っている。
 リオグランテの身体は、この半月で明らかに一回り大きくなった。
 筋肉が目に見えて盛り上がってくるのは、通常訓練開始から早くても1〜2ヶ月後。
 リオグランテの才能が、普通ではない事の証明だった。
「僕は勝ちます。勝ち続けます。勇者になる為に。だから、フランさんも勝ち抜いて下さい。
 そして、決勝トーナメントで戦いましょう。そうすれば、勇者一行として僕達は
 大きく飛躍できる筈ですから」
 それは――――日頃からフランベルジュが幾度となく言っている事だった。
 だが、リオグランテの声は、明らかにその復唱ではない。
 そもそも、このような事を口にする性格でもなかった。
「……変わったのね、リオ」
「はい。僕はもっと変わります。もっと成長します。勇者には、それが必要だから」
 この僅か半月で、リオグランテの声から、幼さがかなり消えていた。
 それは、頼もしい反面、どこか危うさを含んだ声。
 成長過程特有のものではあるが――――
「やっと終わりみたいですね」
「え……?」
 フランベルジュが視線を上げると、周囲からやる気のない拍手の音が聞こえて来た。
「では、開会式を終了致します。参加者の皆様は、地下の合同控え室へお越し下さい。
 尚、大会規定によりこちらで用意している物を除く武器、防具以外の持ち込みは
 禁止されていますので、うっかり持ち込まないようお願いします」
 そして、その宣言の後、参加者は散り散りになって行く。
「……私は、最初から勝ち上がる予定なの。知ってるでしょ?」
 そんな中、リオグランテとフランベルジュだけは、その場から動かずにいた。
「はい。知ってます」
 その言葉と共に、リオグランテはゆっくりと振り向く。
 その顔は――――
「一緒に頑張りましょうね! フランさん!」
 純粋無垢な、いつものリオグランテの笑顔だった。







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