この日、空は幕のような雲を覆い、大地に影を下ろしていた。
 そしてその影を、霧のような雨が叩き、至る所に灰色の水溜りを作る。
 まるで――――昂ぶった人々の心を少しでも鎮めようとしているかのように。

【エル・バタラ】開幕前日。

 それはすなわち、予選の組み合わせ抽選会の日でもある。
 街中に集まった猛者達が一斉に、ヴァレロン総合闘技場へと足を運ぶ中
 薬草店【ノート】はひっそりとリニューアルオープンを果たした。
 生憎の雨模様の中、客足はまずまず。
 本命は正午の抽選会が終わってからなので、現時点では十分な出だしと言える。
「って言うか……リニューアル当日に店主がいないって、どう言う事なの?」
 数人の客が途絶える事なく店内で商品を吟味する中、売り子を任されたアニスは
 呆れ気味に嘆息し、カウンターに肘を突いた。
「それは仕方ありません。抽選会の会場で宣伝するのも、大事な事です」
 そのアニスを、ファルシオンは半眼で諫める。
 その手には、早くも店頭から第一陣が消えた【ナタル】の小瓶が詰まった
 木箱が抱かれていた。
【ナタル】――――それは、この【ノート】の再建を賭けた、即効性を重視し
 研究に研究を重ねた、あの薬の商品名。
 昨日、フェイルが命名した。
 その名前の持つ意味は――――二人には知らされていない。
 無論、フランベルジュにも。
 全員で問い質しても、フェイルは「別に良いじゃない。たかが名前なんだから」
 とはぐらかし、教える事はなかった。
「もしかして、初恋の人の名前だったりして……」
 ポツリと、アニスが小さく呟く。
 その言葉は聞こえていたが、ファルシオンは特に何も反応を示さず、
 黙々と商品の陳列を行っていた。
「あれ? ファル姉様、このお薬草って、こっちの棚じゃないですか?」
「……あ。そうでした」
 しかし、陳列を手伝うノノのそんな指摘に、思わず頬を掻く。
「ノノさんはしっかり者ですね。良いお嫁さんになれると思います」
「そ、そうかな……えへへ」
 すっかり仲良しの二人。
 その様子を、アニスは頬杖を付きながら、じっと眺めていた。
「すいません、これお願いします」
「あ、はーい。えっと……全部で30ユローになります」
 取り敢えず、店は盛況。
 後は、本命の午後に向けて、晴れるのを待つのみだった。


「……どうにも、晴れそうにないね」
 ヴァレロン総合闘技場の入り口に小さく響き渡る、数多の足音。
 その音に混じり、腰に手を置いたフランベルジュの小さな呼吸音が、
 忙しなく右往左往する。
「ま、これくらいの雨なら、大丈夫かな。きっと。多分。なんとか……」
「ふーっ……」
 今度は、深い深い深呼吸。
 その様子に、フェイルは思わず苦笑を浮かべた。
「今から緊張し過ぎだって。今日は抽選会だけなんだから」
「別に緊張なんてしてないけど? これはただ、明日から始まる闘いへ向けての……ひっく」
 ついには、しゃっくりまで出て来た。
「ひっく……ちょっとした精神統一よひっく」
「……ま、ここまで来たらそう言う開き直りも必要だよ」
 そんなフランベルジュの肩を拳で軽く叩き、フェイルは一足先に闘技場へと入る。
 一度下見で訪れているので、そこに新鮮さはない。
 だが――――その時とはまるで、様相が異なる。
 数多の種類の殺気と緊張、熱意と野望を孕んだ今日のヴァレロン総合闘技場は、
 圧倒的なまでの威圧感を宿している。
 フランベルジュが緊張するのも、無理のない話だった。
 四年に一度、猛者の集う大会。
 その雰囲気は、既に整っている。
「で、肩の調子はどう?」
「見ての通りよ」
 フェイルの隣に追いついたフランベルジュは、左肩をぐるりと回してみせる。
「これだけ動けば十分。偶には良い仕事するじゃないの、薬草士」
「……」
 ――――その発言を鵜呑みにする程、フェイルは素直ではなかった。
 確かに、【ナタル】は予想以上の効果を生み出している。
 当初は少し動かすだけで激痛が走っていたフランベルジュの左肩は、
 ある程度の稼働にも耐え得る状態になっている。
 だが、それは回復した訳ではない。
 あくまでも、鎮痛効果によって一時的に痛みを和らげているだけに過ぎない。
 即効性重視なので、持続性もない。
 試験も兼ねて、毎日塗布しているものの、それで怪我が劇的に治ると言う訳ではないし、
 全ての痛みを消すと言う事でもない。
 だが、ここまで来て、痛いの何のと言っているようでは、どうしようもないのも事実。
 フェイルは敢えて口元を和らげ、小さく頷いた。
 そしてその後は無言のまま、抽選会場となる控え室へと向かう。
 参加者はかなり多いらしく、フェイル達以外にも、周囲は数多くの参加者と思しき
 面々が、それぞれの歩幅で同じ方向へ移動している。
「リオはもう来てるのかしら」
 フランベルジュはその中に、勇者の姿を探した。
 一方、フェイルは別の人物を探していた。
 尤も、このような無数の人間が集う場所に、その姿がある筈もなかったが――――
「フェイル」
 突然背後から掛けられた精悍な声に、思わず身を震わせる。
 振り向いたそこには――――
「……ん? どした? 死んだ魚みてーな目しやがって」
「何でもない。そっちは何でいるの」
 決して『その姿』とは似ても似つかない友人、ハルの姿があった。
「ギルド仲間の同伴……って言いたいトコだけどな。ま、ちっと用事がてらってなモンだ。
 で、どーよ調子は。冷徹剣士」
 ハルの視線が、フランベルジュへと向けられる。
 そこにあるのは、好奇の目ではなく、真剣な眼差し。
「万全よ」
 それに対する答えは、とても単純明快。
 それでいて、数多の感情が含まれた声だった。
「良い答えじゃねーか。それじゃ、とっとと入ろうぜ。古今東西の猛者連中が揃ってる筈だ」
 ハルが親指で指す先は、控え室の入り口。
 扉は開かれたままになっている為、中の様子は外からも窺える。
「行こうか」 
「ええ」
 そのハルの背中を、二人同時に追う。
 そして、入室――――
「……っ」
 それと同時に、フランベルジュは思わず息を呑んだ。
 この控え室はかなり広く、以前フェイル達が訪れた食事処【ケアプロベッチェ】の
 客室と同じくらいの、広大な空間が広がっている。
 例年通りの参加人数であれば、かなり余裕のある収容となる筈だが、
 そこに集まっている人数は、それを否定するに十分なものだった。
「参加者総数104名。【エル・バタラ】開催史上初の100人越えだとさ」
 その様子に驚いた様子もなく、ハルが苦笑しながら告げる。
「104人……それだと、総当たり戦は無理だよね。予選から勝ち残り方式かな」
「だろうな。負けが許される総当たりと勝ち残りじゃ全然重圧が違うぜ。
 覚悟しとくんだな」
「……ええ」
 先程までの強気は失せ、フランベルジュの頬に冷や汗が伝う。
 それは、予想以上に参加者が多いから――――ではない。
 そこに集った面々が独自に放つ、圧と気。
 それ等が入り乱れ、一種異様な空気を生み出しているからに他ならない。
「フランさん! フェイルさん!」
 そんな中、その空気の上を素通りするように、場違いな高い声が響き渡る。
 二人が入り口の方を振り向くと、そこには案の定、勇者の姿があった。
「フランさん、ゴメンなさい! お見舞い行きたかったんだけど、訓練が
 忙しくて……肩、大丈夫ですか?」
「心配無用よ。そっちこそ、体調は万全なんでしょうね?」
「はい。バッチリです!」
 普段通りの、リオグランテ。
 フェイルはそのやり取りに、思わず息を漏らした。
「えー、第16回【エル・バタラ】に参加予定の方は、この控え室で待機しておいて下さい。
 間もなく、予選抽選会を行います。【エル・バタラ】に参加予定の方は……」
 それと同時に、係員によるアナウンスが行われる。
 それを合図に、控え室内の空気が若干、張り詰めたものへと変わった。
 リオグランテの顔も、それまでの少年然としたものから、戦士の顔へと引き締まる。
 そこには、明らかな成長の跡が窺えた。
「もう参加予定の方は全員入られましたかーっ? それでは、抽選会を開催……」
「済まんな。遅れてしまったようだ」
 係員が開催を宣言しようとしたその矢先、入り口から穏やかな声が届く。
 その声は、確かに穏やかだった。
 だが、同時に――――重厚な人生観を漂わせた、重い重い声でもある。
 事実、その声に、室内の誰もが入り口へと目を向けた。
 そうせざるを得ない存在感があった。
 そして、その理由は、視界に入った人物を見た瞬間、誰もが悟る。
 無視できる筈がない。
 国内唯一無二の称号の持ち主。
【剣聖】の声を――――
「……がっ……ガラディーン様!?」
 係員の素っ頓狂な声が、それを確実なものとする。
 本来、王宮で指揮を執る立場の人間が、このような場所へ来る事はあり得ない。
 だが、係員の驚愕は、それとは違う部分にあった。
「貴方様とデュランダル様は予選は免除だった筈……です。ど、どうして……?」
「ヤツは既に下見を済ませているそうだが、某は今し方ようやく到着したばかりでな。
 折角の機会なので、寄らせて貰ったよ」
「は、はっ……! では、直ぐに椅子の準備を……!」
「構わん構わん。そう老人扱いするでない。まだ若いつもりなのでな」
 苦笑するガラディーンを、室内の誰もが食い入るように眺めている。
 ある者は、そのあり得ない参戦者へ驚きをもって。
 ある者は、その気さくな対応に、やはり驚いて。
 ここに集まっている者の多くは、その名を広く轟かせる猛者だと言うのに、だ。
 国内最強の名を欲しいままにする剣士の登場には、それ程の衝撃があった。
 一方、フェイルだけは一人、『何やってんだ、あの人……』と嘆息混じりに呟いていた。
「コイツは驚いたな。噂にはなってたが、ホントにアンタがやってくるたぁな。ビックリだ」
 そんな中、その剣聖に畏怖も萎縮もなく近付く者が、一人。
「バルムンク……!」
 フランベルジュが、その人物にいち早く反応する。
 しかし、その声が周囲に届く事はなく、皆が国内有数の強者同士の会話を
 固唾を呑んで見守っていた。
「アンタやデュランダル=カレイラみてぇなエリート連中が、庶民の娯楽に
 何の用があるかは知らねぇが……良いのか?」
「何が、良いのかな?」
「ここには、アンタ等に勝つ可能性がある人間が、何人かいるぜ。
 誉れ高き【銀朱】の大将と次期大将が、野暮ったい俺等なんぞに屈したとあっちゃ、
 国の沽券に関わるんじゃねぇか、と思ってな。なぁに、ただの思いやりだ」
 それは――――誰が見てもわかる、露骨なまでの挑発。
 しかしそこに安っぽさはない。
 明らかに、バルムンクは心底楽しそうにしていた。
「余り、そう言う発言を軽々しくするものではないですな」
 そんな狂戦士の隣に、もう一人の強者が並ぶ。
「偽紳士野郎……いたのか」
「無論いますね。私も参加者の一人ですから」
 傭兵ギルド【ウォレス】代表取締役、クラウ=ソラス。
 その出現に、再び室内の空気が変わる。
 そして、フェイルもまた。
「……」
 射抜くような鋭い視線を、標的だった男へと向けた。
 或いは――――自分自身へ。
「剣聖。私は貴方の参加を心より歓迎します。が、もし私と本戦でぶつかる事があれば、
 是非お心添えを。代わりのいない身、無理をする事は決して利にはなりますまい」
 それは――――誰が聞いてもわかる、露骨過ぎる駆け引き。
 既にこの場で、闘いは始まっていた。
「はっはっは。話には聞いていたが、この区域には随分と猛者が揃っているようだ」
 だが、そんな二人をも、ガラディーンは包み込むように笑い飛ばす。
 それに対し、ギルドを代表する二人もまた、それぞれの表情で余裕を持って受け止める。
 三人の周囲が突然隆起し、天井を突き破って、遥か上空へと伸びて行く――――
 そんな錯覚を抱かせる程、別次元での会話。
 そこに果たして、何人がついて行けるのか。
 第16回【エル・バタラ】の構図が、徐々に浮き彫りになってきた。





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