人間、何かしらの目標があると、心に張りが出来る。
 そしてそれは、具体性を帯びる事で、より顕著となる。
 それは強固な壁となり立ち塞がる障害にもなるし、真っ暗な中を灯す炎にもなる。
 誰もが体験する、不思議な感覚。
 こんな時、人は自分が思っているよりも遥かに力強い成長を遂げるものだ。
「……せいっ!」
 今までとは明らかに違う、活きた声。
 フランベルジュの動きは、怪我人とは思えないほどに軽快だった。
 何より、これまでの早朝訓練とは比較にならないほど、目的意識が明確になっている。
 ハルの攻撃に対し、これまではただ漫然と『受け』と『回避』を繰り返していたが、
 今は全身をくまなく稼働させ、ハルの力を極力逃がしながら、自分に負担のないよう
 守りに徹している。
 斜めからの斬り落としには、ほぼ真っ直ぐ振り下ろす形で叩き落とす。
 突きに対しては、剣の根元を使い、ハルの剣の側面を払うようにして軌道を変える。
 誰かに指導されて、と言う訳ではない。
 トリシュの動き、或いはハルの動きを参考にしながら、そして、昨日自らが体現した
 無意識下の動きを一つ一つ確認するように、丁寧な攻防を繰り返していた。
「よーし。今日はここまで」
 その集中の為か、フランベルジュはハルの宣言を受けても、暫く身構えたまま
 次の攻撃を待っていた。
「フラン、終わりだよ」
 フェイルのその言葉で、ようやく緊張を緩める。
 直後、その手や顔から、夥しい量の汗が滲み出て来た。
「ふぅ……」
 それを拭いながら、フランベルジュは充実した表情を覗かせる。
 これも、今までには見られなかった変化の一つだ。
「……」
 そんな女性剣士に、アルマがトコトコと近付き、汗拭き用の清潔な手拭を差し出す。
 それを笑顔で受け取り、フランベルジュは身体を清める為、水路へと向かった。
【メトロ・ノーム】は地下水路を利用した都市なので、川のように水路が
 各所に存在しているが、その至る所にゴミなどを堰き止める為の網が張られている。
 そして、アルマ邸から1kmほど離れた地点には、その網で出入り口を挟む形で
『水桶』のような空間が作られている。
 いわゆる『水の関所』と言う作りになっており、そこで水が濁っていないかを
 確認する為に作られた施設だが、特に水質に問題が生じる事はなく、
 今となっては【メトロ・ノーム】の浴場代わりになっており、主にアルマの
 水浴び場と化している。
 大陸一の美女と言う呼び声すらあるアルマの水浴びを覗こう――――
 等と考える輩も以前はいたらしいが、それがバルムンクにバレれば
 確実に本当の棺桶に入る事になる為、現在は非常に安全。
 そんな背景もあり、フランベルジュは早朝訓練の後にこの水浴び場を利用している。
 あくまで地下水路の一部なので、元々は壁も仕切りもないただの『広い水路』
 だったが、水浴び場となった事で改装され、現在は網部以外を石造の壁で囲んだ、
 個室のような状態となっている。
 だからこその『水桶』だが、当然その室内全てが水で満たされている訳ではなく、
 一般的な身長の女性のちょうど胸の上部まで浸かる程度の、絶妙な水嵩が保たれている。
 鎧と服を脱ぎ捨てた金髪の女性は、そんな水桶に身を浸し、ほうっと息を吐いた。
 そして、水面の下で揺れる二つの掌を、ぐっと握る。
 そこには、確かな手応えがあった。


 ――――フランベルジュ=ルーメイアには、確かなものが二つある。
 ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の環境で、裕福でも貧困でもない暮らしを
 10年ほど続けていた。
 そんな中、徐々に彼女を取り巻く環境は変わって行く。
 きらびやかな金髪。
 妖しげな猫目。
 上品な顔立ち。
 まるで貴族のような華やかさを、フランベルジュは容姿として内包していた。
 幼少期こそ、あどけなさに隠れて目立たなかったが、徐々に大人びて行くにつれ、
 その才能は開花して行く。
 それを、フランベルジュ自身が自覚する事になった原因を作ったのは――――
 他ならぬ、彼女の父親だった。
 石工として、街中でも指折りの腕を持っていたフランベルジュの父は、
 安定した生活と、朗らかな笑顔を娘に与える理想の父親――――と、
 周囲の人間は誰もが思っていた。
 勿論、娘であるフランベルジュも。
 だが――――それは脆くも崩れ去る。
 雨の日だった。
 母親も寝静まった、深夜。
 月の見えない、足音も聞こえないその夜、フランベルジュの寝室を
 父親は訪れた。
 彼は、仕事で大きな失敗をしてしまっていた。
 それも、ただの失敗ではない。
 街で最大の権力を有する貴族の屋敷の外壁を、誤って設計してしまい、
 そのまま施工してしまうと言う失態を犯していた。
 その腕を信頼し切っていた依頼主が、完成まで確認せずにいた事が
 完全に裏目に出た格好となった。
 修正は不可能。
 一から作り直すとなれば、莫大な費用が掛かる。
 しかし、貴族はそれを命じた。
 完璧主義者――――と言うよりは、『失敗作を放置する事は、貴族として許されない』
 と言う価値観を持っているが故、だった。
 無論、取り壊しの費用から再施工まで、全てフランベルジュの父親が担う事になる。
 当然、そんな事は出来はしない。
 だが、やらなければ、全てを失う。
 人生をかけて築き上げた、石工としての地位も名誉も。
 誇りも。
 将来設計も。
 父親は――――娘を売る事を選んだ。
 どんな優しい人間にでも、追い込まれた時、それは現れる。
『悪魔』。
 決して呪いの類ではない。
 人心にこそ、悪魔は潜む。
 フランベルジュはその日、悪魔を見た。
 あの優しく勇ましかった父親の顔は、そこにはなく。
 その隣で悍ましい笑みを浮かべる貴族の男と共に、深淵の闇を纏っていた。
 その時の会話を、フランベルジュは憶えていない。
 だが、そこに込められた狂気だけは、外傷となって心に痕を残している。
 迫りくる大人の男二人を相手に、まだ成長過程にある女の子が出来る事は――――
 ひとつだけ。
 逃げる事だけしかなかった。
 幸いだったのは、天候。
 足音と炎の灯りを消してくれる雨粒の群れがなければ、フランベルジュは確実に
 貴族の慰み者となり、その後の人生は全く違うものになっていただろう。
 しかし、身体の無事と引き換えに、他の全てを失った。
 帰る場所も。
 平穏な日常も。
 優しかった、父親も。
 一日中降り続く雨の中、震えながら、怯えながら明かした夜。
 それが、『確かなもの』。
 この日を境に、フランベルジュは病弱になった。
 夜に外で過ごす事が、恐ろしくなった。
 特定の条件を有する男に対し、強迫観念にも似た怯えを抱くようになった。
 この夜の遺産は、長年の間、彼女を苦しめる事になる。
 しかし、幾ら苦しんでも、弱者に差し伸べられる手などない。
 自ら、その手を掴みに行かなくてはならない。
 一人で生活する力を持たない当時のフランベルジュは、親戚のリングレン家を頼った。
 父親はおらず、母がパン屋を営み生計を立てていたその家は、理由も聞く事なく、
 快く彼女を受け入れる。
 そこでフランベルジュは、ガーナッツ戦争で大活躍した王宮騎士団『銀朱』の騎士
 デュランダルに憧れを抱き、剣士の道を目指す、二つ年上の従姉クトゥネシリカと、
 その妹で盲目のフレイアと共に、穏やかな日々を過ごした。
 だが――――幾らそこが温かくても、明るくても、あの日の夜は消えない。
 あの『闇』は、フランベルジュを蝕み続けた。
「フランベルジュ。君も、剣士を目指してみてはどうだろう。自己鍛錬になるぞ」
 そんな、とある日。
 王宮騎士団への入団試験を受ける為、家を出る事になったクトゥネシリカの
 何気ない一言が、フランベルジュの人生を大きく変える事になる。
 その翌日――――リングレン家では、それまで同様、素振りの音が聞こえ続けた。
 だが、その音は直ぐに止む事になる。
 代わりに鳴り響いたのは、パン屋の軋む音。
 程なく、その場所から焼き立てパンの香りが消えてしまった。
 元々、経営的には遥か前に限界を迎えていたが、それに加え、クトゥネシリカの
 路銀と、暫く生活できるお金を工面した事で、存続は不可能となった。
 だが、リングレン家の母はその事を直前まで誰にも告げる事はなく、
 一人で悩み続けた。
 夢を追いかけ家を出た娘に、心配をかけない為。
 光りなき世界で優しく輝く娘を、どうにかして守る為。
 そして、哀れな居候に、気を使わせない為。
 その結果、心労は重なり――――リングレン家の母は倒れる。
 穏やかに。
 本当に穏やかな顔で、彼女は最期の時を迎えた。
 フランベルジュはその時、もう一人の母を失った。
 再び生活の場を失ったフランベルジュは、フレイアをクトゥネシリカのいる
 王宮に届け、旅に出る。
 その王宮へ、自分もいつか辿り着く。
 そんな事を夢見て。
 夢にしがみ付くように、もがき続けた。
 再会は――――二年後。
 それは必然だった。
 勇者一行への加入が決まり、その報告の為に訪れた墓の前で、手を合わせる
 姉妹の姿があった。
「そうか……良かったじゃないか。良く頑張ったな」
 都落ちと言う形で戻ってきたクトゥネシリカだったが、その顔は
 とても穏やかで、そこに母親の面影を見たフランベルジュは、
 溢れ出す思いを零さぬよう、そっと天を仰いだ。

 想いは――――継がれる。

 懸命に娘を育てた母のパンは、その娘達へと。
 男の世界に挑み続けた女性の誇り高き剣は、新たに高みへと挑む女性へと。
 もう一つの『確かなもの』を背負い――――フランベルジュは、思い出に背を向け、
 茨の道にその細い足を踏み入れた。
 

「……何で女の行水ってには、こんなに時間かかんだろーな」
 アルマ邸で寝転がるハルが欠伸を噛み殺す中、フェイルは頬を掻きながら、
 ある一枚の紙と向き合っていた。
 その紙には、アルマの書いた『メトロ・ノームの地図』が広がっているらしいのだが、
 フェイルの目には『四角い顔の猛獣使い』にしか見えない。
 何本もの鞭を、やたら首の長い四足歩行の生物にビシビシ叩き付けているような
 奇妙な躍動感とか臨場感が漂っている。
 当然、地図にそんなものは普通、ない。
「……」
 だが、その地図をさも『自信作なんだよ』と言わんばかりの顔で
 手渡して来たアルマの手前、首を捻る訳にもいかず、全力で読解を試みているが、
 全く要領を得ず、窮地に立っている。
「案外、襲われてたりしてな。そんで、『キャー、助けてー』って素っ裸で逃げて……」
「それはないと思うよ」
「わかってて言った」
 特に高揚もなく告げるハルに、フェイルは半ば呆れつつも、時間稼ぎの為に
 敢えて話を膨らませる事にした。
「ま、襲われてはいないにしても、少し長いね。今日の特訓に手応えを感じて
 満足感に浸ってるのかな」
「かもな。にしても……お前は大した師匠だよな。今まで散々スパルタ路線で
 来てたってのに、いきなり褒めて伸ばす路線に変更たーな」
「別に褒めてはいないけど」
「同じこったろ。敢えて俺に手加減させて、トリシュとの仕合で掴んだって言う
 戦闘スタイルを『こりゃ使えるわ』って思わせるワケだからな」
 この日の特訓前――――フェイルは、ハルに一つの注文を出していた。
『わかりやすい攻撃をお願い』
 つまり、守り易い攻撃と言う事だ。
 先日の仕合で、守戦に光明を見出したフランベルジュが、ハルとの実戦訓練でも
 それが通用したと認識すれば、自ずとその闘い方にシフトする。
 そう目論んでの事だった。
「いやー、策士だな。アルマの嬢ちゃん、この男かなりのやり手だぜ。
 気を付けねーと、えらい目に遭わされっぞ」
「あのね……」
 ジト目で友人を睨むフェイルに、アルマがトコトコと近付く。
「言っとくけど、僕はそんな……え? それより早く地図の感想を?
 いやその、あの、えっと、何と言うか、勢いを感じる気がする。
 こう、ガーッと。食べられちゃうぞー! みたいな」
「……」
 アルマはしょんぼりしながら奥へと引っ込んだ。
「やーい、フラれんぼー」
「煩いよ」
 頭を抱えるフェイルとは対照的に――――
「さて、それじゃ戻りましょうか」
 戻ってきたフランベルジュの目には、眩い光が宿っていた。


「……と言う訳で、本日は臨時休業です」
 帰還と同時に訪れたのは、突然のそんな通告。
 街に戻ったフェイルは、【ノート】の前で疲れ切った顔をしながら肩を落とす
 ファルシオンと、珍しく店を訪れていたリオグランテの二人を交互に眺め、
 そして首を大きく捻った。
「いや、何が『と言う訳で』なのかわからないんだけど。どうして店主の僕が
 朝から臨時休業を店員に告げられるの」
「これに関しては、現場を見て貰った方が早いと思いますので、こちらへ」
「あ、そ、そうだね……きっと早いよね、その方が」
 妙に畏まったファルシオンと、明らかに動揺しているリオグランテに続き、
 フェイルとフランベルジュは店内へと向かった。
 その一角が、こんがりと焼けていた。
「……………………は?」
 昨日まで普通に営業していた店が、なんか燃えていると言う事実。
 フェイルはそんな光景を前に、愕然顔のまま固まった。
「一から説明しますと、フェイルさんにリッツさんを紹介しようと、
 このお店を訪れたリオを、何者かが襲撃。私達の『届け物』を狙う刺客か、
 リッツさんを狙った誘拐事件の関係者か……はわかりませんが、
 襲われた以上は反撃をしなくてはならないので、私も加勢し、魔術を
 放ったのですが、結果的にボヤ……」
「何で赤魔術使ったの! 青で良いでしょ青で! 氷で!」
 全力で吼えるフェイルに対し、ファルシオンが首を左右に振る。
「私は青を使いました。赤魔術を使ったのは、襲撃者の方です。
 結果的にボヤで済んだ、と言いたかったんです」
「あ、ああ、そうだったんだ。ゴメン、早とちりだった」
「いえ。結果的に、私の青魔術で薬草の一部がダメになっていますし、
 謝られるのも気が引けます」
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!? コレ高かったのに!?」
 薬草は、温度管理が難しい商品。
 中には、低い気温だと直ぐに萎れる物もある。
 フェイルは、腰から砕け、地に伏した。
「すいません……僕たちの所為で」
「いえっ。わたくしが悪いのです。きっとアレは、わたくしを狙った小悪党。
 リオはそれを全力で、全身全霊を注いで追い払い、わたくしを護ってくれた
 だけなのです」
「リッツ……」
「リオ、ありがとうございます。わたくし、嬉しかった……」
「リッツ、君を護るなんて当たり前の事だ。僕はまだそんなに強くないけど、
 絶対にもっと強くなって、君のお父さんに認められるよう頑張るよ」
「リオ……わたくし、リオを信じます!」
「うん!」
 ――――以上のやり取りが、フェイルの頭上で行われ続けた。
「僕、これまで誰かの為に頑張るなんて事……」
「いつまで続ける気だーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 さすがにキレた店主が、勢いよく立ち上がる。
 いつの間にかしれっと現れていたリッツ嬢が怯える中、フェイルは
 ふつふつと沸き上がる感情で口元を引きつらせつつ、フランベルジュに目を向ける。
「な、何? その目、怖いんだけど……やさぐれてて」
「煩いな! 兎に角、今日はもう色々無理だし臨時休業! 掃除任せたらもっと
 事態が悪化しそうだし、もうみんな一緒に下見行くから! 【エル・バタラ】の!」
 半ば自棄になったフェイルは、その場の全員を連れ、【ヴァレロン総合闘技場】
 へと向かう事にした。





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