酒場【ヴァン】は、アルマの家から徒歩30分程の場所にあった。
 意外な事に――――周囲に他の建築物はない。
 通常、酒場のような娯楽施設は、いわゆる『歓楽街』と呼ばれる数々の 
 施設を集合させた地帯に位置するものなのだが、そう言った地上の常識は
 この【メトロ・ノーム】では通用しないと、フェイルはどんどん薄暗くなって行く
 景色を眺めながら、静かに実感していた。
「この照明って、一気に暗くなるんじゃなくて、ジワーって暗くなるんだ」
「そうだよ。地上の夜も、こんな感じなんだよね?」
 酒場の前で歩を止めたアルマが、不意にフェイルの顔を覗き見る。
 それは――――この女性が、地上の夜を経験した事がない事を意味していた。
 或いは、地上に一度も出た事がないのかもしれない――――フェイルはそれを
 聞こうか聞くまいか迷った挙句、首肯するのみに抑え、酒場の方に視線を向けた。
 建築様式は、ヴァレロンにある施設と変わらない。
 木材で骨組みを造り、レンガを積んだと思われるその建物は、温かみに溢れており、
 ここが地下街である事を忘れさせるには十分な、日常的に見かける建築物だ。
 そんな酒場の外観を一通り眺めているフェイルに対し、アルマはあっさりと
 入り口の扉に手を掛けた。
 刹那――――
「アルマか。珍しいな、君がここを訪ねてくるとは」
 渋みのある声が店内から聞こえて来る。
 マスターと思しき人物である事は容易に推測できたので、フェイルは
 その声から外見も渋い、オールバックで整った口髭を蓄えた深みのある顔を想像し、
 アルマに続き店内に入った。
「ん? 新入りか? 今日は随分と新顔が多い日だな」
 その視界に入ったのは、今にも破裂しそうな巨体。
 身長はフェイルより頭二つほど高く、顔の面積も倍近い。
 そして、体重は恐らく4倍はあると思われるほど、横に膨らんでいた。
 その割に深い彫りの名残を微かに残す顔は、脂肪を削ればいかにも
 マスターと言う顔つきだけに、かなりの違和感。
 髪型もピッチリと7:3で分けており、それもマスターらしいだけに、
 余計異様な空気を醸している。
「……フェイル=ノートと言います」
 その巨体に対し、フェイルは目を見開きたい心境をどうにか抑え、
 にこやかな笑顔で一礼した。
「中々礼儀正しいじゃないか。良い心がけだ。この地下街は無法地帯だからこそ、
 それぞれの自戒がそのまま評価に繋がる。この酒場のマスター、
 デュポール=マルブランクだ。末永い付き合いをしたいものだな」
 そんなフェイルに渋い笑みを見せるデュポールは、その仕草だけで大量の汗を
 かいており、かなり活発な新陳代謝を見せていた。
「さっきの物言いだと、他にも新顔が来たって事なのかな?」
 そんな水分過剰気味のマスターに対し、その麗らかな双眸を向け、アルマが問う。
 すると、デュポールの目が奥の席へと向けられた。
 そこには――――
「……う」
 フェイルにとって、非常に馴染みの深い三人が、勢い良く食事を口に含んでいる
 姿が見受けられ、嘆息を禁じえなかった。
「あれ? あそこにいるの、フェイルさんじゃないですか? フェイルさーん!」
 その中の一人、リオグランテが目聡く気付き、大きく手を振る。
 フェイルは他人の振りをしたい欲求を抑えられず、思わず無視してそっぽを向いた。
「人違いじゃないの? どうしてあのダメ薬草士がここにいんのよ」
「確かに、接点を感じられません。割と良くある顔ですし」
「いや、あの人はフェイルさんです! フェイルさーん! 僕ですよー!
 リオグランテ・ラ・デル・レイ・フライブール・クストディオ・パパドプーロス・
 ディ・コンスタンティン=レイネルですよー!」
 フルネームで叫ばれても、最初の六文字しか覚えていないので全く意味がない。
 とは言え、その呪文を連呼されるのも体裁が悪い為、頭を抱えたい心境で
 フェイルは手を振り替えした。
「ほら、やっぱり! 僕がフェイルさんを見間違える筈ないですもん!」
「更に体裁が……」
 気味の悪い事を言い出したリオグランテに対し、フェイルはついに眼精疲労を
 自覚し、指で眉間を揉んだ。
「知り合い?」
「一応。僕の店の従業員」
 勇者一行と紹介するのは色々な意味で危険だと判断し、アルマの疑問に答える。
 尤も、既にマスターには自己紹介している可能性があるが――――
「旅の一行と聞いていたんだがな。ま、訳アリなんだろ。アルマも余り
 深く追及してやるな」
 その辺りの事情を察してか、デュポールは一つの酒場を統べる人間らしい
 器の大きさを見せつけた。
「別に、そこまで知りたかった訳じゃないんだけどね」
 少し拗ね気味に呟き、アルマは勇者一行の方に歩を進める。
 その背中を追いながら、フェイルは他の席に目を移した。
 まだ『夜』になり始めの時間帯とあって、殆ど空席となっているが、
 中には剣士と思しき長髪の男や、フードで顔を覆った魔術士と思しき人間、
 弓を携えた狩人の姿等が散見される。
「この【メトロ・ノーム】に常駐している人間は、オレとアルマ以外には
 殆どいない。皆、地上とここを行き来して生活している。地上での
 柵や立場を持ち込む事なく、自分の理想や目的に没頭している。この酒場は、
 そんな『荒野の牢獄』にある止まり木のようなものさ」
「荒野の牢獄……」
 奇妙な表現ではあるが、ある意味この地下街には適合した表現だと、
 フェイルは思わず感心した。
 その中には、自由しかない。
 しかし、全ては天井と壁に囲まれた世界の中での出来事。
 そして、牢獄の中では地位も名誉も財力も関係ない。
 そんな場所に足を運ぶ人間は、例外なく『訳アリ』なのだろうと、理解する事は
 難しくはなかった。
「尤も、人間が二人いれば、そこには権力が生まれ、格差が発生し、争いが
 生まれるのも人間の持つ摂理。ここにはここの勢力図がある事も覚えておくといい」
 それだけを言い残し、マスターのデュポールはフェイルに背を向け、
 棚の整理を始めた。
 話し相手を失い、仕方なく勇者一行のいる一角へと向かう。
 先に合流していたアルマは――――何故か同席して食事を取っていた。
「どうして貴方がここにいるの? 用があるのは香水店だったんじゃなかった?」
 その隣に座るフランベルジュが、ワインを口に含むついでに
 そんな事を聞いてくる。
 既に頬が紅潮しているが、呂律はしっかり回っていた。 
「その過程で、ここに連れて来られたんだよ。そっちは貴族のお嬢様を探してるんじゃ
 なかったの?」
「私達も、その過程でここへ」
 答えたのは、フランベルジュではなく、その対面に座るファルシオンだった。
 こちらは酒類には一切手をつけておらず、野菜をもしゃもしゃ食している。
 そして、喉にそれを通した後、声の音量を極端に下げ、囁くように告げた。
「そのお嬢様がこの【メトロ・ノーム】に来ている、と言う噂があって」
「……本当に?」
 それは、俄かには信じ難い話ではあった。
 一応、この地上で数年ほど生きてきたフェイルですら、その存在を知らなかった
【メトロ・ノーム】と言う空間に、貴族のお嬢様が迷い込む可能性は極めて低い。
 何より、ここはアルマによって出入り口を管理されている。
 もし侵入者がいれば、アルマが気付く筈だが――――
「此方は把握してないよ」
 殊更強い口調で、そう断言した事が、更なる疑惑を生んだ。
「だとすれば、噂が噂に過ぎないか、それとも……」
「此方を欺く方法を用いたか、だね。ないとは言い切れないかな。此方も
 万能じゃないからね」
 普通に考えれば、前者。
 何しろ噂だ。
 その信憑性は、決して高くはない。
 ただ、その噂は【メトロ・ノーム】の存在を知っている人間が流していると言う
 事が前提としてある。
 状況的に、かなりの情報通、或いは権力者でなければ、この地下街の情報を知る事は
 出来ないと推測されるだけに、その辺りのチンピラがホラを吹いただけ、と言う
 可能性は削除しなくてはならない。
 となれば、後者の可能性を無視する訳にはいかない。
「……あの、一体どう言う事なのでしょうか?」
 置いてきぼりになったファルシオンが、珍しく少し尖った声で聞いてくる。
 表情こそ変えていないが、不満がかなりあったらしい。
 フェイルは苦笑したい心持ちで、アルマを紹介しようと口を――――
「マスター! 大変だ!」
 開こうとした瞬間、酒場の入り口から悲壮な声があがる。
 血相を変えて叫ぶ男の姿に、フェイル達だけでなく、他の客も食事の
 手を止め、何事かと視線を向けていた。
「狼煙があがった! 土賊の連中、活動を始めやがった!」
「何?」
 土賊――――余り危機覚えのない言葉に、フェイルは眉を潜める。
「この【メトロ・ノーム】で不埒な行為を行っている盗賊団だよ。
 と言っても、確固たる組織じゃなくて、元傭兵やならず者が戦略上一時的に人数が
 必要な場合に徒党を組む事があって、それを便宜上そう呼んでるんだけどね」
 的確な解説がアルマから行われる。
 つまり――――この地下街にも、地上と同じように盗賊行為に及ぶ無頼漢がいて、
 それらが集団で活動する場合にそう呼んでいるらしい。
 狼煙は、盗賊が士気を上げる為の儀式に良く使われるもの。
 土賊も、それを実行しているようだ。
「地下街の情報が集まるこの酒場も狙われるぞ。どうする? 今から
 バルムンクを呼んで来て貰うか?」
 バルムンク――――土賊出現の報を届けに来た男は、確かにその名を口にした。
 瞬間、フェイルの後方にいたフランベルジュが、一種の気を放つ。
 それは、彼女にとって忌み名も当然だった。
 屈辱を味わい、辛酸を嘗めた敵。
 リオグランテが思わず身を竦ませる中、フランベルジュは静かに前進し、
 話し合いが行われているカウンターへと近付いた。
「バルムンクと言う男も、ここの住人なの?」
「え? あ、ああ。彼はかなり昔からいるよ。この【メトロ・ノーム】の治安が
 維持されているのは、あの人の影響力がかなり大きい」
「……嬢ちゃん。バルムンクと知り合いなのか?」
 男の返答、そしてマスターの問いに、フランベルジュは小さく頷く。
 そして意を決した顔を、ファルシオンに向けた。
「はぁ……」
 そのファルシオンが溜息を落とす。
 何かを察した顔。
 そしてそれは、フェイルもある程度予想出来るものだった。
「是非その男を呼んで。それまでは私達がここを守ってあげるから」
 やはり――――そんな言葉がアルマを除く三人の頭に落ちてくる。
 ここを再戦の場とするつもりなのは明白だ。
 既にフランベルジュの頭からは、貴族のお嬢様を捜索すると言う目的は
 消えているのだろう。
「フェイルさんは、どうします? ここにいると、騒動が起こりそうですけど」
 リオグランテが珍しく気の利いた問い掛けをしてくる中、フェイルは
 アルマに視線を向けた。
「此方は暫くここにいるよ。杖がないから、大した事は出来ないけどね」
「なら、僕も残るよ」
 フェイルはそう答え、頬を掻く。
 その様子を、半眼で眺めるフランベルジュの立ち姿が視界に入った。
「美人には優しいのね。知らなかった」
「そう言う訳じゃないよ。実際、あんまり優しくしてないでしょ?」
「……」
 フェイルの返しは予想外の内容だったらしく、フランベルジュは閉じかけていた
 瞼を上げ、若干頬を赤らめていた。
 やはり、守備力に難がある――――苦笑を漏らしながら、カウンター席まで歩き、
 マスターと対峙。
「ここ、弓とか矢って置いてませんか?」
「流石に武器は置いてないが。お前、弓使いだったのか?」
「一応。そうですか、ないなら仕方ないな……」
 再び頬を掻きつつ、フェイルは改めて酒場全体を見渡し――――今度は客の中の
 一人に近付いて行く。
「すいません、もし弓と矢を複数持ってたら、貸してもらえませんか?
 お金払いますから」
 それは、狩人と思しき客。
 突然の不躾な願いに対し、明らかに怪訝な顔つきで――――
「……予備のでよければ」
 それでも、あっさりと許可してくれた。
 ここに土賊が現れる事を想定するならば、戦力は多い方が良い。
 そう判断したのだろう。
 異論などある筈もないフェイルが頷くと、狩人の男はカウンターへ向かい、
 預けていたと思しき手荷物を受け取り、大きな皮袋からかなりコンパクトな
 弓と矢筒を取り出す。
「ホラ。予備だから、質は保証しないぞ」
「十分です。ありがとうございます」
 受け取りつつ、礼と共に借賃を渡す。
 一応、契約の際に必要な雑費があるかもと踏んで持ってきていた、なけなしのお金。
 とは言え、状況的に惜しむ事は出来ない。
 矢筒に入った矢は5本。
 多くはない――――が、少なくもない。
 フェイルはそう判断し、筒内の矢を取り出す。
 矢は、それだけでは武器として不十分。
 ここに付加を持たせ、はじめて脅威となる。
「それじゃ、俺はバルムンクを呼んでくる。君達、ここを頼んだよ」
 作業中、有益な情報をもたらした男は、再び酒場を全力疾走で飛び出して行った。
 その姿を見る事なく、一通り矢に手を加え終えたフェイルは、勇者一行のいる
 テーブルへと戻る。
 いつの間にか、フランベルジュも戻っていた。
「意外だね。戦える人には見えないけど」
「ま、支援くらいなら、ってところ。主戦力はそっちの三人だし」
「任せて下さい! 何かの縁があって来た場所ですから、頑張って守りますよ!」
 覚悟が伝染したのか、リオグランテも意気込む。
 ファルシオンは無表情のままだったが、特に異論はないらしく、魔具である
 指輪を布で拭いていた。
「随分と頼りになりそうな奴等じゃないか。俺の出番はないかな?」
 そんな勇者一行に、長髪の剣士が近付いてくる。
 一目でわかるほど、無駄を削ぎ落とした身体。
 明らかに実力者だ。
 フェイルがふと周囲を見ると、彼以外の数人の客も、こちらに視線を向けている。
 流石は勇者一行。
 このような場所であっても瞬時に注目の的になるのは、紛れもなくその素養の
 成せる業だ。
「どうでしょうね。貴方がその外見に違わない実力を持っていれば、見せ場は
 十分あるんじゃないの?」
 気の強いフランベルジュは、予想通り強気の口調。
『この酒場を守る』と言う点においては仲間となる二人の筈だが、この場での
 主役となる事に関しては、明らかに相容れそうにない。
 そんな好戦的な二人を尻目に、フェイルはアルマに視線を向けた。
「その土賊って、良く活動してるの?」
「そうでもない、かな。最近は特に、大人しくなってたんだけどね。
 結構強い人達が多いから、ここの住人には」
「みたいだね。でも、だったら何で……」
 そこで言葉を止め、フェイルは一つの可能性を頭中で仮定した。

 もし――――本当に、スコールズ家のお嬢様がこの【メトロ・ノーム】にいるとしたら?

 もし――――そのお嬢様を、土賊とやらが狙っているとしたら?

 それは活動を始める理由としては十分だ。
「もしかしたら――――」
 フェイルのその言葉は、数多の足音と叫び声によって遮られる。
「ちょーっといいか? 聞きてぇコトがあんだけどよ」
「あるんだああァァァァァァ!」
「あるのよォオォォォォォォ!」
 予想よりも遥かに早く――――その連中は、酒場【ヴァン】に現れた。





 

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