それは、大き過ぎず、小さ過ぎず。
 何処にでもある、ごく普通の弓。
 近年普及し、非力な者でも一定の威力で矢を放てるクロスボウでもない。
 そんな、武器屋に行けば誰でも買える弓を引き、フェイル=ノートは眼前の標的を狙った。
 眼前――――その表現を戦闘中の弓使いが使う事は、まずあり得ない。
 何故なら、弓使いが敵と対峙する事はないからだ。
 遥か後方から、高部から、或いは馬上から。
 敵に攻撃を受ける事のない場所で、敵を射抜く。
 それが、弓を使う者に課せられた仕事。
 しかし、フェイルは、標的と僅か2mしか離れていない場所で、弓を引いた。
 番えた矢が放たれるとほぼ同時に、その矢は――――標的の持つ剣の柄頭に辺り、弾けた。
 決してそこを狙った訳ではない。
 それは、超高等技術による防御。
 至近距離で放たれた矢を、その軌道を先読みし、柄頭で叩き落したのだ。
 このような芸当が出来る人間が、果たして世界に何人いるのか。
 戦慄と同時に高揚を覚えながら、フェイルは即座に弓を掴む左手の手首を捻り、弓の末弭で
 矢羽を引っ掛けるようにして、背の矢筒から一本だけを抜き出す。
 宙を回転しながら舞う矢がフェイルの頭上へ舞い、最短経路で正確に右手へ届き、それを
 掴もうとしたその時――――フェイルの頭は大きく沈んだ。
 外的な力によるものではない。
 それは、回避だった。
 沈んだフェイルの頭は、掠めた衝撃で強烈な痛みが走る。
 ただ、直撃ではなかった。
 標的の繰り出す打突は、力感のない、適度に加減された速度で、フェイルを襲撃して来た。
 尤も、それは一流剣士の全力の突きに相当するスピード。
 その軌道と狙いが予想出来ていても、直撃を避ける事が精一杯だった。
 フェイルの身体は、無理やり沈ませた事で大きくバランスを崩している。
 ただ、軸は乱れていない。
 それは、次の行動に必要な体重移動を行う為には、絶対に必要な事。
 近距離戦をこなすには、絶対に必要な事。
 フェイルの次なる行動は――――大腿筋と下腿筋の稼動。
 身体を左に傾けたまま、右足を小さく上げ、着地寸前の矢を蹴る。
 その矢は回転しながら、標的の顔面を大雑把に襲った。
 人間は、眼に接近してくる物を反射的に除去しようとする。
 それは、本能。
 どれ程の手錬でも、それを抑えるには一定の時間を要する。
 フェイルは、その一瞬を利用し、後方に飛びながら三本目の矢を二本目と同じ方法で抜いた。
 二本目の矢が、真っ二つに折れ、左右へと流れていく。
 その中央から――――フェイルの射た矢が風を巻いて走る。
 矢を筒から抜き、番い、弦を引き、矢を射るまでの所要時間は、標的が眼前の矢を払うように
 切断するより――――僅かに速かった。
 それでも、三本目の矢が標的を射抜く事はなく、掠める事すら叶わなかった。
 常軌を逸した反応速度。
 標的は、目の前まで迫っていた矢を、細い鍔を使って弾いた。
 そして、その構えを利用し、次の攻撃へと移る。
 この切迫した中で、まるで彫刻師が迷いなく彫り続ける所作の様に、冷静に、合理的に。
 フェイルはその瞬間、終焉を覚悟した。
 そう。
 訓練の終焉。
 そして――――自身の弓術の果て。
「ここまで」
 標的――――エチェベリア王宮騎士団【銀朱】副師団長デュランダル=カレイラは、
 普段と変わる事なく、抑揚を付けずに告げた。
 手にするその剣は、愛用のオプスキュリテではない。
 鋭利さを排除した、両峰の剣。
 当然、抵抗力は膨大に上昇する。
 鋭い斬撃や打突など、望むべくもない。
 それでも尚、そしてそこに手加減を加えても尚――――その剣の放つ煌きは、
 栄えある王宮騎士団でも有数のレベルにあった。
「上出来だ。ここまでやれるのなら、近距離戦をこなすと胸を張っても良い」
 表情は変わらない。
【銀仮面】と呼ばれる所以。
 ただ、その声にはいつもと異なる音が含まれている。
 ずっと、その声を聞き続けてきたフェイルには、それがわかった。
「……本当に、出て行くのか?」
 そして、次のその言葉を聞いた時。
 フェイルは率直に、そして予想以上に自分が安堵している事を感じた。
 デュランダルが、そのような発言をする人間ではない事を、身を持って知っていたから。
 この訓練は――――弓術士フェイルにとって、最後となる訓練だった。
 それを惜しんでいるとは限らない。
 寧ろ、違う可能性の方が高い。
 ただ単に、確認をするだけの言葉だったのかもしれない。
 或いは――――その意図すらなく、無心の中で投げ掛けた雑談の一つなのかもしれない。
 それでも、フェイルは素直に自分の感情を受け入れた。
 自分には、それだけの価値があった――――と、そう思う事にした。
 エチェベリアと言う国の未来を担うとされる天才剣士に惜しまれているのだと、
 そう認識する事にした。
「ええ、出て行きます」
 そして、答える。
「夢の時間はもう、終わりましたから」
 フェイルのその言葉は、まるで陽炎のように、輪郭がぼやけていた。
「……そうか。理由は、以前話していた妹の治療、と言う事でいいのか?」
「ええ。妹と言っても、向こうは僕が兄だって事は知らないんですけどね。それでも、
 妹は妹。大切な事にはなんら変わりはありません」
 振り向き、視線を合わせる。
 そのフェイルの目に、逡巡や葛藤は欠片もない。
 栄誉あるエチェベリア宮廷弓兵団から抜ける事も。
 デュランダルの元を離れる事も。
 一切の躊躇なく、自分の未来を見据えている――――そう言う目だった。
「だが、お前がどうこう出来る問題とも思えんがな。その病気は、今の世界の気候では
 決して育たない薬草の副作用なのだろう? しかし、それを入手しなければ、
 治療の研究すらままならない」
 デュランダルの指摘を、フェイルは何処か涼しい顔で聞いていた。
 もう。
 幾度となく。
 真実を耳にしたその日から何度も何度も、自問自答した事柄。
 答えは出た。
「薬草師になります」
 それしかないと、思うしかなかった。
「故郷に、薬草の権威がいるんです。その人の近くにいれば、もしかしたら
 その毒草が入手できるかもしれない。店を構えていれば、何処からか流れてくるかもしれない。
 新しく生えてこなくても、市場の何処かに残っていれば、そう言う好機があるかもしれない」
 それしか、思いつけなかった。
「その可能性に賭けます」
「……お前はそんな生き方をすべき人間ではない筈だ」
 フェイルの目を、デュランダルは目を細めて眺める。
 初めての事だった。
 少なくとも、フェイルにとっては。
「父代わりの男は、腕の良い弓造りの職人。しかし、魔術士の台頭もあり、弓の需要が
 極端に減少。結果――――廃業。地に伏した弓の価値を復興させる事を誓い、遠距離戦でも
 接近戦でも使える万能な武器と言う新たな価値を見出す為、その技術を磨いている……
 お前は俺に、そう言ったな」
「はい。その為には、小回りの聞く小型の弓や、少ない作業で矢を放てるクロウボウでは
 意味がない。誰でも使える、誰もが手にする弓でなくてはならない。だから、凡庸な弓で
 近距離戦をこなせる技術を身に付けました」
「……過去形、なのだな」
 諦観。
 デュランダルは細めた目を閉じた。
「ここから去れば、お前には監視がつく事になる」
 そして、代わりに口を開く。
 何処か重々しい言葉は、彼の持つ独特の重厚的な雰囲気の所為だけではない。
「気配消失の達人が見張る……と言う訳ではない。お前の気配察知能力は十分に
 鍛えたつもりだ。そのお前に悟られない程の使い手を回すほど、人材に余裕が
 ある訳ではない」
「はい」
「日常生活の中で、お前と接する人間こそが、監視役だ。恐らく一人ではない。
 特別に監視だけをする訳ではなく、その者自身の生活の中に、お前の行動、活動に
 対しての観測を行う日課が加わる、と言う形になるだろう。その意味は、わかるな?」
「はい」
 二度、同じ返事をする。
 フェイルは、自然とその体勢を整えていた。
「お前は今後、ただ一人の友人を作る事も出来まい。少なくとも、
 他人を心から信用する事はもう敵わなくなった。それでも尚、優先するのか? 
 その妹の治療とやらを」
「はい」
 そして、礼。
 万感の思いを込めて。
 自分を育ててくれた弓職人に対しての思いと同じくらいの。
「……お前はいつか、その目に潰されると思っていた」
 デュランダルは目を開き、空を仰ぐ。
 それは、決して何処までも続いている訳ではない、有限の空。
 終わりはやって来る。
 何に対しても。
 贈り物に対しても。
「お前の弓の腕は、確かに優れている。しかし、特別ではない。このエチェベリア宮廷弓兵団に
 おいても、飛び抜けているとは言い難い。一流ではあるが、その先ではない。
 それは、今後腕を磨いても、恐らく変わる事はなかっただろう」
 その指摘は、フェイル自身と全く相違ない意見だった。
 弓兵として、弓使いとして、優秀と言う評価は得ている。
 だが、誰もが戦慄を覚え、誰もが目を疑うような、そんな技術は有していない。
 上手いが、ただそれだけ。
 それでも良かった。
 その技術をもって、近距離戦を覚え、新たな価値を弓と言う武器にもたらす。
 その覚悟は出来ていた。
 しかし、それが果たされる事は――――なかった。
「だがお前には、幸か不幸か、その目がある。遠距離まで見渡せる目と、暗闇を苦にしない目。
 弓を操る者にとっては、何よりも欲しい才能だ。しかし、お前の目指す近距離戦にとっては、
 全く意味のないものだった」
 そして、それ故に潰される。
 仮に、どれだけ弓の技術を磨き、実績を上げ、達人と呼ばれる腕を身に付けても、
 結局はその二つの特異な目があるからだ、と評価される。
 特別な技能を持たない以上、『目立って』しまう。
 例え、近距離戦と目の特異性に接点がなくても。
『どうせあの目があるからだろ』
 それで処理される。
 その評は『近距離戦にも使える弓矢という武器』と言う触れ込みも、フェイル自身の努力をも、否定する。
 デュランダルは、それを危惧していた。
「暗殺技能を教えたのは……俺の為だ。俺がいずれ持つ筈の、少数精鋭の暗殺部隊の
 隊長を、お前に任せる為だった。そこでなら、お前は……」
 そこまで言葉を編み、デュランダルは口を噤んだ。
 それは、フェイルにとっても初めて耳にする青写真。
 全てが語られてた訳ではなかったが、理解は出来た。
 利用されるだけ――――と言う解釈ではない。
 寡黙な師の、いつもより遥かに多い口数が、その証。
 それなら、この場で敢えて話す必要もない。
「お世話になりました。ここでの生活、貴方に教えて貰った事、全て忘れません」
 込み上げてくるものがある。
 フェイルはそれを抑える術を、自然と身に付けていた。
 悲しい性。
 でも、必要な事だった。
「ひっそりと生きる事だ。日の当たらない場所で、静かにな」
「そのつもりです」
 それしか出来ない。
 その事に対する歯痒さはある。
 夢が断たれた事、恩人と二度目の離別を経験する事への未練も、ない訳ではない。
 それでも、すべき事がある以上、心は据えていた。
 前を見る。
 輝かしさとは無縁の、くすんだ未来。
 生きている実感を得られるかどうか、不安で仕方ない。
 フェイルは、笑った。
 自嘲気味に、しかし希望も添えて。
 微かに唇を噛み、踵を返す。
「なら、俺は待つとしよう」
 その声に、耳だけを向けた。
「妹と二人で朗報を伝えに来る、お前を」
 そして、振り返る事なく、歩を進めた。
 前は見られなかった。
 ただ、地面を見ていた。
 何度も叩き付けられた、城壁の傍にある、中庭の土。
 微かに湿ったそれを眺めながら、歩を進めた。


 それは――――まるで夢のように淡く、そして儚い日の事。
 

 今も尚、記憶の底で眠り続ける、遠い日の事。
 



 





 

 chapter 3. 


- metro gnome -








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