人間の記憶力は、曖昧なものだ。
 どれだけ優れた頭脳を持った者であっても、ちょっとした忘却はあるし、
 記憶違いだって珍しくはない。
 ただ――――記憶の中には、例え何年経っても決して忘れようのない、そして
 間違えて覚える事もあり得ない事柄と言うのも、確かに存在する。
 例えば、毎日そこで生活をしている自分の家。
 それを忘れると言う事は、まずあり得ない。
 場所も、外装も、内装も、構造も、頭の最も深い部分に根付いている。
 だから、フェイルは最初にその建物を見た時、これは夢だと断定した。
 真っ赤な花々に囲まれた、小さな建築物。
 その花に囲まれた看板に記されてある『薬草店【ノート】』と言う可愛らしい文字も、
 全て幻想の産物だと――――半ば自分に言い聞かせていた。
「あれ? フェイルさんのお店、こんなでしたっけ」
「まさか。こんな華々しい店だったら、もっと客が来るもの。あり得ないあり得ない」
 あどけない声をあげ首を捻る勇者リオグランテの隣で、フランベルジュは
 手首の運動をしていた。
 皮肉は放置するとして、フェイルも同意見なので何度も頷く。
 しかし、記憶とは残酷なもので、外装の記憶と同じくらい、地理の記憶も
 はっきりとしていた。
「この場所に薬草店【ノート】があった事は間違いありません。そして、あの看板が
 この建物の名称を表記している事も、常識的に考えて確実です。ですので、
 私は客観的意見から、ここが薬草店【ノート】であると主張します」
「そこまで言わなくてもそんな事わかってるよ! 少しくらい現実逃避させて……」
 ファルシオンが辛辣なまでに突きつけてきた現実に、フェイルはそこが地面である事を
 忘れ、パタリと倒れた。
「あら、フェイルさん。お花屋さんを開いたんだって? 良いじゃない、
 こっちの方が派手で。見栄えするから、つい私も買っちゃったのよ、このアネモネ。
 綺麗よねえ。薬草なんかよりよっぽどいいわ〜」
 そして、近所のおばさんが倒れたフェイルを土足で踏みたくるような言葉を
 投げ掛けてくる。
 深刻なダメージを受けた薬草店店主に対し、ファルシオンはしゃがみこんで
 顔を近づけた。
「私の推論を述べてもいいですか?」
「……どうぞ」
「恐らくこの状況は、【アルテタ】に出かける寸前にリオが店の事を頼んだ
 アニスさんが作ったものと思われます。自信があります」
「そうだね……僕もそう思うよ」
 辛い現実は、言葉になると更に攻撃性を増す。
 フェイルの目からは、薄っすらと涙が出てきた。
「……ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
 そして、そんな涙を吹き飛ばさんと、店内から大絶叫が鳴り響いていた。
 同時に、転がり出てくる男が一人。
 以前、フェイルに提携の条件を報せに来た、ヴァレロン・サントラル医院の
 使いの男だった。
「おのれ……花で彩り歓迎の意を表して油断させ、地獄からの使者が食しそうな
 ゲテモノ料理を出してくるとは……なんと下劣な。そっちがその気なら良いだろう、
 この商談はここで打ち切りだ! 破談だ! ゲボオオオオオオ」
 使いの男は、えづきながら内股で走り去って行った。
 つまり――――
「この状況を私なりに推測してみますと、恐らくはアニスさんが薬草だけではなく
 お花も売ってみようと思い立ち、少しだけ置いてみたところ、
 偶々お店に入ってきた富豪の貴婦人が偶々そのお花を気に入って、『こんな草なんか
 よりお花を売った方が宜しくてよ、おーっほっほっほ』等と宜い、それに手応えを
 感じたアニスさんが主力商品をお花にシフトして、更にアニスさんの趣味嗜好が
 反映された結果、お花屋さんと見間違うような外装になって、そこに様子を見に来た
 使者の方が、そのお花の群れを自分への――――ひいてはグロリア氏への歓迎の為に用意した
 ものと勘違いし、気を良くして店内へと入り、一方で大事なお客を迎える事になった
 アニスさんは張り切って料理など出してみたところ、それが人知の域を超えた異形の
 料理だった為に、使者の方は『お花で油断させて料理でおちょくった』と誤解して、
 憤怒しながら出ていった……と言う線が濃厚と思われますが、如何でしょう」 
「……わかっててそんなに延々と説明してるんだよね? 何これ、新たなイジメ?
 って言うか、アンタ達なんで僕を苛めるの?」
「私に言わないでよ。苛めてるのはファルじゃない」
 まるで連続して何度も何度も水の中に顔を押し込まれたような気分になり、
 フェイルはフランベルジュへと移した視線が、またもぼやけていくのを感じていた。
 実際――――そのファルシオンの推測はほぼ的中。
 ただ、実際に店内に入ってみると、そこにはアニス以外の人間もいた。
「フェイル兄様! お帰りなさーい!」
「ただいま。ノノ、身体は大丈夫? 僕がいない間、具合悪くなったりしなかった?」
「うん! あのね、ノノね、ノノね、いっぱいがんばったのー!」
「え?」
 ノノも一枚噛んでいた事が新たに判明。
 と言うか、お花屋さんにすれば、と言うノノの一言から全てが始まったようだ。
「最初は私も抵抗あったんだけど、実際に始めてみると女性客が凄く来て。
 ほら見てよ。売上高、先月比855%増。もうココまで来たら、止めるに止められないでしょ?」
 真っ赤な花々に囲まれた店内で、アニスは自慢げに帳簿を掲げていた。
 ちなみに、花は全て自分の屋敷の庭に咲いている物を鉢に植え替えただけ、との事。
 屋敷の給仕と協力して、一日で完成させたらしい。
「それにしても、壮観ですねー」
「でしょ? やっぱり今のご時勢、薬草なんて流行らないのよ。戦争ないから
 怪我もあんまりしないし。フェイルも、これを機にお花屋に転職しなよ。
 その方がノノちゃんも良いよね?」
「あ、え、えっと……はい」
 ノノはアニスに対してやや距離を取りつつも、賛同の意を述べた。
「ところで、先程ここを凄まじい勢いで飛び出して行った方は」
「あ、あの人? なんか偉そうだったから、きっとお金持ちのお得意様なんじゃ
 ないかなって思って、最上級のおもてなしをしようって思ったの。だから、
 私が一番力を入れてるお料理で……」
「聞きたくないそれ以上何も聞きたくない! あー! あー! あー!」
 フェイルは現実から逃げた。
 同時に、悟る。
 もう提携話は絶望的だと。
 しかも、残った形となったマンドレイクは、市場価値が暴落中。
 何処までも遠く。
 何処までも速く。
 生活維持という最低限の目標は、離れていってしまった。
「でも、これだけ赤い花ばっかりだと、流石に落ち着かない……フェイル、どうしたの?」
 店内の花を一つ一つ見回っていたフランベルジュが、談笑するリオグランテやアニスの
 傍を離れ、フラフラとした足取りでカウンターに向かう姿を捉える。
 そして、その視界に収まっているフェイルは、無表情のまま羽ペンを手に取り、
 近くにあった羊皮紙にスラスラと何かを書き始めた。
「なーに、神妙な顔して。遺書でも書くつもり?」
 冗談のつもりでそう笑いながら述べたフランベルジュが、次の瞬間、目を大きく見開く。
 そこには――――細く力のない筆圧で本当に『遺書』と書かれていた。
「ちょっ、ちょっと! リオ! ファル! そいつを止めて! 早く止めて!」
「止めるなー止めるなー僕はもーだめだーもーいやだー」
 フェイルが壊れた。
 その様子を視認したリオグランテとアニスが慌てて筆を止めに走る。
 二人同時に滑る。
 二人同時に転ぶ。
 倒れる棚。
 割れる花瓶と植木鉢。
 そして、薬草店【ノート】あらため花屋【ノート】は、過去最大の損失をこの日計上した。
「ねー、"いしょ"ってなーに?」
 阿鼻叫喚の最中、ノノが半眼中のファルシオンに問う。
「……貴女は、一生知らなくても良い言葉ですよ」
 そんなノノに、ファルシオンはその小さい頭を優しく撫でながら、ゆっくりとした口調で
 答えていた。

 





  前へ                                                             次へ