ファルシオン=レブロフには、確かなものが二つある。
 一つは、自分を育ててくれた母親の存在だ。
 ファルシオンの家は貧民街の片隅にあった。
 そして、母子家庭だった。
 母親の仕事は、代書人。
 しかし女性の代書人に公的機関からの依頼は殆ど来ず、また書物の
 複製と言った割の良い仕事も回っては来ず、その仕事は文字を書けない
 一般人の手紙の代筆に終始した。
 ファルシオンの郷土であるデ・ラ・ペーニャの識字率は高い。
 その為、元々低賃金の手紙代筆の仕事も余り多くは取れず、
 母親は更に賃金の安い、罪人の手紙の代書も行っていた。
 服役している罪人が故郷へ向けて送る手紙の代筆。
 自ら監獄に赴き、罪人の言葉を聞き、それを文として認める。
 それを女性が行う事に、どれ程の危険が付きまとうか。
 そして、その危険に見合うだけの報酬に、どれほど賃金の額がかけ離れているか。
 それでも母は、一切の弱音を吐かず、ファルシオンを笑顔で育てた。
 ファルシオンにとって、父親の存在は生まれた時からないものとして
 確立していたので、それに関して問う事はなかった。
 そして、成長の過程で直ぐに自分に必要な事を悟り、母親の仕事の手伝いを始めた。
 6歳の頃には、文字を書けるようになっていた。
 物分りの良さと洞察力は、環境が育んだと言っても良いだろう。
 気付けば、ファルシオンの仕事量は母親を超えていた。
 それでも生活は決して裕福ではなかったが、まだ少女のファルシオンが流暢な文章を
 認める事に多くの町民は関心を寄せ、食に困る事はなくなった。
 無論、そこには『見世物』と言う要素も少なからずあっただろう。
 それでもファルシオンは一向に構わなかった。
 物事を合理的に考える。
 自分にとって、好奇の目は矜持を削られるものではあっても、それで母親が
 少しでも楽を出来るのであれば、その方がずっと良い。
 自ら進んで見世物となり、生活費を得た。 
 そんなある日――――ファルシオンに、ある生まれながらの才能が内包されている
 と言う事が判明する。
 魔術士としての才。
 それが認められた13の時、ファルシオンは魔術士としての人生を躊躇なく選んだ。
 魔術アカデミーの入学費は、全て自身がそれまでに溜めた報酬で賄った。
 ただ、授業料に関しては勉強をしながら溜めて行かなくてはならない。
 そうなると、卒業までに勉学に集中出来る時間は自ずと制限される。
 ファルシオンはそれも覚悟の上だった。
 にも拘らず――――ファルシオンは入学してから卒業するまでの間、
 一度として授業料を支払う為の副業を行う事はなかった。
 その必要がなかったからだ。
 授業料は、ファルシオンが入学費を収めた翌日に支払われていた。
 しかも、卒業までの全ての額。
 その事実を知らされた瞬間、ファルシオンは人目も憚らず涙した。
 誰が学費を支払ったか――――その洞察は、余りに簡単だったから。
 ファルシオンがアカデミーへ入学する事を知っているのは、ごく限られた人間のみ。
 身内では、母一人だったからだ。
 ファルシオンの母は、少しだけ向上した生活の中で、数少ない娯楽となる筈の
 ちょっとした息抜きや衣服など、そのすべてを犠牲にして、娘の為に貯金をしていた。
 娘は母を愛し、その母を楽にさせる為に魔術士を選んだ。
 しかし、その魔術士への道は、母の愛が切り開いてくれた。
 貧しくとも理想の家族。
 その事に関しては、ファルシオンは絶対的に確実なものとして、心の中に
 永住させている。
 そんなファルシオンにとって、もう一つの確かなもの――――それは、一人の
 魔術士の存在だった。
 その名前は、アウロス=エルガーデン。
 彼女がこの名前を知ったのは、魔術士アカデミーに入って2年の月日が経った頃だった。
 当時のファルシオンは、既にアカデミーでも主席を争う位置にまで昇りつめ、
 教師はおろか、近隣の魔術大学や研究所から一目置かれる存在になっていた。
 しかしその一方で、学生の中では浮いた存在でもあった。
 アカデミーに入学するような者と言うのは、裕福な生まれである事が多い。
 魔術士を育成する学校の学費を支払うのは、貧民街出身の人間には困難を極める
 と言うのが理由の一つ。
 そして、学校に入るだけの知識と教養を得るには、最低限の暮らしが必要だからだ。
 当然、早い内に文字を学んでおく必要がある。
 幾ら識字率の高いデ・ラ・ペーニャでも、それが可能となる家庭は僅か。
 その中にあって、ファルシオンの生い立ちは異質だった。
 入学して程なく孤立したファルシオンは、一人静かに学習した。
 暗い女――――そう言う陰口が耳に届くのも二度や三度ではなかったが、
 意にも介さなかった。
 目的は一つ。
 魔術士として大成し、大きな収入を得て母を楽にする事。
 その筈だった。
 しかし、そこにもう一つの目的が加わる。
 幼い頃から他人の伝言を文字にすると言う単調な仕事をして来たファルシオンにとって、
 自身で考えて答えを導き出す魔術の勉強は、想像以上に楽しかった。
 特に、名のある魔術士の論文と言うのは、内容は元より、理路整然とした文章の構成に
 まるで芸術品のような美しさがあった。
 緻密に敷き詰められた公式は、一つ一つ丹念に描いた石畳。
 大胆な仮説は、突き抜けるようなクリアスカイブルー。
 そこには、有無を言わさない迫力があった。
 蜂蜜のように甘い魅力があった。
 ファルシオンは魔術の基礎を学ぶのに並行し、論文を読み漁った。
 アカデミーの資料室だけでは飽き足らず、近隣の大学や研究室にまで足を運び、
 数多の論文に目を通した。
 そして――――或る一つの論文と出会った。

【魔術編綴時におけるルーリング作業の高速化】。

 それは、かつて一攫千金論文と呼ばれた、実現不可能な研究だった。
 もし実現すれば、魔術の在り方を根底から覆す、大改革。
 巨額の富と名誉が生まれることは間違いない。
 そしてそれは、個人の利益には留まらない。
 魔術の出力が格段に素早くなると言う事は、魔術そのものの戦闘状況下における
 利用価値を大幅に拡大させる事に繋がる。
 魔術、魔術士の全体的な地位向上、更にはルーリング作業の高速化を行う為の
 道具の開発及び販売に関する、一大市場の誕生。
 世界経済にすら影響を及ぼす事は相違ない。
 しかし、それは『永遠の命』や『瞬間移動』等と同じ、絵空事。
 名のある研究者は、誰もそんな研究には手を出さない。
 出来もしない事を一生懸命やって、さも自分が大きな事に挑戦しているように
 見せるような『卑怯な真似』は、しない。
 そんな風潮が魔術士の中にはあった。
 ファルシオンもその事は知っていた。
 だから、その論文の写しを見た時、最終的には『結局出来ませんでした』
 と言う結論で締められているものだと思っていた。
 論文は、成功した研究以外は無意味――――とは限らない。
 一つの方法論を試験し、それが上手く行かなかったと言う記録も、十分な価値を持つ。
 その論文は大学にあった。
 だから、研究資料の一つ、失敗例の一つとして置いてあるとばかり思っていた。
 にも拘らず――――ファルシオンのその考えは、 僅か数ページで改められた。
 独特の理論構築。
 あり得ない着想。
 そして――――確かな成果。
 そこには、ファルシオンの理想があった。
 魔術を勉強していく中で、おぼろげに見えていた、自分が目指すべき光があった。
 誰も踏み入れていない、前人未到の地。
 研究者は皆、そこを目指す。
 この論文は、頑丈で美しい船ではなく、弱々しい小船でそこへ辿り着いていた。
 ファルシオンは、読み進める中で理解していた。
 誰も見向きもしないテーマに挑む事が出来る、その信念。
 それは、自分と同じような境遇だからこそ――――そう感じていた。
 理論とは違うところで確信していた。
 論文を読み終わったファルシオンの目には、涙が溢れていた。
 母の愛に泣いた日。
 それ以来ずっと、気を張っていた。
 貧民街出身の人間として、負けてなるものかと言う意地を抱いていた。
 絶対に魔術士になって母の愛に報いると、気負ってすらいた。
 そんなファルシオンが純粋に感動したのは、一冊の論文に込められた、想いだった。
 論理と野心で構成されている筈の研究論文。
 実際、その論文には、いずれの要素もふんだんに詰まっていた。
 魔術は、この研究によって変革される――――それは間違いない。
 そして、その事実に興奮と高揚を覚えている事も間違いない。
 ただ、ファルシオンを涙させたのは、その事以上に、論文の中の到る所に
 刻まれた、形のない想いだった。
 著者の名前は、アウロス=エルガーデン。
 ファルシオンは直ぐに、この人物について調べ始めた。
 謎が多い人物だった。
 出生も、生い立ちもわからない。
 ただ、論文のあった大学に来る前の僅かな期間の経歴と、大学内における
 行動や所属などに関しては、調べる事が出来た。
 かなりの変わり者だった、と言う事。
 この論文の成果が認められ、デ・ラ・ペーニャ国内において一般の魔術士が
 得る事が出来る最高の称号である【賢聖】の称号を、史上最年少で獲得した事。
 そして、その直後――――行方不明となった事。
 とある郊外の地に、『アウロス=エルガーデン』の名が刻まれた墓がある事。
 それを知り、ファルシオンは更に彼にのめり込んだ。
 生きている。
 事情は幾つか推測が立てられるが、少なくとも死んではいない。
 ファルシオンはそう確信していた。
 ファルシオン=レブロフにとって、もう一つの確かなもの。
 それは、アウロス=エルガーデンと言う、偉大な魔術士の存在。
 彼が存在している事。
 彼の思想。
 彼の研究。
 彼の生き様。
 全てが、『魔術士』ファルシオン=レブロフを形成する血となり肉となった。 
 そして、それから三年。
 アウロス=エルガーデンの研究成果は、魔術の在り方を完全に変えていた。
 かつて、騎士のお守りなくして存在出来なかった魔術士は、一個の強力な
 戦闘兵として、独立を果たした。
【賢聖】と言う称号の力もあり、彼の研究は瞬く間に形となり、普及し、
 そして定着した。
 魔術士にとって、ルーリングの自動化、高速化を可能とした【オートルーリング】
 と言う技術は今やなくてはならないもの。
 たった一人の、当時少年と呼んでいい年齢の研究者が残した成果は、
 魔術士界、そして世界全体の勢力図、兵力、経済までも大きく動かした。
 伝説の魔術士。
 稀代の天才。
 そんな数々の呼び名で、墓の下のアウロス=エルガーデンは奉られている。
 それでも、ファルシオンは今尚、その存命を信じていた。
 敬愛の心も、一切変わる事なく。
 アカデミーを主席で卒業し、魔術士としてあらゆる職場や研究室が用意された
 彼女は、その全てを蹴り、隣国へ向かった。
 そして、『勇者一行』の募集を行っているエチェベリア城に足を踏み入れ――――
 勇者一行の一員となった。


「……」
 不定期に揺れる辻馬車の荷台の上で、ファルシオンがボーっと虚空を眺めて
 揺られている様を、フェイルは暫くじっと眺めていた。
 勇者一行と接し、それぞれのパーソナリティについてもある程度把握して来ているものの、
 この無表情の女性魔術士だけは、未だに掴めないでいる。
 表情が乏しいだけで、感情表現が少ない訳ではない。
 声に抑揚こそないが、言葉の端々や間に、現在の心境は良く現れていたりする。
 几帳面で、意外と義理堅く、そして思慮深い。
 ただ、必ずしも物事を達観していると言うような、人生経験の深さは余り見られない。
 年齢は殆ど自分と変わらないと、フェイルは推測していた。
 そこまでは、何となくだがわかっている。
 しかしながら、それ以上の事――――特に、この勇者一行の中に加わっている理由や目的は
 全く見えてこない。
 行動理念が見えないと言う事は、その人物の背景が見えないと言う事。
 背景が見えないと言う事は、その人格が本当の意味では把握出来ない、と言う事。
 それをフェイルは身をもって知っている。
 自分の近くにいる人間の背景を知りたいと言う欲求は、好奇心などではなく、
 自分の身を守る為の防衛手段。
 フェイルの視線には、そんな鋭さが含まれていた。
「もう直ぐ着きますから、頑張って下さい!」
 しかし、勇者リオグランテにはその表情が『馬車に酔っている苦悶の顔』に見えたらしい。
 グッと拳を握り激励してくるその姿には、一切の隙がなかった。
 完全な、純粋な意見。
 フェイルは苦笑いするしかなかった。
「まさかここに戻ってくる事になるとはね……自分で言い出しておいて何だけど」
 その隣で、フランベルジュは一人黄昏るように、金髪をたなびかせて流れる景色を
 漠然と見学していた。
 その姿は一見すると、一人物憂げに息を落とす、深窓の美女。
 しかしその身は、薄いプレートメイルで覆われている。
 そして、帯刀する細身の剣は、まるでレイピアを思わせるほどに幅を狭め、
 極限まで鋭利さを追究したかのような一品。
 通常レイピアと言うと、突きに特化した武器なのだが、この剣は払う事でも敵を沈黙に追い込める。
 明らかに強度に弱点を持っていると思われるが、それも覚悟の上での得物、と言う事なのだろう。
「……その弓」
 そんなフランベルジュが、突然フェイルに視線を向ける。
「使えるの?」
「そりゃ、使えなきゃ持ってこないよ。薬草士は定期的に薬草を採りに山に入るから、
 弓くらいは覚えるものなんだ」
「ふーん。ま、良い心がけとは言っておく」
 フランベルジュは少しだけ微笑んで、再び景色に視線を向けた。
 今回、山に向かう予定はない。
 自分の身は自分で守る――――そう言う決意だと、女性剣士には映ったらしい。
 それ自体は間違いではない事もあり、フェイルは特に何も言わず、揺れる馬車の
 運転席を漫然と眺めた。
 フェイルにとって、アニスはおろか、誰かに店を預けると言う事は未知の経験。
 薬草の仕入れの際は、基本店は閉めている。
 自分の代わりにあの店に誰かがいる、と言う事に、余りにも大きな不安と
 違和感を覚えずにはいられなかったが、今更それを憂う事に意味はない。
 馬が運んでくれる場所まで、大人しく誘われるのみ。
 目を閉じ、暫し瞼の裏を睨んでいると――――頬の辺りを冷たい感触が叩いた。
「うわっ、これ一雨来ますよ」
「……もう来てるみたいだよ。ま、馬車の上に居る以上は雨宿りも出来ないけど」
 目を開けると、重厚な灰の群れが広がっていた。
 何をそう覆い隠さなくてはならないのか。
 幾度となく眺めてきた雨空に悪態を吐きつつ、勇者一行と共にフェイルは
 自身未踏の地にいつの間にかその身を運んでいた。


 


                      - El nombre del pueblo es Arteta -



 

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