アニス=シュロスベリーの部屋は、ある日を境に大きく変貌を遂げた。
 少女趣味とも言うべきパステル系のレースをふんだんに使用した天蓋やコットンレースカーテンは
 消え失せ、絨毯も壁も赤を基調としたシックな雰囲気になっている。
 部屋を構成する色は、赤、茶、黒が大半。
 それは、部屋の主であるアニスの意向だった。


 ――――昨日。


 その日、エチェベリア上空は数多の星が観測出来た。
 雲一つない夜空には、まるでその日生涯を終えた者の魂が浮かんでいるかのように、
 大小様々な光の粒が漂っている。
 穢れを知らない光もあれば、毒々しくも不敵に煌く光もあるのだろう。
 アニスは、星空を眺めるのが好きだった。
 そこには限りなく想像を込められる個性が広がっているから。
 現実逃避という訳ではないが、偶には祈りたくなるのだ。
 まだ無垢だった頃の光を眺めて。
「助かりました。今貴女のお父上に何かあれば、私共としては大きな損失ですから」
 しかし、そんな視界も直ぐに唯の景色へと変わる。
 現実は、魔術よりも残酷だ。
 視線を下ろすと、そこには静まり返った屋敷の中庭があった。
 そして、同じ空間には布で覆われた手押し車と、黒衣に身を包んだ優男が在る。
「薬草士の権威には、今後も我々魔術士と共に改革を進めて貰わなくては。
 一ギルドの権威維持の為に消されては敵いません。改めて御礼を……」
「貴方にお礼を言われる謂れはないのよ。別に教会の為でも、まして父の為って訳でもないしね」
 不機嫌な心境を隠すでもなく、アニスはその優男――――ハイト=トマーシュに対し
 雑然とした言葉を告げた。
「私があの男に対して何かをする、と言う事はあり得ないの。覚えておいて」
「わかりました。以後慎みます」
 明らかに一回りは年上のハイトに対し、アニスは不敵に言葉をぶつける。
 それは、虚勢ではなかった。
 この空間を支配している主が自分であると言う、絶対的な自信によるものだ。
 ハイトもそれに異存はない。
 目の前の少女と言って差し支えない女性に、最大限の敬意をもって接している。
 実際、今しがた彼はアニスによって助けられたのだ。
「それにしても、素晴らしい腕です。曲がりなりにも【ウォレス】代表クラウ=ソラスが寄越した
 刺客。簡単な相手ではない筈なのですが……」
「ハイトさん。人を壊すのは、そう難しい事ではないの」
 荷台の上で布に覆われた『それ』を見ながら、アニスは呟く。
「多くの人間は、何か目的があって動いている。そう言う人間を壊すのは、壊す事が目的である
 私にとっては楽なのよ。読書している子供を驚かすのと同じ。意識が違う方に向いている標的の
 動脈を裂くと言う行為は、ね」
「……」
 月明かりに照らされたアニスの表情に、ハイトは思わず息を飲む。
 何より――――動脈に限定しているその手口に、異常性を見出さずにいられなかった。
 通常、人を人でなくす方法は、出来るだけ簡易に、そして痕跡が残らないように行うもの。
 しかし動脈を切れば、鮮やかな色の血が夥しい量噴出する。
 無論、それが殺人者にとって正に働く事はない。
 あるとすれば――――
「嗜好、ですか」
 ハイトは思わずそう口にしていた。


 ――――そして、現在。


 鮮血と限りなく近い色に囲まれ、アニスは一人静かに何度も前腕を振っていた。
 その手首の先の指には、鉤状の小さく細い針が摘まれている。
 部屋の模様が代わった後、これまで一日も欠かす事無く繰り返して来た所作。
 今では、まるで肘より先の全体が一本の人差し指を動かすような感覚で、細かく、早く動かせる。
 アニスに特別な身体能力はない。
 ただ、この動作――――前腕の挙動に関してだけは、常軌を逸した速度を可能にしていた。
 単純な動きの早さだけではない。
 一切の予備動作を排除した初速、そして動きの自然さ、滑らかさもまた、一流の踊り子ですら
 真似出来ないほどの域に達していた。
 それを可能としたのは、2つの要素。
 弛まぬ努力。
 そして、ある日突然芽生えた――――嗜好。
 いつの日からか、アニスは鮮血の色に魅入られていた。
 理由は、自覚している。
 しかしそれはきっかけに過ぎない。
 結局のところ、自分の中にある本能的な衝動の充足と言う、生物が持っている絶対的な
 欲望に対して忠実であると言う事なのだと、半ば絶望的に自覚していた。
 倫理観が崩壊している訳ではない。
 血飛沫を浴びる瞬間は、まるで何万人もの人間から尊敬と敬意を持って拍手を送られている
 かのような、強烈な多幸感に包まれるのだが――――それが消えれば、残るのは凶悪なまでに
 膨らんだ罪悪感と劣等感。
 自身が下劣で醜悪な存在だと感じるのは、その血の臭いを自覚した瞬間。
 アニスは、自身が呪われた存在であると思うしかなかった。
 何者かに呪われたのだと。
 吹き出る血を見て、それを浴びる事に快感を見出す。
 そんな世にもおぞましい嗜好が、自分の中から生まれ出たものだとは思いたくなかった。
 今も、そう言う類の呪いの症例を暇さえあれば探している。
 しかしその一方で――――止められない事も自覚していた。
「フェイル……」
 自分以外は誰もいないその部屋で、アニスは幼馴染の名を呼ぶ。
 無垢な頃の自分を知る、唯一の人物。
 親から相手にされず、権力者、富豪の娘であるが故に周囲に距離を置かれていた中で
 一人だけ、心の奥に踏み込んで来てくれた人物。
 アニスにとって、フェイルはたった一人、自分を正当化してくれる存在だった。
 何より、何処か自分に似ていると感じている。
 勇猛果敢とは程遠い、穏やかな性格でありながら、弓兵として宮廷に招かれるまでに
 成長したその矛盾。
 明らかに商才がないと誰もが認める中、それでも店を構え続けるその矛盾。
 そして――――直ぐ近くに薬草士の権威がいながら、その恩恵に与る事のない――――その矛盾。
 アニスはそれら全ての理由を理解している訳ではない。
 ただ、そうすべき道と言うものがあるとして、それを確実に踏み外しているフェイルの存在は、
 アニスにとって心強いものだった。
 しかし、その思いが増すに連れ、もう一つの衝動が沸々と湧き上がっている事も自覚していた。

 ――――ドンナイロナンダロウ

 その、獰猛な獣のような衝動は、今のところ顔を出す前に全て排除している。
 昨日の、父親の命を狙って進入して来たらしき男もまた、その為の贄となった。
 フェイルがこの街に戻って来てからはずっと、その繰り返しだ。
 おぞましい嗜好の充足の為、と言うよりは、小さな充足で精神を落ち着かせ、
 究極の嗜好を実現させない為に、今の生活を選んだと言っても過言ではない。
 アニスにとって、派閥争いや権力抗争等はどうでも良い事だった。
 魔術士でもなければアランテス教の信者でもない。
 教会に立てる義理は一片も存在しない。
 その教会の繋がりや抗争相手にも、興味はなかった。
 ただ――――侵攻を止めたかった。
 自分自身でも歯止めの利かない欲望の増長を、食い止めたい。
 その一心で、今を生きていた。
 まるで鷹狩りの鷹のように、言いなりになって。
 まるで梟のように、夜な夜な血を求めて。
 
 
 それでも、その先を――――

 その先を、夢見て。










 the brave & the wise.

They meet and intersect.

This is one crime.

This is one ――――





"αμαρτια"

#1

the end.






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