ビューグラス=シュロスベリー。
 その名前をフェイルが始めて耳にしたのは、まだ自我が形成されていない年齢の頃。
 幼馴染であるアニスの父親、と言う認識だった。
 当時、既に薬草学の権威として活躍していた彼の姿など知る由もない。
 アニスの大きな家に稀にいる、怖いおじさん。
 それが、幼少期のフェイルにとってのビューグラスだった。
 その認識が変化したのは、フェイルが10代になってから。
 それまでの常識を覆す、実に800種類もの薬草と250種類の毒草の効能、性質をまとめて
 図鑑にした【薬草大全】の著者が、幼い頃から何度も会っていた愛想のない中年親父
 であると耳にした時は、本気で驚愕したものだった。
 その【薬草大全】は、創刊当時こそまだ印刷技術が発達していなかった事で普及が
 限られていたが、それでも数多くの複写本を生み出していた。
 現在では、薬草学の聖典として、世界各国の図書施設に展示されている。
 特に、その本が発行される以前までは万能薬として扱われていたフィーバーフューや
 チェストベリーと言った薬草の効果を否定した記述は、薬草学だけでなく、
 医学や世界経済にまで大きな影響を与えるに到った。
 そして、その事実はフェイルにも――――
「……」
 走りながら、そっと右目の縁を撫でる。
 灯りなき長く続く廊下の絨毯を駆ける中、その左目に映る景色はまるで灯火で照らされて
 いるかのように、はっきりと色を形を成している。
 無論、通常の人間の目ではあり得ない事。
 梟の目――――そう名付けたのは、フェイルではなかった。
『その2つの目は、後天的なものなのか?』
 アニスに呼ばれ訪れたこの屋敷の中でそう話しかけて来たビューグラスは、
 フェイルに数時間に及ぶ質問を投げ掛け続けた。
 その際、便宜上使っていた名称が、そのまま採用された形だ。
 ビューグラスは、その後も事ある毎にフェイルを屋敷に招いた。
 娘の幼馴染から、格上げしたのだ。
 研究者としての興味の対象に。
 暗殺技能に長けた元弓兵に。
 そして――――同じ視点を持つ薬草士に。
『不思議なものだと思わないか? 薬草と人には何ら関連性はない。人が生み出した
 ものではないし、進化の過程で交わった事もない。しかし、薬草はまるで、人の為に
 誂えられたかのように、何百年も人を癒し続けている』
 理念や謎駆け、そして夢や希望をビューグラスは幾度となく語った。
 その一方で、決して学者として、商人としての言葉は贈らなかった。
 フェイルも、それは聞かなかった。
 それが、フェイルの誇りだった。
「誰かいない!? 誰かーーーっ!」
 屋敷は、静かだった。
 フェイルの声は決して大きなものではなかったが、それでも隅々まで響くくらい、
 静かだった。
 元々、この屋敷は広さの割に住民も使用人も少ない。
 主であるビューグラスの血縁は、娘アニスだけだ。
 そんなアニスとフェイルが知り合ったのは、ビューグラスと知り合うより前の事。
 フェイルがこの街に来た翌日の事だった。
 その後、弓兵となったフェイルは一度街を離れる事になりアニスとも疎遠になったが、
 薬草店を構える為に戻って来たその日、再会を果たした。
 2度目の偶然。
『ね、ね。こう言うのって、3回あると運命って言うよね。次偶然会ったら結婚でもする?』
 アニスは冗談めかしてそう言っていたが、フェイルはただ困ったように笑うしかなかった。
 そんな彼女の無邪気な顔が、ふと頭を掠める。
「アニス! いないの!? アニスっ!」
 背負った弓を揺らしながら辿り着いた幼馴染の部屋には――――人の気配はない。
 時間帯を考えると、あり得ない事だった。
 焦燥感を抑えるように、部屋を見渡す。
 もう何年も訪れていないその場所は、フェイルの記憶とは全く別の空間になっていた。
 以前は、もっと華やかで子供じみていた。
 今は燃えるような赤の絨毯を始め、赤い色の物が多く、貴族の一室と言う雰囲気を醸し出している。
 無論、それに関する寂寞感などを覚えている余裕はない。
 その足は、奥にあるビューグラスの部屋までの道のりを等間隔で叩いていた。
 そして――――
「おじさん!」
 もう何年も呼んでいなかった、幼少期に使っていたその呼称。
 フェイルは無意識の内にそれを叫び、部屋の扉を開け――――
「何だ? 騒々しい」
 そのまま、膝の力が緩まって行くのを自覚した。
 ――――無事だった。
 その事実が、小さな安堵を生む。
「……ここに【ウォレス】の使者が来たと聞いたんで」
「いや、来ていないが」
 フェイルは切らした息を整えつつ、思考を纏める。
 ビューグラスが無事だからと言って、この状況が取り越し苦労と言う事にはならない。
「門番が何者かにやられています」
「何……?」
 ビューグラスの眉間には既に深い皺が刻まれているが、それが一層濃くなる。
「【ウォレス】の使者が、儂を殺しに来たと言う事なのか?」
「確証はありません。ただ、明らかに異常な状況です。もしかしたら、何処かに
 潜んでいるかも」
 そう唱えつつも、フェイルは周囲の気配を察知すべく、神経を散らしていた。
 だが、殺気は微塵も感じられない。
 この屋敷に入ってからずっと、それは変わらない。
「アニスは? アニスは無事なのか?」
「姿がありません」
「……!」
 フェイルの言葉に、ビューグラスは絶句する。
 その顔は、フェイルがこれまで一度も見た事のない、父親の顔だった。
 ビューグラスとアニス。
 2人の関係に対して、フェイルはこれまで一度も深く追求した事はない。
 無論、親子である事は間違いないのだが、母親がいない事、アニスから殆ど
 父親に関する話題を提供されなかった事から、何となく想像は付いていた。
 学者として仕事に没頭する父親。
 物資と金銭ばかりを与えられ、親と接する機会の希薄な娘。
 良くある構図だ。
 その場合、良好な関係である可能性は極めて低い。
 敢えて聞く必要もなかったし、それでアニスの気分を害する事もしたくなかった。
 同時に、ビューグラスからも殆ど娘の話は聞かれなかった。
 それだけに――――ビューグラスの表情は意外ですらあった。
「頼む。アニスを探してくれ。それで依頼の失敗は帳消しにしても良い」
「わかりました。貴方は施錠してここにいて下さい」
 依頼主の返事を聞く前に、フェイルは既に廊下に駆け出していた。
 自身の部屋にいなかったとなると、次にいそうな場所は――――
(……調理場!)
 直感的に先日の口内を汚染した刺激を想起し、そこへ向かう。
 改めて感じるのは、シュロスベリー家の広さ。
 これでも、成長と共に移動時間はかなり短縮しているのだが、それでも広い。
 フェイルは全力疾走で廊下を滑走しながら、初めてここを訪れた時の事を思い返していた。
 敷かれた絨毯の色は、記憶の中の方がやや鮮麗。
 視点の高さが異なるので、一層そう感じるのかもしれない。
 あの日、フェイルは同じように廊下を駆けていた。
 見た事もない広大な世界。
 鮮やかな緑を使い草原を描いた絵画。
 光沢を携えた甲冑。
 身体より大きい壷。
 透明な板が張られた窓。
 それら一つ一つに感動を覚えていた。
 今となっては、風化した感覚。
 それが何故か、この緊迫した状況にあって、フェイルの頭を支配していた。
 そして、思い出す。
 その時の遊びを。
「アニス! いる!?」
 辿り着いた調理場で、フェイルは大声で叫ぶ。
 返事はない。
 ただ、それが『ここに居ない』事の証明にはならなかった。
 何故なら――――昔のあの日もまた、そうだったから。
 フェイルは迷う事なく、調理場の中央にあるテーブルの下を覗き込んだ。
 そして、そこで大きく息を吸う。
 安堵の溜息を吐く為に。
「……3度目、かな?」
「これは偶然じゃないでしょ」
 アニスは、そこにいた。
 一瞬視界がぼやけたのは、全力疾走し過ぎて意識が朦朧としているから。
 そう思う事にした。
「えっと、兎に角……」
「御免なさいっ! もう未知の料理を無闇に食べさせるのは止めるから許して!」
「無事でよかっ……え?」
「あ、無事だったんだ。良かったあ〜……え?」
 噛み合わない会話。
 フェイルはまだクラクラする頭を抱えるようにして、整合性を図る。
『未知の料理』
『無闇に食べさせる』
『無事で良かった』
 つまり―――――
「まさか、門番の人達に手料理を届けて、失神させた……とか?」
「え? それ知って怒りに来たんじゃないの?」
 脱力。
 これ以上ないくらいに気が緩んでいくのを感じ、フェイルはそのままテーブルの下で倒れた。






  前へ                                                             次へ