薬草屋【ノート】の午前中は、基本的には静かだ。
 静寂にはそのものに力があり、破壊や創造と同じように時として神話のモチーフとなり、
 象徴としての神を宿すと言う宗教であったりサーガであったりが存在するようだが、
 少なくとも店を構えている商売人にとっては、はっきり言って禍々しいものとしか
 思えないのが実情だ。
 実際、薬草を専門とした商売と言うのは、既に限界に近付いている。
 多くの既存の薬草店は、既に商品枠を拡大させ、花や果物を置いて植物全般を扱う
 店にしたり、香水や化粧品を置いて女性にアピールする美容のお店にしたりと、
 時代のニーズに合わせようと様々な試みを行っているようだ。
 この業界、専門店と言うのは余り流行らないものなのか、その流れは薬草に限らず
 あらゆる種類の商売における共通の変化となっていた。
 さて、そんな中でこの薬草屋【ノート】の店主であるフェイルも、流石にこの状況は
 どうにかしなくてはならないと認識してはいる。
 別口に収入源がある事が、かえって危機感を喪失させていた節もあり、時代に乗り遅れた
 感は否めない。
 薬草に思い入れはあれど、薬草を売る事だけに拘り続ける理由はない。
 フェイルは全く開く気配のない店の入り口の扉をじっと見つめながら、打開策を
 ひたすらに考えていた。
 現在、この薬草屋【ノート】の経営状況は、一言で言えば『壊滅寸前』である。
 人件費は必要なく、土地を借りている事もないので、基本的に出費は然程多くなく、
 レカルテ商店街の治安維持と流通管理を一手に担っている商人ギルド【ボナン】への
 月会費や仕入れ代、店の維持費、そして生活費程度に収まっている。
 とは言え、それ以上に収入が少ない。
 薬草の単価は決して高くなく、ある程度高価な治療用の物であっても、せいぜい
 100gで5ユロー程度だ。
 ちなみに、ユローと言うのはこのエチェベリアや隣国デ・ラ・ペーニャなど
 コンチネント大陸にある国共通の通貨で、エチェベリアであれば一人暮らしの
 一日の食費が約10ユローとなっている。
 薬草の売り方は通常、植木鉢に植えた苗ごと購入すると言う事はなく、
 細かく刻んだり、粉末状にして携帯性を高めて並べてたりしている事が多い。
 この薬草屋【ノート】では、一つ一つの棚にその薬草の本来の姿を
 植木鉢に植えた状態で展示しており、購入時には在庫として倉庫に保管している
 葉やそれを粉状にした物を提供するようにしている。
 値段はg単位。その為、カウンターには重さを量る天秤が常に置かれている。
 さて、ここで問題となるのは、その売り方――――ではなく、客単価。
 この薬草屋【ノート】の主な客層は、料理に使用する主婦達。
 当然、一度に買う量は非常に少ない。
 平均してもせいぜい10g程度。
 そんな彼女達が一日10人くらい訪れるので、落ちるお金は5ユロー程度。
 殆どあってないような収入だ。
 稀に現れる観光客は、お土産にと変わった形状の薬草や香りの良い薬草を
 結構多めに買ってくれるが、そう言う上客はせいぜい三日に一人くらいの割合。
 結論を言えば、一月当たりの売り上げは、500ユローくらいしかない。
 生活費すら賄えないのが実情だ。
 これを改善する方法を、フェイルはずっと考えていた。
 特に寝る時は毎日それを考えている。
 考え事をすると非常に寝つきがいいもので、その為にフェイルは毎日快眠だった。
 ただ、良いアイディアが浮かんだ試しはない。
 実際、色々試してはみた。
 例えば、加工品を置くと言う割と王道の手法を検討した事もある。
 ちなみに、薬を作って売る事は出来ない。
 エチェベリアに限った話ではないが、医師の資格を持たないものが薬を売るのは
 禁止されているのだ。
 他に薬草で作れるものと言えば、ハーブワインなどに代表される薬膳酒。
 しかし、製造を依頼すると非情な額を請求され、案はその日の内に頓挫した。
 着想は他にもある。
 薬草と言えば、その香り豊かな匂いが特徴と言う事で、『匂い袋』と言う
 アイテムを作成してみたりした。
 単純に、小さい袋の中に薬草を敷き詰めたと言うだけの物だ。
 実はこれ、最初は評判がよく、特に観光客に人気を集めた。
 だが、大手の店が類似品を出した途端、手作り感溢れる薬草屋【ノート】の
 匂い袋はあっと言う間に見向きもされなくなった。
 更には、稀有な種類の薬草を売れば――――と思い、一月かけてレア薬草収集の
 旅に出た事もあったが、その間にただでさえ少ない固定客が半数いなくなると言う
 泥沼の展開を受け、一度目で心が折れた。
 しかも大した薬草は採れなかったと来た日には、3日程寝込んだフェイルを
 誰も責められはしないだろう。
 と言う訳で、悉く失敗に終わってきた改革だが、このまま現状維持でも
 いずれ薬草屋としての存在意義が失われる事は明白。
 攻めるしかない。
(……季節は夏)
 フェイルはこの暑さに着目した。
 エチェベリアの気候は大陸性と海洋性に分かれており、【トリスタン】は前者に
 該当するので、一年間における気温の差は著しく、四季がはっきりしているのが
 特徴となっている。
 よって、夏には結構な暑さが続く。
 当然、一般市民は涼しさに植えている事だろう。
 人が涼しい思いをするのは、どのような時か?
 水に浸かった時。
 風を受けた時。
 これらは薬草とはなんら関係はない。
 だが、薬草で人を涼しくする方法は――――存在する。
(やった……思い付いた。これで闘える!)
 フェイルは心の中でガッツポーズを繰り返し、早速その為の準備を始めた。


 二時間後――――
「フェイル兄様ー」
「うなー」
 近所の少女と、その飼い猫が薬草屋【ノート】の扉を開けた。
 飼い猫はクルルという名前で、とても品の良い顔をしており、青い毛並みの
 可愛らしい子猫だ。
 少女も猫もフェイルに良く懐いており、この日も客としてではなく、
 遊び相手として訪れた模様。
 そんな少女と猫が、首をクリクリ動かして店主を探していると――――
「はうあーっ!?」
「ふぎゃーっ!」
 同時にある一点に視点が収まり、同時に悲鳴を上げる。
 カウンターの上にある植木鉢から、見るもおぞましい草が生えているのだ。
 噴水を思わせる、中央から全ての方角に放物線を描いたその葉は、
 いずれの先端にも目玉のような物体がついて、植木鉢の周囲に何個も
 ぶら下がっている。
「ふかーっ! ふかーっ!」
「ふえーん! 怖いよー!」
 普段は大人しいクルルが何度も何度も威嚇をする中、少女は全身を泡立たせて
 大泣きしていた。
「あ、ノノちゃん。着てたんだ」
「フェイル兄様のばかー! きらい! わーん!」
「ふかーっ!」
 そして、フェイルが現れると同時に、逃げるように走り去っていく。
 ちなみに、フェイルは同じような種類の草が生えた植木鉢を抱えていた。
 こちらは先端にムカデのような物がついている。
 いずれも高価な食虫植物の一種だ。
 これを見れば、おぞましさで身の毛がよだち、背筋が凍る事は間違いない。
 近所の少女に嫌われてしまったのは何気にショックだったが、
 効果覿面である事は実証されたので、フェイルは確かな手応えを感じていた。
 倉庫で健気に害虫を食べてくれていた食虫植物が、この夏ヴァレロンを震撼させると。
(犠牲は大きかったけど……これが当たれば、【ノート】は蘇ってくれる!)
 心で泣きつつ、フェイルは店頭に食虫植物を並べた。


 そして、その日の午後――――
「すいません、いつものを……きゃあああっ!?」
「フェイルちゃん、こんにちは。いつもの頂戴……いやあああああっ!?」
「どうもー。あの、いつものを下さうぎゃあああああっ!」
 常連客が全員、そのおぞましさに悲鳴を上げて逃げていった。


 薬草屋【ノート】の夕方は、朝同様に静かだ。
 基本、料理に使用するハーブを買いに来る主婦達は昼間に訪れる為、
 この時間帯は再び客足が途切れる。
 黄昏時、と言う訳だ。
 ただこの日は、店だけでなく店主も黄昏ていた。
 この夏を盛り上げる予定だった食虫植物達は、たった一日で大半の固定客を
 恐怖と戦慄の渦に巻き込み、ある意味予想以上の成果を発揮していた。
 皆、今頃は家で寒いくらいにガタガタ震えている事だろう。
 狙い通りだった。
 御購入と言う結果が伴わなかった上に店の評判が失墜した事を除けば。
「どうしてこうなってしまったんだろう……」
 フェイルはカウンターに突っ伏し、頭を抱えていた。
 基本。
 フェイル=ノートと言う人物に、商才はない。
 欠片もない。
 微塵もない。
 粉程もない。
 薬草士としてはそれなりの造詣と経験を有しており、弓兵としては輝かしい実績を
 記録していたが、商売人としての才覚は驚くばかりに欠落していた。
「よーっす……って、なんじゃコリャああああっ!?」
 そしてまた、食虫植物のおぞましさに悲鳴を上げる客が一人――――
「お前、何てモン置いてんだよ。客に逃げられても知らねーぞ」
「出来れば、朝に来て言って欲しかったよ……」
 もとい、客ではなく来訪者が一人。
 フェイルの友人、ハルだ。
 フェイルとハルが実際に知り合ったのは、つい一年ほど前の事。
 傭兵ギルド【ウォレス】に所属しているハルが、この薬草屋【ノート】を
 訪れた事がきっかけで、以降は特に用もないのにフラッと立ち寄るようになり、
 自然と友人関係になった。
 その腕はギルドでも指折りとされる一方、隊長職には興味がないらしく、
 単独での護衛や賞金稼ぎを行っているとの事。
 その割に、性格は一匹狼とは無縁で、人懐っこく、構われないと怒り出す
 面倒臭い一面を持っている。
 そんなハルに、フェイルは今日の出来事を愚痴交じりに語った。
「……今まで何度も言って来た言葉だが、今日も言おう。お前、とことん商人に
 向いてねーな」
 嘆息交じりに呟く言葉には、コケが生えているかのようなジメジメした
 響きがあった。
「わかってるよ、商才がない事は」
「大体、訳のわかんねー事考える前に、まず売れ筋の薬草を揃えりゃ良いんじゃねーか?」
「そう簡単にはいかないんだよ」
 確実に需要のある物――――既に実績があり、人気の高い商品と言うのは、
 どの業界でも大手の量販店が大量に仕入れる。 
 その為、まだ歴史も浅く規模も小さく後ろ盾もない小売店が一定量を仕入れるのは
 難しい。しかも、売れ筋の商品を仕入れる場合、付属として全く売れず在庫処理に
 困るようなシロモノもセットで仕入れなければならないのが、この業界のセオリーだ。
 要するに、いいとこ取りは出来ないシステムとなっている。
「……ほー。商売ってのは難しいんだな」
 大した関心もなさそうな口調で、ハルは感心を示した。
 このハル、最近は暇さえあればこの薬草屋【ノート】に足を運び、冷やかし行為に
 精を出している。
 それはフェイルにとって息抜きの時間となっていたが、この日は余り会話を
 弾ませる気にはなれず、軟体動物のようにカウンターに突っ伏している。
「でな、フェイル。お前のこのどうにも冴えない、いつ見てもつまらねーヘボい店の事は
 この辺で置いといてだ」
「死人に塩塗るのは止めて……」
「冗談だっての。で、ちょっと耳寄りな情報があんだ。聞きたいか? 聞きたいよな。聞けよ」
 ハルの構って欲しくて堪らないと言う不気味極まりない視線が、少しずつ
 フェイルに近付いて行く。
 どうせ耳を塞いでも強引に指の隙間から声を捻じ込んで来る事は明らかなので、
 フェイルは顔を上げて聞く体制を作った。
「なんと、勇者ご一行様がこの街に来るんだってよ」
「……」
 期待など微塵もしていなかったが、それでも既聴の情報をさも得意げに語られるのは
 面白くないもので、フェイルは思わず嘆息した。
「確か三日前にコスタに付いたっつってたから、もう直ぐ到着の筈だ。チャンスじゃん?」
「チャンス……?」
「商売繁盛の、だよ。忘れたのか? 勇者の訪れた店、勇者の購入した商品、勇者の宿泊した宿、
 これみーんな、それまでの数倍、数十倍の売上げになるんだぜ?」
 朝に何度も聞かされた眉唾ものの言葉がここでも飛んで来る。
 当然、フェイルの眉間には更に深く皺が刻まれた。
「なるんだよ! いいか良く聞け。この売りも取り柄も色気もないギルドの窓際で管理職やってる
 中年の成れの果てみてーな店がメジャーになれる最初で最後のチャンスなんだぞ?
 それをボケ〜〜〜っと眺めてるだけなんて、お前が許しても俺が許さねーぞ!」
「いや、許すも許さないも、ここ僕の店」
「まずは商品の強化だな。それから外装もこんなんじゃダメだ。もっと派手派手にしねーと。
 後、呼び込みと掃除と女っ気も……チッ、結構な人員がいるな」
「あの……」
「ヘッ、燃えてきやがった。ここまで気分が煮え滾るのは三年振りだぜ。うっしゃ、今日一日で
 全部やってやろうじゃねーか! はっはーっ!」
「……はぁ」
 フェイルはカウンター内で身を屈め、紫と緑のまだら模様の葉っぱを取り出し、それをハルの
 口に放る。 
「ひぎぃーーーーーいいいきゅぎゃぎょえいぅあーーーー!?」
 それを噛んだ瞬間、不気味な悲鳴を上げ、ハルは一秒間に20回くらいの頻度で顔を
 左右に振り始めた。俗に言う、錯乱状態だ。
「カラフルな色合いが特徴の薬草『プワゾン』。その葉汁には口の中を綺麗にする成分が
 含まれているので、食後にお一つどうぞ」
「にゅが、にゅが……にゅが」
 最後まで何を言っているか不明瞭な中、ハルは気絶した。
 ちなみに、その成分には同時にセロリの1024倍の苦味が含まれているので、売り物にはならない。
 フェイルはこれ以上の客足を絶望視し、入り口の扉にぶら下げた札を『準備中』にした。 
(……勇者か)
 そして再び中に入り、熟考に入る。
 現状を考えると、周囲の声を信じる以外に道は無かった。
 数少ない固定客すら本日失ってしまった可能性のあるこの状態を打破するには、勇者の知名度を
 最大限利用するしかない。
 薬草は本来、旅人が道中の怪我に応急処置を施したり、動物や虫から受けた毒を中和したりする為に
 携帯しておく薬代わりの物。
 もし勇者が購入したとあれば、その効果に対して期待を寄せ、買って行く旅人は増えるだろう。
 治安が良くなったここ数年、世界を駆け回る旅人の数は増加傾向にあると言う。
 それは、観光目的の旅行者であっても、放浪の為に漫然と世界を巡っている冒険者であっても
 同じ事らしく、全体的に人の循環が活性化しているらしい。
(確かに、これが最後の好機なのかもしれない)
 フェイルは決心した。
 この薬草店に勇者が来て貰えるよう、最大限の努力をする事を。
 そして、早速その為の第一歩を踏み出した。
「ふぎゅるっ……う〜ん、あれ? 俺何で寝てるんだ?」
 取り敢えず、寝ていた友人を踏み起こす。
「ハル、勇者の事について詳しく……」
「キサマコラァァ! このドゲスがァァァッ!!」
「わっ、そこまで怒らなくても」
「……いや、俺じゃねーって」
 声の判別が付きにくい、耳を劈くようながなり声だった為にフェイルは気付かなかったが、
 それはハルの声では無かった。
 彼の後方――――扉の開いた出入り口付近に、巨大な筋肉の塊が一つ。
 声の発生源はそれだった。
「フッフッフ……つゥいに見つけたぞゥお、悪の化身ハルゥゥゥ」
 のっしのっしと、床を苛めつつ近付いて来たのは――――その身体付きに良く似合った
 スキンヘッド&ヒゲのゴツイ悪役顔。
 明らかに一般人の様相ではない。
「ここで会ったが百年目ッッ! いや百億年目! 殺す、殺さあ、殺せすとォォ!」
「……えらく知性のない殺意を向けられてるけど、何やったの」
「チッ、上手く撒いたと思ったのに」
 フェイルは、明らかに危機を迎えているにも拘らず全く動じた様子のない友人に対し、
 何となく嫌な予感を覚えた。
「まあ落ち着け、えっと……バケモノ君だっけ」
「誰がバケモノだゥあ! 俺の名前はバモケノ=ソラスだッッ!」
 バモケノと名乗るバケモノは鼻息荒く凄むが、ハルの様子に変化はない。
 ますますフェイルは嫌な予感を深めた。
「ああ、そうそうバモケノ君。いやね、君が怒るのは実に尤もだ。けど、世の中にはだ、
 どーーーっしても仕方がねー事もある。どうだ、ここは一つ笑って許してくれねーか?」
「はっはっはァ! 許さねすとォォ!」
 丸太のような腕を振り回すバケモノに、フェイルは困惑を覚える。
 店内での騒動は商品及び建物の破損に繋がる恐れがある。
 ここは薬草店なので、落ちれば割れる植木鉢が山ほどあるのだ。
「あの。すいませんが店内での営業妨害行為はご遠慮ください」
「あァん?」
「そうだぞ! ここはな、このフェイル=ノートの経営する店の中だ。
 こんなトコで暴れて何か壊したらお前、器物破損で慰謝料ぶんだくられっぞ?」
 フェイルの懇願とハルの補足に対し――――
「そんな事知るかよォ! この店ともどもキサマを潰してやるさァ!」
 バモケノの返答は、脳が筋肉で侵食されている部類の生物と思しき何ら思考の形跡が無い
 反射的な結論を大声で叫んだ。
「やれやれ。しゃーねーな」
「勘弁してよ……」
 嫌な予感は、誰しもがよく当てる事が出来る。
 何故なら、生物は本能的に危機察知能力を備えているからだ。
 しかし、それが防衛手段として成り立つか否かは時と場合のよりけり。
 結局、今回はそれに該当しない事をフェイルは自覚し、頭を抱えた。
「ま、出来れば商品が壊れない程度にしてやっから」
 苦笑しつつ、同時に何処か楽しげに、ハルは背中に固定していた剣の柄を握り、
 鞘ごと手に取る。
 その言葉と様子に、フェイルは思わず目を丸くする。
「ちょっと待ってよ。ここで闘うとか言い出す気?」
「仕方ねーじゃん。あいつデケェから、すり抜けて扉の方まで回るには
 せめて一接触は必要だしな」
「嘘でしょ……」
「死ねすとおおォォォ!!」
 絶望を囁く――――と同時に、バモケノの豪腕が唸りを上げる。
 その右フックは豪快に、しかし正確にハルの左頭部のこめかみに照準が向けられていた。
 意外な事に、ただ腕力にモノを言わせたフックではなく、つま先から腰、腰から肩に
 力が伝導された正しい打ち方。
 明らかに単なるゴロツキではなく、何かしらの格闘技を身に着けている人間の拳だ。
 それに対し、ハルは特に防御態勢は取らず、その代わりに何気ない所作で剣を振った。
 まるで、近くに飛んで来た虫を払うように。
 まるで、頭を掻いた手を下ろすように。
 そんな日常の中で行われるような、緊張感の欠片もないその行動が、この攻防の全てとなった。
「……?」
 ブン、と言う空気を抉る音は、バモケノの拳がもたらしたもの。
 本来、ハルのこめかみを貫く筈だったその手の甲は、遥か上部を空振りし――――そのまま
 仰向けに倒れた。
 床が強烈な振動に見舞われる。
 筋肉の塊は、既に意識を失っていた。
「いや、見事なお手前」
 商品に被害が無かった事に安堵し、フェイルは思わず手を叩く。
 ハルの攻撃は単純だった。
 柄の先で敵の顎先を掠める。
 それだけの事。
 しかし、それを敵の攻撃より後に出し、被弾するより遥か前に達成すると言うのは通常困難を極める。
 ましてそれなりに重量のある剣入りの鞘で行うと言うのであれば、尚更。
 神業と呼んでも差し支えない剣技だ。
「悪いな。昼間、あのバケモノがおちょぼ口で頬赤らめて女口説いてたのを酒場で見てさ、
 大笑いしちまって」
「最低だ……」
 重い吐息を落とし睨みつける店主に対し、ハルは肩を竦め笑顔を作る。
 笑われたからと言って暴力に訴えるのは良くない行為だが、それを問答無用で返り討ちにしてしまう
 と言うのも、人道的には余り褒められた事ではない。
 とは言え、ハルの顔に罪悪感は無い。
 一応、友人の店を巻き込もうとした事に対する防衛、と言う免罪符があるからだ。
 それを全てわかった上で、フェイルは首を左右に振った。
「んじゃま、こいつをゴミ捨て場にでも連れて行ってやるとするか。またな」 
「もう来なくて良いよ」
「そう言うなって。お前、俺がいないと退屈だろ?」
 含みを持たせた言葉――――と言う訳でもないのだが、そんなハルの言葉にフェイルは
 思わず真顔になり、自身の倍はあると思われる体重の男を引きずって行くその背中を見送った。
 次第に、日が暮れていく。
 嵐のような一日が終わり、いつもの通り一人の夜を向かえた店主は、あらためて店内を見渡した。
 普段通りの風景。
 ただ――――その中にはいつも、欠けている物があった。
 それは商品の欠品と言う訳ではない。
 フェイルの中で欠落しているもの。
 正確には、余分なものだった。
 薬草店を構えていれば、いつかそれを取り除く為の物が手に入るのでは、と言う微かな期待を
 フェイルは常に抱いている。
 その余分な物は、フェイルの全てを奪った。
 しかし、今は逆にそれが命綱でもあった。
 除くべきか、このままでいるべきか。
 その答えは、毎日変わっていた。
(……勇者、か)
 心中でもう一度そう呟き、店主の玉座であるロッキングチェアに腰を下ろす。
 勇者――――それがフェイルにとって、薬草屋【ノート】にとってどのような物をもたらしてくれるのか。
 その期待感で胸を膨らませ、暫し椅子の傾く音に耳の奥を揺らしていた。

 



 

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