エチェベリアと言う国がある。
 面積約350,000ku の国土に約550万人の人口を抱える国家で、その大半を
 平坦な【エーチェ平原】が占めており、数多くの農村、街が存在する。
 北部は海に面しており、貿易も盛んに行われている事から、数多くの産業が発達して、
 加工業で生計を立てる家庭がかなりの割合を占めているのが特徴的だ。
 国土の平均高度は170mで、平原地帯は120m。
 中央部はナンナ川の流域地帯で、主に農業が営まれている。
 また、絹織物の生産が盛んで、ニードルレースの需要は世界的に見ても最大級。
 非常に大きな市場を形成している。
 南部には巨大な山脈が走り、それが国境になっているだけでなく、鉱山として
 多くの地下資源を生み出している。
 また、高山ならではの独特な生物体形を見せており、生物学者の間では『宝石箱』とも
 呼ばれている地帯だ。
 地形に恵まれている事もあってか人口は多く、農業、工業共に盛んで、世界的に見ても
 有数の成長率を誇っており、かなり潤沢な土地と言えるだろう。
 主な産業は農業と造船で、農業は小規模な自作農による混合農業でレン麦やカロなどを
 生産している。
 平野が広く、土質にも恵まれているので、良質の物を数多く作る事が出来るのが強み。
 造船は、鉄鉱石などの地下資源が豊富な事もあり、自前の材料で低コストでの生産が可能。
 よって、人も集まるし技術の進歩も早い。
 同様の理由で、武具の製造も盛んに行われており、その手の職人が多く居る事でも有名だ。
「ねえ、フェイル兄様。この葉っぱは何?」
 そのエチェベリアの最北に位置する港町【コスタ】から300kmほど南南西にある、
 大規模な都市【ヴァレロン】。
 その都市の歴史は古く、エチェベリアの最初の統一者【グレベリコフ一世】によって
 エチェベリアで初めての大聖堂が設置され、国の中心に位置する都市トゥールーンと並び、
 エチェベリアの最初の王国【グアルディオラ王国】の中心地の一つだった。
 中心に大きな湖があり、その湖を見に来る観光客も多い。
 王国の中心地が現在の【トリスタン】に移ってからは、東西貿易の中継地として発展し、
 その後は発展の拠点を湖より北へ移動している。
 そこは商業都市として栄え、劇場・闘技場・賭博場・舞踏会場と言った娯楽施設も
 多く建設され、多くの人が集まる賑やかな都市となった。
 現在は湖より南――――大聖堂のある地域を旧市街地、湖より北――――の、商業施設や
 住宅、交通機関と言った都市としての機能を有する地域を『新市街地』と呼んでいる。
「これはね、『ユー』って言う草なんだ。針葉樹で、咳を止める薬に使われるんだよ」
 ここはその新市街地にある薬草屋【ノート】。
 由緒ある――――と言うには程遠い、築4〜5年程のまだ新しい店舗は、窓周りの装飾を
 ロマネスクという流行の様式にしてみたり、あえて古臭いランプを照明に使ってみたり、
 といった具合に工夫の跡は見られるものの、余り雰囲気作りに成功しているとは言い難い、
 微妙な内装が施されている。
 そして、今しがた眼前の幼女に対して薬草の解説を行っていたのが――――店主であり
 唯一の店員でもある、フェイル=ノート。
 この世に生を受けて丁度18年と言う、このエチェベリアにおいては成人男性として
 扱われるギリギリの年齢の男だ。
 温和な表情は、店に遊びに来ている近所の女の子に向けてのものだが、基本的には
 誰に対しても同じような顔をする。
 それは所謂『職業病』と言っても良いだろう。
 若くして店を営む主人となったフェイルは、知らず知らずの内にそんな性質を見に付けていた。
 うなじの辺りで結っている髪は、解けば肩を覆うくらいの長さ。
 長髪にしている事に深い意味はないが、近所の住民にはいつも『鬱陶しいから早く切れ』と
 謂れのない圧力を受けている。
 人柄は――――至って温厚。
 その点においては、店の評判とは関係なく、周囲の人々にも認められている。
 まだ年端も行かない女の子が遊びに来る事に対し、誰も咎めない程度に。
「『ゆー』? 短い名前ー」
「そうだね。覚えやすくて良いよね」
 説明した効能には全く食い付いて貰えなかったものの、フェイルは苦笑すら交えず、
 至って朗らかに少女と接していた。
 無論、この少女は客ではない。
 寧ろ他の客を入り難くさせてしまう存在とすら言える。
 町の人間ならともかく、一見さんにとっては、店員が子供の相手をしている状況と言うのは、
 商品を持って行き辛い、説明をして貰い辛いと言う理由から、余り好ましくは思わないだろう。
 子供好き出ない限り、マイナス効果。
 それでもフェイルは嫌な顔一つせず、少女の相手をしていた。
 そして、そう言う店主だからと言うのもあり――――この薬草屋【ノート】、決して店として
 繁盛しているとは言い難い。
 と言うか、経営危機に近い状況だった。
 そもそも『薬草屋』と言う形態自体、既に時代遅れとなりつつある。
 戦乱の世ならまだしも、もう10年以上も戦争がなく平和な世界となった今、薬草単独で
 商売が成り立つと言うのは夢物語とさえ言える。
 薬草の役割は、主に傷の治りを早める、毒を打ち消す等と言うものだが、日常生活の中で
 薬草を使う機会と言うのは、はっきり言ってそう多くない。
 軽い怪我なら自然治癒に任せるし、重い怪我なら診療所や施療院へ駆け込む。
 毒に関しても同じだ。
 薬草の大きな魅力はその携帯性にこそあるのだが、如何せん家庭ではその恩恵は殆ど必要ない。
 せいぜい、ピクニックに行く際に持って行く程度だ。
 よって、薬草店がこの町で、或いは世界全体において既に流行らない店となってしまったのは、
 無理からぬ話である。
「お客さん、来ないねー」
 そんな事情など知る由もなく、また自身が枷となっている可能性など考える筈もなく、少女は呟く。
 それでも尚、フェイルは苦味一つない笑顔で、静かに首肯した。
「そうだね。来てくれると良いね」
「うん。でも、来なくてもいいかなー」
「そう? どうして?」
 フェイルの言葉に、少女は首を傾け、えへへー、と笑う。
 肩まで伸びた髪が微かにサラサラと音を立て、風の到来を知らせた。
 将来、相当な美貌を備えると予想されるその少女。
 あどけなさばかりのその笑顔は、初めて芽生えた独占欲をとてもしおらしく表現していた。
 お客様は来なくとも、その笑顔で十分満たされる――――等と言う事は無論、ない。
 店を持ち商売をしている以上、それでは生活が成り立たないのだから。
 それでも、フェイルは穏やかに微笑む。
 少女の健気さに癒されたと言うのが、半分の理由。
 そしてもう半分の理由は――――少なくとも『生きて行く』と言う上では、
 まだ幾ばくかの猶予があるからに他ならなかった。
 その猶予とは、すなわち経済力。
 薬草店【ノート】は一切繁盛していない。
 薬草店そのものの将来性も絶望的。
 それでも、フェイルの懐に絶対的な危機感はない。
 何故なら。
 もう一つ、別の収入源があるからだ。
「あ、鳥さんだ」
 少女が窓の方を指差す。
 ガラスもない、木製の扉窓の桟の部分に、真っ白な鳥が降り立つ。
 その嘴には、草が咥えられていた。
「……」
 フェイルが近付くと、その白い鳥は草を店の中に投げ込み、再び飛翔する。
 その草を拾い、一瞥した後、それをカウンター内の下に置いてある箱の中に入れた。
「鳥さんのプレゼント?」
「うん。良く運んで来てくれるんだ」
「へー。偉いね」
 少女は笑う。
 何も知らない、何も知るべきではない純粋な笑顔を向けて。
「そうだね」
 フェイルも笑う。
 決して、同じ種類ではないその笑顔を向けて。


 日が暮れ、少女が帰った後、やはり客足は鈍いまま夜を迎える。
 薬草店【ノート】の閉店時間が訪れ、そして店は本日の役割を終える。
 だが、フェイルは休息もそこそこに、店から出て歩き始める。
 街路灯のない路地裏を通り、明らかに真っ当でない商売をしていると思われる女性と
 二言三言挨拶を交わし、そのまま1時間ほど歩き続け――――辿り着いたのは、一つの家。
 家と言っても、その構えは『館』そのもの。
 この新市街地を統括するビューグラス=シュロスベリーの屋敷だ。
 ヴァレロンの新市街地には数多の巨大建築物があるが、その中でもこの館は非常に敷地が広く、
 一際目立った存在となっている。
 その最大の特徴は――――庭園。
 屋敷の周囲には、巨大な薬草園が存在している。
 薬草園は通常、教会や修道院が管轄する物で、個人で所持するケースは余り多くない。
 施療院や診療所も、教会の薬草を分けて貰ったり、特定の薬草士と契約して定期的に
 届けて貰ったりする事が殆どだ。
 そして、仮に潤沢な土地を持つ医者が自分の診療所の為に薬草園を構えたとしても、
 せいぜい数種類の薬草を育てる程度。
 しかし、この屋敷の周囲にある薬草園は、実に34種類もの薬草の種や苗を植えており、
 その中には一年草もある為、屋敷の周りから緑が消える事はない。
 夜であっても、その生い茂るハーブの香りが薬草園の存在を主張して止まないその場所に、
 フェイルは足を踏み入れていた。
 もう何度目か数える事も出来ないくらいの訪問数。
 それでも、この数多の薬草の匂いがブレンドされて生まれる複雑で芳醇な香りは、
 フェイルに自身の在りし日を思い起こさせていた。
 初めてこの屋敷を踏み入れたのは、10年以上前の事。 
 その時は、純粋な好奇心がその足を突き動かしていた。
 今は――――それとは対極の動機が燃料となって、フェイルの内部で燻っている。
 その行き先は、屋敷の中のある一室。
 門番も、エントランスにいる従者も、フェイルの姿を確認すると、ニッコリと微笑みかける。
 彼等ともまた、10年以上の付き合い。
 フェイルを幼少期から知る従者は、その姿を視界に納めると同時に、まるで我が子を見るかのような
 慈しみの表情を浮かべ、案内もする事なく見送った。
 勝手知ったる屋敷内部。
 部屋の数は一階だけで20を越えるその中を、フェイルは一切迷わずに最短距離で目的地へ向かう。
 そして、とある部屋の前で立ち止まり、ノックを6回。
「失礼します」
 数瞬の魔の後、その重厚な扉を開く。
 その部屋は――――屋敷の主、ビューグラス=シュロスベリーが生活の基盤としている空間だった。
 部屋の3分の1は詰まれた書物でスペースを失い、非常に情報量の多いその場所で、ビューグラスは
 まるで玉座のような椅子に腰掛けている。
 それは、権力の象徴。
 表現方法は数多くあるが、椅子でそれを表す人間は、金よりも権力に傾倒していると言う傾向が強い。
「すまないな。いつも」
 しわがれた声で、謝罪の言葉を述べる。
 ビューグラスと言う人物を、この界隈で知らない者はいない。
 ここ30年の間、薬草学の担い手を務めて来た学者だ。
 既に自らは教育の場を退き、今は学校の経営と教会の管理、そしてこの屋敷で薬草の研究を
 進めている。
 その生涯の殆どを薬草に捧げてきた男。
 その為、子を儲けたのもかなり晩年になってからだった。
 そんなビューグラスの一般人が持つイメージは専ら、厳格。
 もしこの屋敷の人間を除いたこの町の誰かが、彼の口から発せられた愁傷な謝罪の言葉を耳にしたら、
 間違いなく自分の聴覚を疑う事だろう。
「いえ。こちらとしても、ありがたい事ですから」
 そう答えるフェイルの顔は――――昼間の、そして門番や従者に向けた表情とは全く異なる、
 別の種類のものだった。
 目に光は無く、表情には何ら感情が宿っていない。
 まるで別人。 
 そう言われても不思議ではない程の変化だ。
 とは言え、これはフェイル自身にとっては当然の事だった。
 この部屋に入った瞬間から、『仕事』は始まっている。
 この屋敷の住人ですら、殆ど知らない仕事。
 そして、フェイルが経済的に困窮せずに済む理由。
 それは、等号で繋がる。
「今回は、少しばかり厄介かもしれん」
「大物、と言う事ですか?」
 ビューグラスの言葉に、フェイルは無表情のまま問う。
 対照的に、その声には幾ばくかの感情が浮かんでいた。
「標的はキースリング=カメイン」
 そして、それ以上に大きな感情の波を乗せ、ビューグラスは告げた。
 キースリング=カメイン。
 ヴァレロンの新市街地において、ビューグラス以上の権力を持つ宝石商だ。
 この周辺を領地とする貴族、スコールズ家の寵愛を受け、経済力だけでなく市政にまで口を挟む事を
 許された、屈指の権力者だ。
「必要束縛期間は、今日から5日後、そこからの2週間。出来るか?」
「はい。問題ありません」
 即答。
 その返答を受け、ビューグラスの強張った顔が若干和らぐ。
「そうか……ならば宜しく頼む。お前にしか頼めない。『死なれては困る』からな」
「了解しました。では、失礼します」
 雑談一つ交わす事なく、フェイルは部屋を後にした。
 そして、その重厚な扉が閉まると同時に――――大きく息を吸い込み、吐いた。
 既に表情は元に戻っている。
 正確には、その表現は正しくないのだが――――今はと言う条件であれば、それもまた正解だった。
 フェイル=ノートには、2つの顔がある。
 1つは、薬草店【ノート】の店主。
 そしてもう1つは――――
「あら? フェイル。来てたの」
 突然の女声。
 首を90度傾けると、その声の主が視界に入ってくる。
 アニス=シュロスベリー。
 ビューグラスの一人娘であり、フェイルの幼馴染でもあるその女性は、たおやかな笑みを携えて
 小走りに近付いて来た。
 フェイルより2つ年下の、まだあどけなさの残る女の子。
 髪の毛は栗色で、フェイルより少しだけ短く揃えている。
 顔立ちは父親とは全く似ていない。
 厳つさは微塵もなく、大きな目を爛々と輝かせている。
 薬草学者の娘だが、どちらかと言うと料理の方に興味を覚え、薬草園の一部を借りて
 栽培の難しい野菜や果物の育成に情熱を注いでいるらしく、偶にフェイルもその料理の『実験』に
 借り出されていたりしていた。
「丁度良かった。今から蠅捕草の姿煮を作るところだったの。味見して行って」
「……遠慮しておくよ。って言うか、蠅捕草を料理するって言う発想、もう消した方が良いんじゃない?」
 頭を抱えつつ、フェイルは首を横に振る。
 アニスの料理の腕は、決して悪くない、
 寧ろ年齢からしたら抜群と言う評価でも問題ないだろう。
 問題は、その探究心が妙な方面に向いている事にある。
 誰も作らない、独創的な料理を――――その心意気や良し。
 だが、明らかに食用でない物を片っ端から試すと言うのは、最早料理ではなく実験だ。
 そしてその被害を受けるのは、いつもフェイルだった。
「何言ってるのよ。料理は挑戦なの。発酵って言う技術だって、魚介類を食べる習慣だって、最初に
 生み出したり口にしたりした人のとても勇気のある行動によって一般的になったのよ?
 私もそう言う未知からのスタンダード、生み出したいの!」
 熱弁。
 間違っている訳でもないのだが、それならばそこに発生する危険因子は自分で処理するのが
 筋と言うものなのだが――――フェイルはそれを指摘せず、苦笑するのみに留まった。 
「兎に角、今日は忙しいから付き合えないよ。またの機会に、ね」
「えーっ。折角コトコト良い感じで煮込んでるのに。よくわからない酸とか出て来て良い感じなのに」
「頼むから、野良犬や野良猫に毒見させて大騒動を起こしたりしないでよ。この前も大変だったんだから」
 幼馴染のこれまでの数々の問題行為を思い出し、フェイルは溜息を落とす。
 基本、金持ちの家に育った箱入り娘と言うのは、世間の事には疎い。
 ただ、常識を身につけているかどうかは親の教育次第で、とても常識的な者もいれば、
 驚くほど常識知らずの者もいる。
 晩年の一粒種として過剰な愛を注がれたアニスは、言うまでもなく後者だった。
 これでも、フェイルの長年の努力によって、大分マシになった方なのだが――――
「大丈夫よ。流石に屋敷外の動物は良くなかったって、私も反省したの。
 丁度この屋敷、天井裏にネズミがいるって事忘れてたし」
「ネズミもダメだってば。生きとし生ける者、むやみに殺しちゃダメ」
「殺す気なんてないの! 失礼な事言わないでよ!」
 しかし実際、当時の野良犬や野良猫は完全に瀕死だった。
 フェイルの調合した薬草がなければ、彼等は誰にも供養される事なくその存在をこの世から
 抹消されていた事だろう。
「でもま、フェイルがそう言うなら、ネズミも止めておく」
「そうしてくれると嬉しいよ」
「……」
 ぷい、とアニスは視線を逸らした。
 フェイルはその様子に苦笑しつつ、踵を返す。
「本当に用事があるの? ゆっくりしていけば良いのに。もう夜なんだし……」
「うん、ありがと。でも忙しいから。また今度、遊びに来るよ」
「……わかった。じゃ、その時にはネズミの炭火焼きをご馳走するね」
 殺る気満々だった。


 一風変わった幼馴染と別れ、フェイルは来た時と全く同じ時間をかけて店に戻る。
 既に店の片付けは済んでおり、後は休むだけ――――の筈だった。
 だが、夜のお仕事が入った以上、そう言う訳には行かない。
 フェイルの夜の仕事。
 それは、所謂『暗殺』の部類に入る内容だった。
 ただし、同時に暗殺とは対極の位置付けでもある。
 何しろ、殺しはしない。
 絶対に殺さない――――それが、フェイルの信念であり、同時に強みでもあった。
 仕事内容は、依頼者に指定された相手を期日以内に『行動不能』の状態にする事。
 殺さず、一定の期間だけ身動きが取れない状態を作る。
 それが、フェイルの役目だ。
 通常、こう言った仕事はまず暗殺者が請け負う。
 ただ、彼等は確実に殺す事が流儀。
 殺さないと言うフェイルの仕事とは正反対だ。
 しかし、それ以外の部分は同じ。
 こっそりと、誰にも知られる事なく、標的を仕留める。
 そして、その依頼主の動機に関しては一切聞かない。
 その見返りに、大量の報酬を得る。
 だからこそ、フェイルは生計を立てる事が出来ていた。
 ちなみに、一回の仕事で得られる仕事の報酬額を、年間の薬草の売り上げが超えた事は
 これまでに一度もない。
 それでも尚、この薬草店に拘る理由が、フェイルにはあった。
 同時に、暗殺まがいの仕事を副業に留めておく理由も。
「……」
 ごく微量の息を吐き、フェイルは薄汚れた布袋を空ける。
 そこには、弓と矢が入っていた。
 弓は、長年愛用しているライトボウ。
 胴の部分は金属で作られており、弦は羊の腸で作られた特製品だ。
 名前はない。
 世界に一つだけ、フェイルだけが持つ弓だからだ。
 一方、矢の方は安価で市販されている木製のありふれた物。
 全部で12本あるが、その中の2本を取り出し、それをカウンターの上に置く。
 昔――――まだこの店にフェイルがいなかった頃。
 エチェベリア宮廷弓兵団に、その名前が記録されていた時期が僅かにあった。
 宮廷弓兵団とは、弓を扱う兵士の憧れとも言える、最高の、そして最強の弓使いの集団。
 選りすぐりの実力者が、国の為にその弓を引き、王族を、そして国民を守ると言う
 目的で結成された部隊だ。
 フェイルは、その部隊加入における最年少記録を作った。
 しかし、僅かな期間で除名。
 その理由に関しては、一切公にはなっていないし、フェイル自身他人に話した事はない。
 ただ、これだけは言える。
 フェイルは紛れもなく、国内最高クラスの弓兵だった。
「……」
 弓を握る度、その頃の思い出が蘇るのは、ある意味仕方のない事。
 そう割り切り弓を置く。
 そして、店の奥にある倉庫の中へと向かった。
 そこに在るのは、数々の薬草と――――毒草。
 毒草もまた、売り物だった。
 勿論、一般人に対して売る事はない。
 研究の為にと、学者や学校関係者が定期的に購入する分だ。
 その毒草の中から、フェイルは2つの草を手に取り、店の中へ戻ってくる。
 そして、擂鉢の中に2種の毒草を千切り入れ、擂粉木で念入りに擂り始めた。
 目的は、矢に塗る毒を作る為。
 この毒が、標的を殺さず、行動を不能にする為の鍵となる。
 フェイルの仕事は、毒を塗った矢で標的を射抜く事ではなく、掠らせて毒を回す事だ。
 それによって、死には至らないものの、行動不能となる期間を作る。
 その期間の長さは、毒の種類と程度によって決める。
 その為には、相手が男か女か、年齢と体型がどのくらいか、と言った情報も必要だ。
 ただ、今回は有名人が相手なので、改めて調べる必要はなかった。
 そして、その毒をどの程度回らせるかは、矢の当て方も重要となってくる。
 射抜いては駄目。
 どの程度皮を裂き、肉を抉り、血管に触れさせるか。
 それで成功するか否かが決まる。
 フェイルはこれまで、一度も失敗した事がない。
 だからこそ、幼馴染の父親はお得意さんとなっている。
 この町の権力者であり、大きな野心を持った薬草学者。
 しかし、フェイルにとっては依頼主以上のものではない。
 無論、目的を聞く事もない。
 それがこの仕事の最低限の礼儀だ。
(……よし)
 毒を塗り終え、一息吐く。
 そして、就寝。
 襲撃は当然、依頼を受けた当日には行われない。
 まず情報ギルドで標的となるキースリングの1日の行動を探って貰う事が必要だ。
 そこから襲撃場所と時間を決め、陣取る。
 通常は、外出の途中が最も狙い易い。
 貴族や王族でもない限り、四六時中何人もの護衛を付ける者はいないので、
 物陰から狙えばまず間違いなく成功する。
 ただ、標的とされる者の中には、それを自覚する者も当然いる。
 そう言う相手は、自宅で油断している所を狙うケースが多い。
 窓を開けていれば、問題なく狙える。
 それも難しい時は、一日中張って、隙を窺うしかない。
 普通、弓使いは夜は行動出来ないが、フェイルにはそれを可能とする武器があった。
 だからこそ、この仕事が出来る。
 それはありがたくもあり、恨めしくもあった。
 ともあれ、今回のケースは比較的難しい部類に入る仕事となった。
 キースリングと言う宝石商、普段は移動に馬車を使い、降りる時も常に周囲に
 護衛を付けている。
 しかし、建築物内では比較的自由に動きたがるようで、そこに隙はあった。
 決行は、依頼から4日後。
 1日早い分は、矢の当て具合で調整可能だったので、問題はなかった。
 フェイルが襲撃場所に選んだのは――――標的の営む宝石店。
 新市街地の中央部に大きく構えた店で、主に高級な宝石とアクセサリーを
 揃えており、貴婦人達や女性への貢物を見繕う下品な富豪で客足は絶えず、
 かなりの利益を出しているようだ。
 そんな宝石店の2階で、キースリングは良く寝泊りしている。
 自宅よりこちらで一夜を過ごす事が多いようだ。
 彼は夜、女性と過ごすより、宝石を愛でている時間の方がお好みらしい。
 無論、その鑑賞室は密閉されている。
 ただ、廊下の窓は夜になっても開いたまま。
 今は夏場なので無理からぬ事だ。
 その窓から15m程離れた民家の屋根の上に、フェイルはいた。
 口元を布で隠し、髪の毛も束ねずに下ろしている。
 当たりは暗闇。
 普通なら、フェイルの姿に気付く者はいないが、念には念を入れての事だ。
 しかし同時に、普通ならフェイルの目にも宝石店の様子は窺えない。
 廊下の灯りは点いていると思われるが、窓の付近に都合よく灯りがあると言う
 事もなく、かなりうっすらと窓の輪郭が確認できる程度だ。
 それで、十分だった。
(……さて、いつ来るか)
 フェイルの狙いは、キースリングが厠に向かう時。
 その窓を横切る一瞬で、決着を付ける。
 窓の幅はせいぜい1m弱。
 15m先からそこを狙うだけでも、普通はかなり難しい。
 それを、窓から標的の姿が覗き、消えるその2秒程度の時間で仕留めなくてはならない。
 しかも、暗闇の中で。
 流石に、フェイルはこの仕事を『少し困難』と認識していた。
 逆に言えば、『少し』程度。
 何故なら、彼には暗闇をほぼ無効化する武器があるからだ。
 それは――――目の中。
 フェイルの左目は、夜行性の鳥のように、夜であっても獲物を捉える事が出来る。
 そして、右目は狩りをする肉食の鳥のように、遥か遠くでもはっきりと物を捉える事が出来る。
 左に梟の目、右に鷹の目。
 フェイルは、その2つの目を持っていた。
 これが、彼を国内屈指の弓兵にした最大の理由だ。
「……」
 フェイルは屋根の上で静かに弓を引き、その体制のままで獲物の到来を待つ。
 1時間。
 2時間。
 静寂の中、虫の鳴き声だけが響く夜空を頭上に、ただひたすら待つ。
 そして、月明かりに微かな雲が掛かったその時――――その一瞬で、全てが終わった。
 窓の向こうに現れた人影を、梟の目で感知。
 刹那、弦を離す。
 この日、鷹の目の力は必要なかった。
 弦が震えると同時に、矢はキースリングのうなじを掠め、壁に矢先をめり込ませた。
 成否は、呻き声でわかる。
 激痛と言うほどの大声ではなく、寧ろ突然うなじに発生した刺激に驚くような声。
 仕事は無事、終了した。
「ふう……」
 大きく息を吐き、撤退。
 屋根から下りるその顔に、満足感や充足感は欠片もない。
 それでも、フェイルは生きて行く為、片足を闇の中に突っ込む。
 この日もまた、その感触に言いようのない不快感を覚えながら。


 客足の少ない薬草店とキナ臭い世界の片隅で糊口を凌ぐ、18歳の青年。
 その転機は確実に近付いているのだが――――今のフェイル=ノートに、それを知る術はない。
 ただ静かに、今日と言う日を乗り切った事に微かな安堵感と罪悪感を覚え。
 優しい時間に身を委ねるように、眠りに更けて行くのだった――――



 

 chapter 1. 


- owl & hawk -





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