御前試合までの残りの50日は、フェイルにとって、熾烈を極める日々の連なりとなった。
 磨耗するのは、体力や精神力だけではない。
 牛革で作った、比較的丈夫な筈の靴も、あっと言う間に磨り減り、穴が開いてしまった。
 連日の走り込みに加え、近距離戦の為の訓練として、弓を構えながら前後左右に
 細かく動く動作を繰り返し行っており、特に爪先の磨耗が激しく、新調した靴は
 あっと言う間に使い物にならなくなった。
 そして、七足目の靴に大きな穴が開いた、残り20日となった日の夜。
 フェイルの元に、正式な御前試合の参加通達が届いていた。
 第一試合。
 対戦相手は、当然――――トライデント=レキュール。
 元々は別の弓兵が相手となる予定だった。
 その相手には気の毒な事をしたと言う綺麗事を心の奥に仕舞いつつ、
 自室のテーブル上に散乱した、手垢の付いた対戦相手の資料に改めて目を通す。
 とは言え、自分で調べた情報しか書いていないので、新たな情報はない。
 若干17と言う年齢で、王宮騎士団【銀朱】に入隊。
 隣国【デ・ラ・ペーニャ】とのガーナッツ戦争以降、大きな戦乱のない時代において、
 僅か5年で分隊長に上り詰めた最大の理由は、言うまでもなく――――槍術の腕。
 通常、槍のような使用者の背丈と同等、場合によってはそれ以上のリーチを
 誇る武器を使用する場合、機動力は大きく損なわれる。
 元々、本来は突進してくる動物を相手にする際、より強力で、より長い武器をと
 開発された武器。
 その後、対人、それも白兵戦に使用する武器として適正を得た要因は、
 その自重がもたらす破壊力だ。
 余り技術を有しない兵でも、両手で槍を持ち、突進すれば、ある程度の攻撃力となる。
 槍と言う武器が普及した最大の理由だ。
 その為、必ずしも槍の使い手は、技術に長けた者ばかりではなかった。
 馬上で使用する武器としての役割が増え、馬上槍試合が定着した後には、
 更に白兵戦における槍の意義を、より狭義なものへと変えた。
 が――――槍は生き延びた。
 白兵戦に使用する武器として、槍はその地位を絶対的なものとした。
 その背景にあるのが、槍術の発展。
 打突、刺突が基本の形だった槍術に、剣のような斬撃、或いは棒術のような打撃、
 更には回転などの戦術が加わった。
 加えたのは、常に時代の寵児となった、武の天才達。
 彼らが槍術の可能性を広げ、更にその技術の発展が新たな武器を派生させた。
 戦斧や戦鎚だ。
 槍の先端に斧や槌を配する事で、槍とは全く異なる戦いが出来るようになった。
 その結果、槍自体の存在感も増した。
 可能性のある武器だと証明され、多くの者が手に取り、その可能性を追求した。
 トライデントもまた、その申し子の一人だ。
 弓矢の可能性を広げようとしているフェイルにとって、槍と言う武器は、いわば『先駆者』。
 つまり――――フェイルにとって、トライデントは敵であると同時に、
 お手本である武器の専門家と言う事になる。
 もし、その男を弓矢で倒す事が出来れば、それはただの一勝に留まらない。
 先人を越えると言う、歴史的快挙となる。
 落とす訳には行かない。
 負ける訳には行かない。
 フェイルは何度も何度も、自分にそう言い聞かせ、眠れない夜を明かした。


「どうした、随分と動きが悪いな」
 残り10日に差し迫ったその日、デュランダルは自室で大の字になって横たわるフェイルに
 愛剣を担ぎながら近付いた。
 息の乱れる様子はない。
 今尚、フェイルはその師に対して何一つ動揺を与えられずにいた。
「……色々ありまして」
「重圧を感じるのも、良い経験だ。だが、今のままでは敵の前に立つより先に
 その重圧に潰されてしまうぞ」
「ですね。こんなの、初めてです」
 寝不足は、ここ数日解消された試しがない。
 食事も喉を通らない。
 口の中が常に乾いている。
 身体が重い。
 足が重い。
 息が直ぐに切れる。
 これまでに感じた事のない、様々な負の症状が、フェイルを蝕んでいた。
「戦場が闘技場の外にあった頃は、皆こう言うものと戦ってたんでしょうか」
「試合と殺し合いは、似て非なるものだ。重圧の種類も違う。場合によっては、
 今のお前が感じている重圧の方が苦しい事もある。命のやり取りよりもな」
 デュランダルは、まだエチェベリアが今のような平静の世でなかった時代に
 戦場を駆け回った、戦争世代。
 その経験に裏づけされた言葉は――――重い。
「残り10日。それを克服出来なければ、お前に勝ちはない。
 そして、試合が近付くにつれて、重圧はより大きくなるだろう。逃げ場はないぞ」
「……覚悟、しておきます」
 天井を見上げながら、動かない身体を呼吸で律動させ、フェイルは目を細めた。
 

 そんな、師匠の言葉はやはり正しかった。
 残り5日に迫る頃、フェイルの体調は更に悪化していた。
 身体が動かない。
 疲労ではなく、明らかに強張りが原因だった。
『こんな筈じゃない』
 その苦虫のような歯痒い思いは、集中力も奪う。
「どうしたどうした! 5連続で的を外すなんて、らしくないぞ!」
「もっと的の奥を見ろ! 的の更に先を撃つ感覚で狙え!
「いや、的の手前だ! 的まで半分の距離にもう一つ的を頭の中で作って
 その的を射抜くイメージで狙え!」
 先輩方の助言が飛び交う中、フェイルの意識は徐々に溶けて行った。
 疲労。
 重圧。
 そして――――不安。
 多くの苦痛が、心を溶かす。
 そして、意識をも溶かす。
 五感が薄れ、浮遊感すらも感じる中で、延々と矢を射った。
「……」 
 そんなフェイルの様子を、アバリスは険しい顔で見守っていた。
 

 残り、3日。
「ご指導……ありがとうございました」
 副師団長室で、崩れ落ちるように倒れ込んだフェイルは、その後全く身動きせず、
 暫くして寝息を立て始めた。
 もう、腕も上がらない。
 弓を構える事すら満足に出来ない中、その弓を手に握ったまま、夢の中へその身を預けていた。
 普段の何処か背伸びした顔と違い、その寝顔は、歳相応のあどけなさを残している。
 後ろ髪がかなり伸びているので、そのうつ伏せの姿だけを見れば、まるで少女のようだった。
「失礼するぞ……と。これはまた、随分絞ったな」
 その副師団長室を訪れたガラディーンが、フェイルの寝姿に思わず瞼を落とす。
 明らかに、100日前とは体型が変わっていた。
 元々線の細いその身体は、更に細く。
 一見、不治の病を煩っているように見えるほど、ゲッソリと痩せ細っている。
「賭けでした。白兵、それも槍を相手に、本当に接近戦を行うのであれば、
 身のこなしを最低基準にまで引き上げなければ、勝負にもならない」
「その賭けの結果が、この姿か」
「大した男です。必ずしも、優れた才に恵まれている訳ではないが……
 一瞬たりとも音を上げず、辛うじて辿り着いた」
 目を細めながら、デュランダルは愛弟子を褒めた。
 眼前の男が、そう言う言葉を嫌う人間である事を知っていたガラディーンは、
 驚きを禁じえない。
 王宮騎士の中で、誰よりも禁欲的で、誰よりも完璧主義。
 そして誰よりも、自他に厳しい男。
 剣士の弟子を取らない理由は、どんな才能豊かな人間であっても、
 潰してしまうから――――それがガラディーンの解釈だった。
 その男が、畑違いの少年に『師匠』と呼ばせている事を知り、当初は
 懐いている仔犬を放置しているようなものと思ったものだと、
 そんな回想に脳を焦がす。
 そして、それが誤りであった事を、あらためて理解していた。
「まだ15の少年に、重圧を乗り越えろと言う方が無謀。極限まで身体を苛め、
 重圧を感じる本能すらも、疲労で麻痺させたか。それで潰れてしまわない事を信じて。
 そして、それに全身全霊を込め、応える……素晴らしい師弟関係ではないか」
「……」
 デュランダルは瞑目し、その顔を窓の方に向けた。
 ガラディーンは微笑みつつ、寝息を立てるフェイルに、自身のマントを被せる。
 身分の関係上、城内では必ず着用しているが、実はガラディーンは余り
 マントを身に付ける事は好きではなかった。
「勝算は?」
 その剣聖が、唐突に問い掛ける。
 デュランダルは振り向き、その氷のような目をそのままに、答えた。
「ありません」
「そうか……お前が言うのなら、間違いないのだろうな」
 フェイルの対戦相手であるトライデントの実力を、二人は必ずしも全て見た訳ではない。
 だが、一流の先にある彼等の感覚が、既にその実像を捉えている。
 見解は、一致していた。
「敗れれば、この男は王宮を出るでしょう。そう言う男です」
「夢は夢……か」
 これまで、数多くの平民が、この王宮に招かれ、兵士としてそれを追った。
 そして、その殆どは、時に折れ、時に摘まれ、そして潰えた。
 今までその光景を幾度となく見てきた二人だからこそ――――やはり、その言葉は重かった。
「だが、『絶対に勝てないようになっている』からこそ、別の視点で言えば、
 何かが起こる可能性もない訳ではない。違うかな?」
「その通りです。そして、この男はその努力をもって、その可能性を残した」
「心情としては、見せて欲しいものだよ。この前途多難な若者が、それでも
 光り輝く、その姿を。お前もそう思うからこそ、敢えてこの場所を
 訓練所にしたんだろう? ここなら、誰に見られる事もない。某以外には」
「……」
 デュランダルは、眠り続ける弟子にその目を向ける。
 ただ静かに。
「私はただ、この不幸な子に、強くあって欲しかっただけです」
 告げるその目は――――まるで銀仮面には似つかわしくない、慈しみに満ちていた。


 極度に積まれた全身疲労が、2日間の休養で全て抜ける事はなく。
 十足目の靴の裏に樹脂を薄く塗ったフェイルは、まだ全身に気だるさを
 感じながら、小さく溜息を落としていた。
 その場所は――――御前試合出場兵士、控え室。
 王宮内に設置された闘技場には、二つの控え室がある。
 当然、対戦相手同士が戦いの前に出くわさない為だ。
 第一試合に出場するフェイルがそこにいると言う事は、まだ試合が始まっていない事を意味する。
 とは言え、既に開会式は終了しており、後は係員の呼び出しを待つだけ。
 全員、自分の世界に入って、集中力を高めている中、フェイルは疲労感もあってか、
 意外と日常に近い感覚でその瞬間を待っていた。
 そして、それがデュランダルの狙いだった事に、なんとなく気付く。
 精神と肉体のバランスを考えた結果、この状態が最高の体調であると判断した、と。
 苦笑しつつ、小さく嘆息。
 それは同時に、深呼吸でもあった。
 このような、公式の場で戦いに挑む経験は、フェイルにはない。
 準備は万端。
 大きな保護の中で、死力を尽くして、技術と身体と精神を用意した。
 だが、重圧と緊張は、必ずしも克服できた訳ではない。
 今は落ち着いていても、いざ戦いの場に赴けば、どうなるか――――それは、わからない。
 そして、この戦いは、ただの御前試合ではない。
 フェイルにとっては――――全てを賭けた試合になる。
 弓矢の生き残りを賭けた戦い。
 王宮での生き残りを賭けた戦い。
 父親代わりの、もうこの世にいない恩人との約束を果たす為の戦い。
 師匠や仲間に貰った期待と恩を無碍にしない為の戦い。
 そして――――もう一つ。
「……」
 フェイルは手荷物の中から、一つの封筒を取り出した。
 それは、クトゥネシリカからの手紙。
 同梱されていた指輪の意味は、未だにわからずにいる。
 手紙の中にも、それに言及する内容は含まれていなかった。
 ただ、その手紙の中身は、紛れもなく『もう一つ』の理由となるものだった。
「フェイル=ノート。時間だ。入場ゲートへ」
「……はい」
 弓を握り、矢筒を担ぎ、腰を上げる。
 御前試合は、極力血を流さないよう、それぞれの武器には殺傷力を落とす為の
 処置を施している。
 フェイルの場合は、矢の先端をカットし、刺さらないようにしていた。
 この場合、空気抵抗が強まる為、本来の矢より走りが弱くなる。
 ただ、それはトライデントの槍に関しても同じ。
 フェイルは意を決し、両手で自分の頬を張った。
「頑張って来いよ!」
「応援は出来ないが、健闘を祈る」
「一戦目、景気良く良い試合をして来てくれ」
 同じ控え室の戦士達が激励をくれる中、フェイルはその全ての言葉に頷き、
 一度目を閉じ、そして開くと同時に意識を集中させ、ゲートまでの道を歩き出した。
 足取りは、堅い。
 それは自分自身でも自覚できる程の堅さ、そして重さだった。
 身震いする程の、重圧。
 沢山の思いが、力となり、同時に力みも生む。
 フェイルはこの時間を、何度も何度も想像していた。
 果たして、御前試合という大舞台に挑む直前の自分は、何を考え、どんな心を持って
 闘いへと赴くのか、と。
 その答えは、いずれの想像とも違っていた。
 思い返していたのは――――クトゥネシリカの手紙だった。
 



 フェイル=ノートへ

 この手紙がお前の元へ届く頃には、自分等はもう新しい生活を送っているだろう。
 とても平和で、長閑な暮らしが待っている。
 フレイアにとっては、王宮より遥かに良い環境だ。心配には及ばない事を先に言っておく。

 さて。
 自分がこのような手紙を認めるのが苦手である事は、お前も知っている通りだ。
 自分は、心を形にする事が苦手だ。だから、気に食わない事もあるだろうが、最後まで読んで欲しい。

 自分が王宮を去る事になった経緯は、お前なら詮索せずとも想像出来ている事と邪推する。
 だが、一つ間違えないで欲しいのは、これは自分が望んで出した結論だと言う事だ。
 間違っても、自分とフレイアの事で、誰かを責めないで欲しい。

 正直に言えば、後悔はある。充実感や満足感を得られるものは、何一つ残せなかった。
 剣の世界で、女の身で伸し上がると言う目標は果たせず、無念の極みだ。

 だが、それは本音ではないのかもしれない。
 正直に告白すると、自分は戦う理由を、自分の野心ではなく、妹に預けていた。
 妹を傍に置く事で、妹に偏見を持つ者と闘い、その上に立ち、妹が誇らしく思う
 姉になりたかったのだろうと、今にして述懐する次第だ。

 自分は、フレイアの目に自分の姿が映らない現実が、ずっと怖かった。
 果たして、フレイアは自分の事をどう思っているのか。
 目に見えぬその姿を、頭の中でどう映し出しているのか。
 だから、強く在りたかった。強さを誇示したかった。目の見えないフレイアの、希望の光で在りたかった。

 フェイル=ノート。お前はお前の大切な人の為に戦っていると言った。
 それは立派だ。だが、同時に脆くもある。
 自分がそうであったように、戦う理由を他人に委ねれば、いつか何処かで瓦解する。
 理由は幾つあっても良い。だが、その中に一つ、大きな柱を作れ。
 そしてそこには、他人ではなく、自分の欲求をそのままに刻むと良い。
 最後に自分を支えるのが自分ならば、決して倒れはしない。
 支えられる事に、何一つ遠慮が要らないのだから。
 それで結果的に悪の道へ走る者も多いが、お前ならその心配は必要あるまい。

 自分は、お前が妬ましい。
 デュランダル様に目を掛けられたお前が妬ましい。
 あの王宮で飄々と生きられるお前が妬ましい。
 御前試合に出られるお前が妬ましい。
 そして、自分は、お前に感謝している。
 フレイアに優しく接してくれたお前に感謝している。
 戦う理由を明かしてくれたお前に感謝している。
 唯一の平等な話し相手となってくれたお前に感謝している。
 自分を、女の剣士として認めてくれたお前に、感謝している。
 だから、差し引き、ひとつだけ。

 ありがとう。

 願わくば。
 この餞別が、友人の一助とならん事を。




 そう。
 これは――――『友人』を侮辱した男を、倒す為の戦い。
 そう言う意味もある。
 最後にそれを心の中に積み上げると、自然と力みが増していた。
 それなのに、強張らない。
 この王宮に来て、今が最高の状態だと、フェイルはそう確信した。
 緊張と期待の中、後ろ髪を紐で結いながら、入場ゲートの扉が開くのを待つ。
 程なくして、鈍い音と共に、遮っていた壁が上部へと消えていった。
 準備は整った。
 全てを賭けて。
 全てを込めて。
 そして、全てを解き放って。
 歓声が高まる中、光に包まれたその場所へ、歩みを進めた。






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