100日と言う時間は、長いと言うには短過ぎ、短いと言うには長過ぎる。
 フェイルがそれを実感したのは、その半分の50日が経過した時点だった。
 毎日が、訓練と訓練の往復。
 その日々は確実に、フェイルの身体を侵食していた。
 蝕み、そして軋む。
 それが果たして、吉と出るのか、凶と出るのか――――
「今のところは、五分五分と言ったところだな」
 自室で息を切らしながら天井を仰ぐフェイルを眺めつつ、デュランダルは
 物静かに鞘に収まったオプスキュリテを机に乗せた。
「疲労の蓄積が、致命的な怪我を呼び込むか。それとも、肉体の矯正を完遂するか。
 いずれにせよ、これからも綱渡りの日々が続くだろう。疲労は必ず抜いておけよ」
「……あの、全身くまなく筋肉痛なんですけど……これ、大丈夫なんですか……?」
「バランスよく鍛えられている証だ。六分四分に訂正しよう。喜ぶと良い、順調だ」
 そんな恩師の到底喜べない発言に、フェイルは起立をもって応えようとしたが、
 それすらも敵わない。
 弓使いは、通常このように全身が疲労するような鍛錬を行う事はない。
 それは、接近戦を研究していたフェイルであっても、例外ではなかった。
 下半身を強化すると言うのは、以前からある程度意識していた事だったが、
 首の筋肉まで鍛えるよう言われた時は、流石に不安を感じずにはいられずにいた。
 それでも、言われた事を忠実にこなし続けているのは、フェイルのデュランダルに
 対する信頼に他ならない。
 強さを求める姿――――求道者としてのデュランダルは、その国内最高峰と言われる
 剣の技術以上に、フェイルには凄絶に映っていた。
「弓兵の訓練も、怠らないように。以上だ」
「ご指導、ありがとうございました……」
 這うようにして、副師団長室を出る。
 毎日が痛感の連続だった。
 自分がどれだけ、緩い日常を過ごしていたか。
 弓矢で接近戦を、と言う考えが、どれだけ甘かったか。
 それを反芻しつつ、射的場へと辿り着く。
 弓兵訓練所とも呼ばれるそこは、毎日多くの弓兵が合同訓練を行う場。
 フェイルにとっては、鬼門とも言える場所だった。
 だが、デュランダルとの約束がある以上、ここに訪れない訳には行かない。
 弓兵としての訓練は、デュランダルに絞られたフェイルの身体を更に絞り上げる。
 終わる頃には、心身共にボロ布のような状態で、そのまま眠りに付く事も多い。
「……ご指導、宜しくお願いします」
 そんなフェイルの来訪に、宮廷弓兵団隊長アバリス=ルンメニゲの目がゆっくり動く。
 腕組みをしながら、後輩の構えをチェックするその眼力は、一種独特のものがあった。
「今日も同じだ。中に入って、タイミングを合わせて射的。少しでも遅れていると
 判断したら、外周10週。自己判断だ」
「はい。わかりました……」
 特に首周りを気にしつつ、フェイルは弓兵達の輪の中へと加わる。
「おう。今日も出席か。元気じゃないか」
「……絶対そうは見えてないでしょ」
 先輩達の軽口に半眼で答えつつ、粛々と訓練を行う。
 フェイルの射撃は――――完璧とは程遠かった。
 呼吸を合わせ、同時に射るその時宜も、コントロールも、速度も、全てにおいて
 他の弓兵に劣っていた。
 それは当然。
 僅かな呼吸の乱れや体調不良が多大な影響を及ぼすほど、射撃と言うものは繊細な動作。
 今のフェイルに、それを正しく行える要素は何処にもない。
 弓兵としての素養以前の問題だ。
「……外周、行って来ます」
 それでも、フェイルは何一つ不平不満を口にする事なく、弓と矢筒を担いだまま、走った。
 走って、走って――――気付けば、日が傾いた空を仰ぎながら、只管走っていた。
 そして、最後の一周を走り終えたフェイルを待っていたのは、訓練所の壁に揺れる
 幾つかの炎と、変わらず腕組みしたまま虚空を眺めるアバリスの姿だった。
「……ご指導、ありがとうございました」
 そのアバリスに頭を下げ、帰宅の途につこうと弓を担ぎ直す。
「はぐっ……痛……」
 それだけの所作が、倒れ込みそうになるほどの激痛を首と肩にもたらした。
「残り、50日だ。そのザマでトライデント様と勝負になるのか?」
 そんなフェイルに、唐突な質問が飛んで来る。
 思わず倒れ込みそうになるほど、それは意外な科白だった。
 これまで、アバリスがフェイルに対し、御前試合の話題を振って来た事は一度もない。
 関心がないか、自分を差し置いて選ばれた後輩に怒り心頭なのか……それすらも
 考えられないほど疲弊していたフェイルは、返答に迷い、暫し沈み黙す。
「……今のままじゃ、最高の体調で挑んでも勝ち目はないって、師匠が言ってました」
「デュランダル様がそう言うのなら、間違いあるまい」
 アバリスの言葉に、フェイルは瞼を落とす。
 ただでさえ苦手な相手が、いよいよ牙を剥いて来るのか――――そう思い、身構えようと
 心を起こしてみたものの、中々奮い立たない。
 それくらい、フェイルは疲れていた。
「腕は順調に伸びているのだから、焦る事はないぞ。残り50日、根性で耐え切って見せろ。
 今こそ、根性の見せ所だぞ、フェイル=ノート」
 その疲労感が、脱力感へと移行して行く。
 フェイルは、思わず耳を疑った。
 自分の意識が確かなら――――今聞こえたのは、紛れもなく激励の言葉。
 それは、あり得ない事だった。
 アバリスが上司となってから、初めての事。
 そして同時に、あり得ない事ではなくなったと言う事も、理解した。
「……そうですよね。僕が善戦しないと、この宮廷弓兵団の肩身がますます狭く
 なりますからね」
「誰がそんな事を気にしろと言った? バカものが」
 が――――その理解も、あっさりと却下されてしまった。
 思わず、疲労困憊の身体を引きずるように、振り向く。
「貴様は、宮廷弓兵団の代表として試合場に立つ。それはつまり、宮廷弓兵団が
 そこへ立つのと同義。貴様がそこで惨敗を喫したならば、それは宮廷弓兵団が
 惨敗したのと同じ事……とでも思っているのか」
「ええ。だから、激励してくれてるんでしょ?」
 フェイルの言葉に、アバリスが大きく嘆息する。
 だが、そこに嫌味や皮肉は微塵もない。
 心底呆れ、そして苦笑を見せていた。
「貴様が敗れたなら、それは弓兵団がそれだけの者しか輩出できなかったと言う事だ。
 我等は、結果を受け入れるのみ。貴様は、自分の為に戦うのだろう。
 そのままであれば良い。余計な事は考えるな」
 いつも、大声で怒鳴っていたアバリスの姿からは、想像もつかないような
 粛然とした雰囲気に、フェイルは思わず息を呑む。
「……えっと、つまり……」
「ただの応援だ。捻くれ者めが」
 そして、ついには疲労の事すら忘れ、視線の所在を探し、キョロキョロと
 射撃場内を見渡した。
 感情をどう収めていいか、わからずに。
「嫌われてる、って思ってました。あれだけ露骨に避けてたし」
 フェイルは、自覚していた。
 自分の行動は、このアバリスを始め、宮廷弓兵団全体にとって、大きな裏切りであると。
 史上最年少の宮廷弓兵として、高い評価を得ての入隊。
 だが、その本人は、団体での訓練に一切の興味を示さず、和を乱し、遠ざけた。
 そして、そんな一匹狼が、御前試合の出場者に選ばれた。
 溝は決定的な深さになり、二度と修復できない。
 そう思い込んでいた。
 そうでなければおかしいと、そう確信していた。
「確かに貴様は、口も悪いし礼儀もなっていない。栄えあるエチェベリア宮廷弓兵団に
 相応しいとは言い難い」
 そんなフェイルに、アバリスは優しくも厳しくもなく、話す。
「が、貴様は我等の中の誰より、弓を愛している。矢を愛している」
 ただただ、温かく。
「その一点において、皆が貴様を嫌う理由などない。それが弓使いと言うものだ。違うか?」
「……違いません」
 若干の間は、迷いではなく、感情の整理に使った時間。
 何故なら、フェイルもまた、そうだから。
 フェイルもまた――――彼等を嫌いにはなれなかったから。
 誰より弓を、矢を愛する者が、その弓矢を自分の得物に選んだ人間を、どうして
 嫌う事が出来るだろうか。
 だから、フェイルは困っていた。
 悩んでいた。
 そんな居心地の良い場所にいれば、直ぐに堕落してしまう。
 自分を鍛える事を、自分の築くべき姿を、自分の歩むべき道を、忘れてしまう。
 その危機感とのジレンマで、日々苦悩していた。
 だからこそ、距離を置いた。
 嫌われるような発言をした。
 特にこのアバリスに対して。
 或いは――――デュランダルに見抜かれていたように、アバリスにもまた見抜かれて
 いたのかもしれないと、フェイルは素直に思った。
「宮廷弓兵団の代表として、精一杯戦って来ると良い。骨は拾ってやろう」
「拾わせませんよ。代わりに、名誉と誇りをくれてやります」
「フン、ぬかしおるわ」
 残り50日と言う、節目の日。
 フェイルは一つ、心強い力を得た気がした。


 そんな、思わぬ収穫があった日の翌日――――
「お届け物だぞ」
 フェイルの寝泊りしている小屋に、郵便物を届けに王宮騎士団【銀朱】師団長、兼
 国内最高の称号『剣聖』がやって来た。
 尚、剣聖が郵便配達人を務めたというのは、前代未聞の珍事である事は言うまでもない。
「……あの、体裁悪いんで止めて貰えませんか。誰か見てたら、僕打ち首ですよ」
「はっはっは。偶々配達人と重なってな。で、どうだ? 訓練は進んでいるのか?」
「師匠が言うには、順調だそうです。僕は朝起きる度に絶望してますけど。身体の
 どの部分を動かせば30分以内で身体を起こせるか、なんて事を本気で考えなきゃ
 いけないこの現状に」
 郵便物を受け取りながらのフェイルの本音に、ガラディーンは愉快そうな苦笑を
 浮かべていた。
「デュランダルが順調と言うのであれば、間違いはあるまい。続けて精進すると良い」
「……どいつもこいつも」
「どうした?」
 いえ、と返事をしつつ、フェイルは嘆息を禁じえずにいた。
『どいつもこいつも』の中に、自分が含まれている事の滑稽さを踏まえて。
「で、泣く子もひきつけ起こす剣聖殿が、一体このボロ小屋に何の用ですか?」
「人を鬼のように言うでない。寧ろ、仏心でやって来たまでだ」
 ガラディーンの顔から、朗らかさが消える。
 フェイルは郵便物の封筒をテーブルに置き、更なる言葉を待った。
「フェイル。槍と言う武器を相手にした経験は?」
「……ありません」
「ふむ。槍は剣の次に普及している接近戦用の武器ではあるが、この王宮内には
 余り使い手がおらぬからな。無理もない話だが……今のままでは、かなり不利だぞ」
 それに関しては――――フェイルも、不安材料の一つとして自覚はしていた。
 トライデントの得物は槍。
 現在、デュランダルを相手に訓練を行っているが、そのデュランダルが使用している
 剣が幾ら長くても、槍とは根本的にリーチに差がある。
 それは、フェイルにとって脅威以前に、未知の世界だった。
「ヤツの事だ。何かしら考えは持っているだろうが、そろそろ槍を意識した訓練も
 取り入れるべきだろう。どうだ? もし望むならば、今から指南をしてやろうと
 思っておるのだが」
「……良いんですか? トライデントってお方、貴方の右腕候補って言われてますけど」
 明らかに、直属の部下。
 その部下の対戦相手を指南するとなれば、単純に敵に塩を送ると言う問題には
 留まらない。
 何しろ、ガラディーンには派閥がある。
 彼自身は関与していなくても、彼の行動の影響力は計り知れない。
 自身の部下の敵、そしてデュランダルの弟子を指南したとなれば、大問題に
 発展する事は間違いないだろう。
「今のままでは、何も起こらず仕舞いだ。それでは、陛下の興も削がれると言うもの」
「成程。適度に強くあれ、ですか」
「そう言う事だ。ただ、もし何かの弾みで君が勝つ事があれば……それはそれで、
 御前試合も盛り上がろう。ついでに言えば、個人的な見解として、少々生意気で
 可愛い友人が勝利すると言う結果ならば、何ら不満などあろう筈もない」
 ガラディーンは、そんな惚けた科白を吐きつつ、一旦小屋を出て――――
 やけに長い棒を一本、担いで来た。
 槍ではなく、棒。
 しかも、所々に突起物が見える。
「……あの、さっきの科白は凄く感動したんですけど、その棒の暴力的なフォルムで
 あっと言う間に台無しですよ」
「気にする事はない。そして時間もない。表に出て間合いを取れ」
 溜息を落としつつ、フェイルは言われるがままに外へと出向いた。
 幸い、近くに人はなく、気配も感じられない。
 目撃者の心配はないと判断し、目測から間合いを計る。
 ガラディーンの持つ棒は、そのガラディーンの身長より長い。
 2mはある。
 それを見越し、剣士を相手にする際より1mほど長めの間合いを取り、構えた。
「そこで良いのか?」
「はい」
「なら、終わりだ」
 フェイルは、そんな何気ない剣聖の言葉を聞き返そうと、口を開いた――――
 その刹那に、自分が構えた足場を離れて転がっている事に気付いた。
 その直後、額に激痛が走る。
 そして、転がり続けて近くの木に激突する頃に、ようやく自分が何をされたのか
 理解した。
 棒による打突。
 その踏み込みの速さは、デュランダルに匹敵する。
 得物の重さを考慮すれば、或いはそれ以上。
 剣聖ガラディーンの恐ろしさを、フェイルは初めて実感した。
「いっ……痛ーーーーっ! ちょっ、何すんですかいきなり!」
「今のが、槍の厄介な点だ。理解出来たろう」
「出来るか! 気付いたら小突かれてましたよ!」
「そう。それが重要な点だ。覚えておけ。では、そろそろお暇するよ」
 指南と言うには、余りに乱暴で、余りに短時間。
 揚々と引き上げるガラディーンに、フェイルは悪態とお礼のどちらを言うべきか
 判断がつかず、沈黙のまま見送った。
「……ん?」
 そして、小屋に引き上げようとした際、足元に凹凸が出来ている事に気付く。
 地面が、抉れていた。
 一人の戦士の踏み込みで。
「野生動物並のパワーだな……」
 呆れつつ、凹んだ場所を確認し、自分の構えた位置との距離を計ってみる。
 2m――――を、やや超えていた。
 見込みよりも、長い。
「……いや、違う」
 そこでようやく、フェイルは気付いた。
 槍と言う武器の性質を考えれば、それは当然の事だった。
 槍は、突きによる攻撃が基本。
 一方の剣は、薙ぎ払いや振り下ろしがスタンダード。
 そこには、必然的に腕の長さによるリーチの差が生まれる。
 腕を伸ばしきった突きと、畳んだ薙ぎ払いでは、当然前者がより長いリーチでの
 攻撃となる。
 ガラディーンは、それを教えたかったのだろう。
「……ありがとうございました」
 若干ふて腐れつつも、フェイルはその抉れた地面に頭を下げ、小屋へと戻った。
 そこで、郵便物が届いていたことを思い出す。
 封筒には、フェイルの名前しか記されておらず、差出人が誰なのかはわからない。
 不審に思いつつも、開けてみる。
「……指輪?」
 その中には、小さな指輪と。
 クトゥネシリカからの手紙が入っていた。






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